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婚約破棄は承りました。私の仕事まで、あなたのものではありません~冷徹監査官は私を囲わない~  作者: 他力本願寺


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第50話 二つの署名

国家の危機を救ったあの激動の審判から、一年が経過した。


 季節は再び巡り、穏やかな秋の陽光が、恒久化された『地方再建局』のセルデン連絡拠点に差し込んでいる。


 局長となったエレナ・ヴァレントの机の前に、一人の若い平民出身の新人職員が、緊張した面持ちで立っていた。


「き、局長! 先日の水路工事に関する決算報告書、完成いたしました!」


 差し出された書類を受け取り、エレナは目を通した。


 数字の辻褄は合っており、現場の状況も的確にまとめられている。彼女は顔を上げ、優しく微笑んだ。


「よく出来ているわ。初めてにしては上出来よ。……でも、一つだけ欠けている欄があるわね」


「あっ……!」


 新人はハッとして、書類の末尾にある『作成責任者』の空欄を見た。


「す、すみません! 俺なんかの名前を、国に提出する正式な公文書に書いていいものかと、つい躊躇ってしまって……」


「いいのよ。あなたが自分の足で現場を歩き、自分の頭で計算して作った報告書でしょう? これは『あなたの仕事』です。堂々と、あなたの名前を残しなさい」


 エレナが羽ペンを差し出すと、新人は両手でそれを受け取り、震える手で『作成責任者 トーマス』と、はっきりとしたインクの跡を残した。


 その文字を見つめる新人の顔には、自らの仕事に対する確かな誇りと責任感が満ちていた。


「はい、確かに受理しました。お疲れ様、トーマス」


「ありがとうございます、局長!」


 嬉しそうに駆け出していく新人の背中を見送りながら、エレナは自身の胸の奥が温かくなるのを感じていた。


 一年前に成立した『個人名義記録の規則』。それは今や、末端の実務者たちにまで浸透し、当たり前のものとして機能している。記名漏れがあれば、その場で直す。承認者の名は、作成者の名を消さずに隣の欄へ入る。


 かつて、自分の名前を帳簿から消す癖がついていたエレナの戦いは、確実に次世代の『当たり前』へと受け継がれていた。


 その日の夕暮れ。


 仕事を終えたエレナは、セルデンの町外れへ向かう乗合馬車に乗った。


 セルデンには、委員会の頃から使っていた連絡拠点がある。今週のエレナは、そこで近隣の工事を確認していた。一年前、二人が共同で借りた小さな一軒家が、そこにあった。


 玄関の扉を開けると、奥からコーヒーの香ばしい匂いが漂ってきた。


「おかえり、エレナ」


 エプロン姿のエドガーが、台所から顔を出した。


 中央の監査院長代理という巨大な権力を捨てた彼は、今では新設された『地方監査制度』の整備責任者として、泥臭く各地を巡回する日々を送っている。


 互いに多忙で、月の半分はすれ違う生活だが、こうして日程が重なる日は、早く帰った方が夕食の支度をするのが二人の暗黙のルールになっていた。


「ただいま戻りました、エドガー様。……今日は随分と早かったのですね」


「ああ。南部の新しい監査拠点で、後任への引継ぎが予定より三日早く済んでね。君の顔を早く見たくて、急行馬車を乗り継いで帰ってきた」


 さらりと甘い言葉を口にする彼に、エレナはくすくすと笑いながら外套を脱いだ。


 ささやかな夕食のテーブルを囲みながら、二人は公に話せる仕事のことや、道中であった出来事を語り合う。


 新しく入った事務官の成長ぶり、地方貴族の頭の固さ、次の冬へ向けた備蓄計画の進捗。


 恋人になっても、彼らが職務上の情報を不正に融通し合うことは絶対にない。利益相反案件では厳格に担当を分け、それぞれの立場で責任を負っている。だが、こうして同じ目線で語り合い、実務家としての知的な刺激を与え合える関係は、何にも代えがたい幸福だった。


「……そういえば」


 食後の片付けを終え、二人でソファにくつろいでいた時。


 エドガーがふと思い出したように、自らの鞄から一枚の申請用紙を取り出した。


「先日、王都の法務局から取り寄せたんだが。君に見せようと思ってね」


「これは……?」


 エレナがその書類を覗き込むと、そこには『婚姻登録申請書』と印字されていた。


 だが、その様式は、エレナがかつて知っていたものとは違っていた。


「個人名義の記録を、国庫補助事業以外へ広げる改正だ。君が公聴会で説明した考え方も、審議の資料に載っていた」


 エドガーが、誇らしげに目を細めた。


「あの規則が定着したことで、他の公簿にも改革の波が及んだ。先月の公簿様式の改正で、婚姻登録にも本人名の署名欄ができた。旧来の『婚姻後の家名・家籍』の欄とは別に、当事者一人ずつの名前を残すんだ」


 エレナはハッとして、書類の末尾を見た。


 そこには確かに、二つの独立した署名欄が並んで設けられている。


 以前の制度では、結婚すれば妻の名前は「夫の家名」や「戸主」の影に吸収され、公的な記録からは見えにくくなるのが常だった。だが、この様式で申請すれば、戸主や家籍とは別に、二人それぞれの本人名を登録簿にも署名できる。


「……ここにも、二人分の名前が残るのですね」


 エレナは胸が熱くなるのを感じた。


 自分たちの戦いが、仕事の場だけでなく、人々の私生活の制度にまで光を当てたのだ。


「それで、エレナ」


 エドガーは、羽ペンをインク瓶に浸し、エレナへと差し出した。


「仕事の書類では、私たちは同じ案件に署名できないことが多かった。……この書類には、君の隣に名前を書きたい。エレナ、私と結婚してくれるか」


 その青い瞳には、深い愛情と、一人の男としての切実な願いが込められていた。


 結婚して仕事を辞めるわけではない。これからも互いに忙しく、すれ違う日もあるだろう。だが、それでも共に生きていく。


「……ええ。喜んで」


 エレナは微笑み、彼から羽ペンを受け取った。申請書の当事者欄に署名し、彼へペンを返す。エドガーも隣の欄を埋めた。


 これからも仕事で離れる日はある。それでも、帰る場所は同じでいい。


「……インクが乾くまで、少し時間がかかりそうだな」


 エドガーがペンを置き、低く囁いた。


 エレナは彼の意図を察し、頬を染めながらも目を閉じた。


「ええ。……待つ時間は、嫌いではありませんわ」


 エドガーの大きな手がエレナの頬を包み込み、二人の唇が優しく重なり合う。


 窓の外では、秋の虫たちが静かな夜の調べを奏でていた。


 翌朝、二人は揃って町の登録窓口へ出向いた。


 係官は申請書と本人確認の書類を照合し、婚姻登録簿を開いた。家名・家籍の欄とは別に、当事者それぞれの本人名署名欄がある。


 エレナはペンを取り、そこへ自分の名前を書いた。


 ――『エレナ・ヴァレント』


 隣で待つ彼へ、ペンを渡す。エドガーは受け取り、もう一方の欄に署名した。


 ――『エドガー・レイン』


 二つの名前が、公の登録簿に並んだ。


 二年以上前、あの報告書には自分の名がなかった。今、仕事にも、この人と生きる記録にも、エレナ自身の名前がある。


 係官が二人と記載を確かめ、受理印を押した。乾いた音を聞いてから、エレナはようやく肩の力を抜いた。


 係官が控えを差し出した。


「お二人とも、ご確認ください」


 エレナは控えの二つの名を確かめ、隣の彼にも見せた。


 どちらの名前も、もう片方の影に隠れてはいなかった。


 窓口を出ると、秋の朝の日差しがまぶしかった。午後には二人とも仕事がある。今夜は彼女が夕食を作る番だ。


 エドガーが差し出した手に、エレナは自分の手を重ねた。


「帰りに、パンを買っておきますね」


「では、私は君の好きな茶葉を」


 二人で帰る家の話をしながら、並んで歩き出す。


 鞄に収めた控えには、二つの署名が残っていた。

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