第48話 誰の功績か、誰の責任か
和解案を断ってから三日後の朝。静寂に包まれた独立審査院の法廷に、カーン、と乾いた木槌の音が響き渡った。
「これより、独立審査院における本件の適用停止に関する裁定を申し渡す」
中央に座る審査院の長が、威厳に満ちた声で議場に告げた。
証言台に立つエレナと、傍聴席にいる国庫庁のラウル次官、そして監査院評議会の幹部たちの間に、目に見えないほどの極度の緊張が走る。
「第一に。エレナ・ヴァレント特別再建委員長より提出された各地の実働記録、ならびに独立保全局から回付された内部通報の封印記録を精査した結果。国庫庁が緊急穀物令発動の根拠とした『全国不足データ』には、意図的な欠落と偽装が含まれていたと断定する」
「……っ!」
ラウル次官の顔から、さっと血の気が引いた。
「第二に。監査院評議会が、該当のデータ不整合に関する内部通報を『審査前の証拠保全』と称して封印し、必要な回付を止め続けた行為は、組織的な隠蔽に当たると認定する。……以上二点をもって、緊急穀物令はその発動要件を満たしていない違法な執行であったと結論づけ、ただちに本令の『適用停止』を命じるものとする」
木槌が、再び重々しく打ち鳴らされた。
エレナは、膝の上で握りしめていた手を開いた。
議場は一瞬の静寂の後、どよめきと感嘆の声に包まれた。
命令は認証付きの通信で、国庫庁と各地の支払窓口へ送られた。凍結された委員会口座の使用が再開され、二村の残量も訂正される。
エレナは連絡所へ戻り、優先順位が戻ったことを確かめてから、待機中の輸送担当者へ発送を依頼した。村に近い倉庫からなら、その日のうちに届けられる。
夕刻、ミナから荷受け完了の報告が来た。
アルト村、リューネ村。二つの名の横に、受領時刻が記されている。
和解による解除を断った日から、正式な配給が戻るまで三日。エレナは空けておいた日付の欄を埋めた。
王国評議会は裁定を受け、緊急穀物令の撤回を決めた。凶作の地域への支援は、訂正した数字に基づく別の措置へ引き継がれる。
ラウル次官と関与した監査院評議会の幹部は職務から外され、証拠の保全と刑事手続きへの送致が始まった。誰にどの刑罰を科すかは、別の審理で決まる。
ハルベルク侯爵家については、商会へ便宜を図った契約への関与が認定された。根拠は、セドリック自身の決裁署名と資金の記録だ。該当する補助事業への参加停止と、関与した契約分の精算が命じられた。エレナの功績を自作と偽ったことと、今回の取引の責任は、別々に認定されていた。
今夜は、村へ荷が届いた。それでも、片づけるべき記録は机の上に残っていた。
***
適用停止の裁定が出た翌日。
エレナは審査院の控室で、王都まで同行していたアルト村とリューネ村の代表者たちと対面していた。
彼らの顔には、安堵の色と共に、どこか硬い疲労と不信感が張り付いていた。
「委員長様。あんたのおかげで、村の連中が飢えずに済むことには、心から感謝してる」
アルト村の代表である壮年の男が、深く頭を下げた後、鋭い視線をエレナに向けた。
「だが、納得がいかねえことがある。マルグリット様たちの緊急の馬車が来てくれたおかげで命は繋いだが、この三日間、俺たちの村の配給は質も量も酷いもんだった。病人も凍えかけていたんだ。……そもそも国庫庁から『委員会の予算だけを即日で凍結解除する』という話が来ていたってのは、本当かい? ならどうして、あんたはそれを受け入れて、すぐに俺たちを助けてくれなかったんだ?」
その問いに、同席した連絡係が「それは、国庫庁から調査の打切りを求められて……」と説明を挟もうとしたが、エレナは手でそれを制した。
エレナは逃げることなく、代表者たちの目を真っ直ぐに見返した。
「本当です。……あの案を受ければ、もっと早く正式な配給を戻せました。私は調査の打切りという条件を拒み、非常食で繋ぐ方を選びました」
エレナの率直な言葉に、代表者たちの顔が険しくなる。
「私は、全国の不正を見逃し、他の領地を切り捨てて自分の管轄だけを救う『近道』を選びませんでした。その結果として、あなた方に三日間の苦痛と実害を強いることになった。……偽装した者の責任とは別に、この選択をした私にも、説明と補填を進める責任があります」
エレナは深く頭を下げた。
そして、顔を上げると、机の上に用意していた数枚の羊皮紙を彼らの前に差し出した。
「これを、お受け取りください」
「これは……?」
「マルグリット様たちが立て替えた非常食費と、寒さの中を走らせた馬車への追加輸送費の精算書です。委員会の承認を得て、支払日を決めました。……こちらは、三日間の不足分を補う配給計画です。病人向けの食糧と、借りた燃料も含めています。冬の配分は実際の残量で再計算し、二村だけを優遇するのでなく、同じ不足の村に同じ基準を適用します。担当者として、私の名前と報告期限を入れました」
代表者たちは、目を見開いてその羊皮紙を読み込んだ。
村の台帳と突き合わせた数量、輸送費、支払日。代表者たちは順番に確かめ、不足している項目へ印を付けた。エレナはその場で追記し、控えを二通作った。
「……」
代表の男は、じっとエレナの顔を見つめ、やがて太く息を吐き出して誓約書を懐にしまった。
「……理由は聞いた。だが、すぐ納得しろとは言わないでくれ。この計画どおりに届くか、村で確かめる」
エレナは頷いた。代表者たちは書類を包み、北へ帰る馬車の待つ宿へ戻っていった。
その背中を見送ったエレナは、肩の力を抜いてふうと息を吐いた。
「お疲れさま。水を飲むか」
不意に、背後から温かく低い声が落ちてきた。
振り返ると、控室の入り口にエドガーが立っていた。
彼が着ているのは、もうあの漆黒の威圧的な監査官の制服ではない。仕立ての良い、官職を示す飾りのない私服だった。
すべての地位を手放し、ただの『エドガー・レイン』となった彼が、柔らかい微笑みを浮かべてエレナを見つめている。
「エドガー様……」
「君の声が廊下まで聞こえた。……説明は終わったのだな」
「はい。でも、約束した荷が全部届くまで、仕事は終わりません」
受け取った水を飲むと、ようやく喉が渇いていたことに気づいた。
彼の隣へ行き、エレナは自分から手を重ねた。
「それでも今日は、あなたと食事がしたいです」
「ああ。私も、その約束を果たしに来た」
彼の指が、ゆっくりと握り返してきた。
辞めた後の仕事も、二人で暮らす場所も、まだ決まっていない。聞きたいことはたくさんあった。
今は、並んでこの建物を出よう。エレナは空の杯を返し、彼と歩き始めた。




