第12話 緊急予算を請求する
ロズフェルド領主館の執務室には、深夜になってもランプの明かりが灯り続けていた。
机の上には王国法規集や過去の判例録、そして計算用紙が散乱している。エレナはインクで汚れた手で羽ペンを握りしめ、国庫庁へ提出するための『緊急追加補助金』の申請書と格闘していた。
隣の席では、ミナが眠い目を擦りながら各項目の予算を弾き出している。
「エレナ様……本当に、この論理で国庫庁の審査が通るのでしょうか」
ミナが不安げな声で尋ねた。彼女の手元にあるのは、エレナが構築した『折衷案』の予算表だ。
通常、飢餓や災害を理由とした緊急補助金は、食糧そのものを購入するための『消費予算』として下付される。だが、エレナはその名目を一切使わず、代わりに『雪道対応型馬車の新規購入費』『北端への中間物資拠点の建設費』『他領からの冬季借上げ馬車の運行費の初期費用』という、物流網を構築するための『投資予算』として申請書を書き上げていた。
「通さなければならないわ。ただ『食糧を買うお金をください』と泣きつけば、エドガー様の言う通り、来年も同じ不足を繰り返しかねない」
「はい……」
「私たちが申請するのは、あくまで『今年、新しい物流インフラを整えるための初期費用』よ。これさえ完成すれば、来年以降は領の通常税収の範囲内で冬の備蓄を回せるようになる。つまり、国庫庁にとっても『来年以降は追加の金を出さなくて済む』という強力なメリットがあるの。例外条項の第三項、『将来的な国庫負担の軽減に資する恒久的な設備投資』という枠組みになら、この計画は必ず当てはまるわ」
エレナの言葉には、実務家としての確かな裏付けがあった。
彼女はセドリックの影で働いていた六年間、侯爵家がどのようにして国から有利に補助金を引き出していたか、その申請のからくりをすべて見てきた。どの費用に根拠を求められ、何を説明しなければ差し戻されるか。その点なら、経験があった。
白み始めた窓の外から、小鳥のさえずりが聞こえ始めた頃。
ついに、分厚い申請書の束が完成した。
エレナは最後のページ、申請責任者の欄に、かすれることのない力強い筆跡で『ロズフェルド領再建官 エレナ・ヴァレント』と、自分自身の名前を署名した。
数時間後。
仮眠もそこそこに、エレナは完成した申請書を抱えて、監査院の仮執務室の扉を叩いた。
「レイン首席監査官。国庫庁へ提出する緊急追加補助金の申請書を作成いたしました。適法性の確認をお願いします」
机に向かっていたエドガーは、エレナの目の下にできた隈を一瞥したが、労いの言葉はかけなかった。ただ無言で書類の束を受け取り、鋭い視線を紙面に落とす。
彼が確認するのは、この申請が王国法の規定を満たしているかどうかだ。
もしエレナの論理に少しでも飛躍や甘さがあれば、彼は容赦なくこれを突き返すだろう。沈黙の時間が執務室に降り積もり、エレナは微かな緊張とともに彼の青い瞳の動きを追った。
一枚、また一枚とページがめくられる。
やがて、エドガーの手が止まり、彼は顔を上げた。
「……消費ではなく、投資への限定。例外条項第三項の適用。来年以降の自立を数字で証明した費用対効果の算出。……見事だ」
エドガーの口から漏れたのは、純粋な感嘆の息だった。
「ただの赤字補填であれば、国庫庁は必ず使途に厳しい制限をかけてくる。だが、この『インフラ投資への例外適用』という論理なら、彼らは首を縦に振らざるを得ない。中央への依存を今年一年に限定するという君の意志が、明確に数字に表れている」
エドガーはインク壺に羽ペンを浸した。
「論理は通っている。数字の根拠にも矛盾はない。王国法が定める例外条項の適法要件を完全に満たすものと認める」
彼は申請書の最終ページ、監査院による確認欄に自らのペンを走らせた。
『適法性を確認。王国監査院首席監査官 エドガー・レイン』
流麗で力強い署名だった。
書き直した申請書の余白には、調べた条文と費用の内訳が小さく残っていた。
エレナは自分の申請欄と、彼の適法確認欄を見直した。役割の異なる二つの署名が並んでいた。控えを残し、封印便へ託した。
国庫庁への到着後、受付番号だけが通信所から届いた。認証付きの魔法通信は、こうした短い通知を急いで伝えるためのものだ。計算の内訳や決裁者の署名は、封印便の原本で確かめる。
発送から五日後。
王都の国庫庁から、厳重に封印された決裁書が特急便でロズフェルド領へと返ってきた。
エレナ、ミナ、そしてエドガーとヨハンが立ち会う中で封が切られる。
結果は『承認』。
申請した予算が、一銭の減額もなく全額下付されることが確定したのだ。
「やりましたね、エレナ様!」
「ええ……これで、新しい運送業者と契約できる。冬に間に合うわ」
ミナと手を取り合って喜ぶエレナだったが、その書類の末尾を見たエドガーの眼差しが、スッと細められたのに気づいた。
「レイン首席監査官? 何か問題でも?」
「……いや。最終承認者の署名が、想定していた局長クラスではなく、次官本人のものだっただけだ」
エドガーが指し示した決裁書の末尾には、重厚な筆跡で『国庫庁次官 ラウル・ヴァンデル』と記されていた。
その名前に、隣にいたヨハンが「おや」と眉をひそめる。
「ラウル次官自らハンコを押したとは。ヴァレント再建官の論理構成が、よほど国庫庁の上層部で議論を呼んだのでしょうね」
「ラウル・ヴァンデル……どのような方なのですか?」
エレナが尋ねると、ヨハンは少しだけ声を潜めた。
「国庫庁の事実上のトップです。彼は『家単位の責任と信用』を絶対のルールとして重んじる、旧体制の権化のような御仁でしてね。個人名義の改革や、平民上がりの役人が力を持つことを『国の統治を壊す』と心底嫌っている思想の持ち主です」
ヨハンは、決裁書の『エレナ・ヴァレント』という個人の署名と、ラウルの署名を交互に見比べた。
「伯爵令嬢とはいえ、ハルベルク侯爵家という後ろ盾を失った一個人が、これほど巨大な予算を動かす論理を組み上げた。次官殿にとっては、さぞかし不快で、かつ無視できない書類だったはずです。承認はされたものの……彼に『目をつけられた』可能性は高いですね」
個人の功績を家名に吸収することで社会を回してきた旧制度の体現者。
その巨大な影が、書類の署名という形で初めてエレナの前に姿を現した瞬間だった。
だが、エレナは怯まなかった。王都の権力者がどう思おうと関係ない。この予算の承認によって、ロズフェルド領の領民が冬を越すための最大の武器が手に入ったのだ。
「目をつけられようが、予算が下りた事実に変わりはありません」
エレナは決裁書を丁寧に折り畳み、ミナに向き直った。
「ミナ。すぐに入札の準備に入って。東地区、南地区、そして近隣領の全ての運送商会に声をかけるわ。一刻も早く、一番安くて確実な業者と契約を結ばなければならないから」
「はいっ、ただちに手配します!」
冬まで残り、百十四日。
資金という壁を越えたエレナを待ち受けていたのは、予算の臭いを嗅ぎつけて群がる商人たちとの、新たな戦いの幕開けだった。




