第11話 冬まで百二十日
ロズフェルド領の北端は、王都の人間が想像するよりも遥かに過酷な環境にあった。
急峻な山々に囲まれたその地域は、秋の終わりには重い雪雲に閉ざされる。一度深い雪が積もってしまえば、春の雪解けまで馬車はおろか、人の足でも峠を越えることは不可能となる。物理的に完全に外界から遮断された陸の孤島と化すのだ。
「……現在の在庫と、収穫見込み量をどう計算し直しても、足りません」
近隣の行政審判会から帰還した翌朝、エレナに対し、領の帳簿係であるミナは、真っ青な顔で一枚の計算表を突きつけた。
「特に北端にある『アルト村』と『リューネ村』です。第六倉庫の横領によって冬用備蓄の買い付けが遅れた影響が、最も深刻に現れています。今の備蓄ペースでは、初雪が降る前に食糧が尽きます」
「初雪までのタイムリミットは、あと何日?」
「過去十年の気象データから予測して……約百二十日です。その間に、二つの村の全村民が春まで食いつなげるだけの麦と薪を運び込まなければなりません」
エレナは小さく息を呑み、机に広げた領の地図を睨みつけた。
百二十日。数字にすれば四ヶ月弱だが、冬支度のための物資を山奥へ大量輸送するには、あまりにも短い時間だった。
翌朝、エレナは領主館の会議室に、領主代行であるマルグリットと、実務を担当する役人たちを緊急招集した。
ミナが配った悲観的な数字の羅列を見て、古株の役人たちが渋い顔で口々に言い始める。
「これは厳しい。だが、領の金庫にも余裕はない。例年通り、アルト村とリューネ村には『配給を二割減らして冬を耐え忍ぶよう』通達を出すしかあるまい」
「そうですな。各家庭で節約に励んでもらうしか、この苦境を乗り切る術はありません。再建官殿も、まずは『支出を抑える』のが再建の基本だとお考えでしょう?」
彼らは長年、赤字に苦しむロズフェルド領で「耐えること」だけを強いられてきた。だから、問題が起きればすぐに「下々に節約させる」という思考に陥ってしまう。
だが、エレナは彼らの提案を冷ややかに一刀両断した。
「反対です。配給の削減は行いません」
「な、何を言っておられる。無い袖は振れませぞ!」
「無いのではありません。計算上、すでに限界まで切り詰められている生活費をさらに二割も削れば、節約ではなく飢餓に直結します。極寒の冬をカロリー不足のまま過ごせば、老人と子供から確実に凍死します。……私たちは再建のために数字を合わせているのであって、領民を死なせて帳尻を合わせるつもりはありません」
エレナの静かだが強い語気に、役人たちは押し黙った。
マルグリットが、扇で口元を覆いながら問いかける。
「ヴァレント再建官。あなたの言うことはもっともですが、ではどうするおつもりですか? 魔法で小麦を生み出すことなどできませんよ」
「節約ではなく、物流網の再構築を行います」
エレナは地図の上のアルト村とリューネ村を赤いインクで丸く囲んだ。
「既存の運送業者だけでは、百二十日で必要な物資を運び切ることは不可能です。近隣の領地からも馬車と馬を借り受け、北端への専用の輸送ルートを新設します。そして、初雪が降る前に、必要な備蓄を一気に運び込む『集中輸送作戦』を決行します」
「ば、馬鹿な! 他領から馬車を借り受けるなど、どれだけの金がかかると思っているのです!」
「分かっています。ですが、守るべきはこのアルト村とリューネ村の領民の命です。タイムリミットは百二十日。この制限時間内に、必ず物流網を作り直します」
エレナは退路を断つように宣言し、会議を締めくくった。
――しかし。
会議を力強く乗り切ったものの、エレナの執務室の机の上には、解決しがたい巨大な壁がそびえ立っていた。
資金である。
第六倉庫の不正を正して浮いた資金は、あくまで「通常の買い付け」を補うためのものに過ぎない。新しい物流ルートを開拓し、他領から馬車をチャーターし、大量の物資を一度に動かすための「初期投資」の金が、圧倒的に足りなかった。
「……駄目ね。領内の税収を前倒しで徴収しても、まだ三割足りない。どこを削れば……」
頭を抱えて呻くエレナの耳に、静かなノックの音が響いた。
現れたのは、首席監査官エドガー・レインだった。彼はエレナの机の上に散乱する計算用紙を一瞥すると、長椅子に深く腰を下ろした。
「北端の二村が危機的状況にあるそうだな」
「……監査院は耳が早いのですね」
「帳簿の動きを見れば、素人でも分かる異常事態だからな。百二十日で物流を再構築する宣言は立派だが、肝心の資金はどうするつもりだ?」
エドガーの容赦ない問いに、エレナは唇を噛んだ。
「現在、予算の振り替えを検討しています。領主館の修繕費や、来春の催事予算をすべて凍結して……」
「焼け石に水だ。そんな小手先の節約で生み出せる額ではないだろう」
エドガーは冷徹に事実を突きつける。慰めるつもりなど毛頭ないらしい。
「候補の一つは、王国の『追加補助金』を申請することだ」
「追加補助金……」
「国庫庁が管理する、緊急事態用の予備資金だ。災害や突発的な危機に見舞われた領地に対し、一時的に下付される。これを使えば、君が立案した物流網の再構築に必要な資金は、即座に手に入る」
それは、喉から手が出るほど欲しい即効性のあるカードだった。
だが、エレナはすぐに飛びつくことはしなかった。相手はあの冷徹監査官だ。美味しいだけの話を無条件で持ってくるはずがない。
「……そのカードを使うことの『副作用』は、何ですか?」
エレナが警戒感を露わにして尋ねると、エドガーは微かに満足げに目を細めた。
「安易な追加補助は、猛毒だ」
エドガーは低く凄みのある声で告げた。
「ロズフェルドはすでに補助金への依存が大きい。追加分を来年も必要とする計画なら、中央の使途指定から抜け出せなくなる。補助を受けることと、毎年補助がなければ回らない仕組みを作ることは、分けて考えるべきだ」
「……」
「即効性のある資金を得て、一時的に領民を救うか。それとも、中央依存のリスクを避けて、自力でこの冬の飢餓に立ち向かうか。……追加補助の例外条項の要件は満たしている。申請の権利は君にあるが、どうするかは、君自身が決めろ」
エレナは深く息を吐き出し、地図上のアルト村とリューネ村を見つめた。
このままでは、確実に人が死ぬ。中央の干渉を恐れて領民を見殺しにするなら、何のための再建官か。今年を生き延びなければ、来年はないのだ。
だが、エドガーの言う通り、漫然と「食糧を買うお金をください」と申請すれば、ロズフェルド領は来年も同じ申請を繰り返すことになる。
(……なら、依存しなければいい。今年だけの『投資』に限定すればいいのよ)
エレナの頭の中で、数字と論理が急速に組み上がっていく。
「レイン首席監査官。追加補助金の申請を行います」
エレナは毅然と顔を上げて宣言した。
「ただし、食糧そのものを買うための消費予算としてではありません。新しい馬車の購入、他領との永続的な運送契約の締結、そして雪に強い中間中継所の建設。……つまり、来年以降は二度とこの補助金が不要になるための『インフラ整備投資』に限定した折衷案として申請します。そうすれば、国庫庁も永遠に補助金を垂れ流すリスクを避けられるはずです」
ただ金をもらうのではなく、自走するための起爆剤として利用する。
その見事な回答に、エドガーは静かに立ち上がった。
「……いいだろう。首席監査官として、その申請案の適法性を確認する」
エレナはペンを握りしめ、覚悟を決めて白紙の申請書に向かった。
もちろん、責任者欄に記載するのは『エレナ・ヴァレント』という自分自身の名前だ。その重みを噛み締めながら、彼女は王都の国庫庁へと提出する緊急予算の書類を作成し始めた。




