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婚約破棄は承りました。私の仕事まで、あなたのものではありません~冷徹監査官は私を囲わない~  作者: 他力本願寺


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第49話 必要だからではなく、望むから

審査院の裁定から数週間が過ぎた、晩秋のロズフェルド領。


 特別再建委員会の対策本部に置かれた二つの机のうち、片方の机からは、監査院が使っていた書類や法規集がすっかり姿を消していた。


 監査院を辞し、肩書きも特権もすべて手放したエドガーは、今はただの『エドガー・レイン』として、次の仕事を探しながらこの領地に滞在している。公開済みの書類を整理する手伝いはしても、委員会の決裁や機密記録には触れない。


 官職のない朝にも少しずつ慣れた頃、二人にそれぞれ通知が届いた。


「……王都の、地方自治体連合からだ」


 エレナに届いたのは、ハルベルク家の精算に関する通知だった。命じられた契約分の返還手続きが進み、補助事業への参加停止も続いている。


 六年分の功績を奪われた怒りが、なかったことにはならない。けれど、もう彼の返事を待って自分の仕事を止めることはなかった。


 同じ綴りには、倉庫火災後の記録復元の完了報告もある。出火原因は特定できず、談合側の放火と断定する認定もなかった。推測を事実として書き加えず、残った記録で裏づけられる範囲を確定する。それも、終えるべき仕事だった。


 通知を綴じた時、向かいでエドガーが私便を開いた。


 彼は、封を切って中身に目を通すと、少しだけ驚いたように目を瞬かせた。


 向かいの机で帳簿と格闘していたエレナが、顔を上げる。


「地方自治体連合からですか?」


「ああ。地域監査制度の整備について、私個人への打診だ。君の委員会へは、マルグリット殿たちへの精算が済んだという受領確認も預かっている」


「打診……もしかして、お仕事の依頼ですか?」


 エレナが身を乗り出すと、エドガーは苦笑しながらその書状を彼女の机に滑らせた。


 エレナは文面に目を走らせ、感嘆の息を漏らした。


 そこには、国庫庁や監査院といった中央集権的な組織に依存せず、地方の各自治体が連携して相互に財務を審査するための『地域監査制度』をゼロから整備したいという構想が記されていた。そして、その立ち上げの責任者として、夏の終わりの特別公聴会で、組織側の不備も記録に基づいて説明したエドガーを招きたい、とあった。依頼主の代表は、あの場で証言を聞いていたという。


「素晴らしいですわ、エドガー様! これは、家名や中央の権力に依存しない公正な仕組みを作るという、あなたの人生の目標にこれ以上なく合致するお仕事ではありませんか!」


「……そうだな。だが、これは中央の監査院長代理という地位とは比較にならないほど、小さく泥臭い組織になる。当然、待遇も地位も以前よりはるかに下がるし、制度を根付かせるために、当分は各地方を回る過酷な巡回生活になるだろう」


 エドガーは、静かな声で現実的な条件を並べた。


 エレナは書状の末尾にある俸給と旅費の条件も読んだ。地位を手放した代償は、新しい仕事が来れば消えるものではない。官舎も専用の馬車も、ここにはなかった。


 だが、今のエドガーの瞳には、逃げの色は微塵もなかった。


「……私は、この仕事を受けたい」


 エドガーは真っ直ぐにエレナを見据え、一歩、彼女の机に近づいた。


「そして、君にも言っておく」


 彼の声は低く、熱を帯びていた。


「今の私には、君を守るための権力も、誇れるような地位もない。この仕事を受ければ、巡回のために家を空けることも多くなる。……それでも、私は君との暮らしを諦めたくない」


「エドガー様……」


「君に仕事を捨てて、私の巡回についてきてほしいとは言わない。君の仕事が続くことを、私も望んでいる。だが、私は君と共にいたい。私がどこへ行こうと、最後は必ず君のいる場所へ帰る。……だから、君も私のそばにいてほしい」


 途中で言葉を引っ込めず、彼はエレナの答えを待っていた。そばにいたいと、これほど真っ直ぐに言われる。それが嬉しくて、胸が苦しかった。


 エレナは胸の奥から溢れ出す愛おしさに耐えきれず、満面の笑みを浮かべて立ち上がった。


「もちろんです。私も、特別再建委員長としての仕事は絶対に手放しませんわ」


 そう力強く宣言すると、エレナは机の引き出しから、新しい白紙の羊皮紙と、広域の地図を取り出して広げた。


「では、話し合いましょう。互いの仕事を尊重しながら、私たちが共に生きるための『計画』を」


「計画、だと?」


「ええ」


 エレナは羽ペンを手に取り、嬉々として地図に印を書き込み始めた。


「あなたは地域監査制度の整備で、西から南へと巡回することになる。私は再建委員長として、各領地の冬支度と物流の確認のために、定期的に王都と地方を往復します。……となれば、お互いの移動経路が最も効率よく交差するのは、この中央部にある宿場町『セルデン』です」


 エレナは宿場間の日数を指で辿った。エドガーも椅子を寄せ、仕事の打診に添付された予定表を広げる。


「セルデンに私たちが共に帰るための家を借りましょう。私の出張の日程と、あなたの巡回ルートをあらかじめ擦り合わせておけば、移動日を差し引いても、うまく重なる月は二週間ほど一緒に過ごせそうです。忙しい月はもっと短くなるでしょうけれど。すれ違う時は手紙を出しましょう。家賃は二人の給金から出せる額で探して、分担も決めませんか」


 地図に引いた二本の線が、セルデンで交わった。まだ探してもいない家の食卓が、エレナには少しだけ見えた気がした。


 呆気にとられていたエドガーは、やがて、耐えきれないというように肩を震わせて笑い出した。


「……かなわないな。君は本当に、私が誇る最高の実務家だ。……家を探す話まで、一緒にできるとは」


「不満ですか、元・首席監査官殿?」


「いや。私は窓の広い家がいい。君が明るい場所で本を読めるように」


 エドガーは笑みを含んだまま、エレナの腰に腕を回し、その身体をそっと自分の方へ引き寄せた。


 彼女が手にする羽ペンが机にコトンと置かれ、二人の距離がゼロになる。


 エドガーはエレナの耳元に唇を寄せ、甘く囁いた。


「……だが、本音を言えば二週間では足りない。空いた休暇を、君と合わせてもいいか」


「ふふっ。では、私も休暇願を出さなくては」


「仕事を減らせるわけではないが、休みまで別々に過ごす理由はないだろう」


 真剣な声で休暇の相談をする彼に、エレナはくすくすと笑い声を漏らした。


 彼が監査院長代理というトップの地位を失ったことは、確かに大きな代償だった。その損失は、無かったことにはならない。


 だが、その痛みを抱えたままでも、二人はこうして新しい生き方を見つけることができる。


「エドガー様」


 エレナは彼の広い背中に腕を回し、その胸に顔を埋めた。


「あなたの権限で救っていただくために、一緒にいたいのではありません」


「……ああ。私も、役に立つことを一緒にいる条件にはしたくない」


「ええ。私にとって、あなたはもう仕事に『必要』だから隣にいる人ではありません」


 エレナは顔を上げ、彼の青い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


「私が、あなたと生きたいと『望む』から……あなたと一緒にいるのです」


 エドガーが息を吐き、エレナの額に自分の額をそっと寄せた。彼の腕が強まった分だけ、エレナも背中に回した手へ力を込めた。


 エドガーはエレナの後頭部にそっと手を添え、その言葉ごと、彼女の唇を深く、甘く塞いだ。


 窓の外では、長い冬の始まりを告げる冷たい風が吹いていたが、二人が寄り添う執務室の中だけは、春のように温かく、確かな希望に満ちていた。

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