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婚約破棄は承りました。私の仕事まで、あなたのものではありません~冷徹監査官は私を囲わない~  作者: 他力本願寺


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第45話 近道を捨てるのは私

王都の連絡所には、重く息苦しい空気が垂れ込めていた。


 朝一番に二つの窓口を回り、エレナは申立書と請求書を提出した。


 独立審査院は食糧の残量を根拠に緊急審査の準備を始めたが、封印記録はまだ監査院にある。通常の公益開示では、保管系統が請求を審査院へ送るための同意が必要だった。


 提出先の異なる二枚の受付控えを、エレナは手元に揃えた。


「委員長。アルト村とリューネ村からの報告です。マルグリット様の立替金で手配した非常食も、あと三日で底を突きます」


 連絡所に来ていた運送組合の親方が、ミナから届いた通信を読み上げた。


「国庫庁が公表したデータ上、あの二つの村は『不足なし』と分類されています。そのため、中央からの正式な配給リストにおいて、最も優先順位が低く設定されてしまっているのです。この三日分を使う間に、次の便も確保しなければなりません」


 エレナは唇を噛み締め、机の上の地図を睨みつけた。


 北端に位置するアルト村とリューネ村は、冬の寒さが最も早く訪れる過酷な地域だ。偽造されたデータによって「問題ない」と切り捨てられた彼らは、再建委員会の予算凍結が解除されなければ、国からの救済を絶たれたまま孤立してしまう。


 焦りが、エレナの胸をギリギリと締め上げる。


 このまま手続きの順番を待っていれば、確実に実害が出る。


 どうすればいい。どうすれば、彼らの命を救えるのか。


 その時、執務室の扉がノックされ、国庫庁の使者が訪れた。


 国庫庁の紋章が入った外套を身にまとった官僚だった。彼はエレナの前に進み出ると、恭しく一礼し、一通の封書を差し出した。


「ヴァレント再建委員長。国庫庁次官、ラウル・ヴァンデル閣下より、正式な『和解案』をお持ちいたしました」


「和解案……?」


「はい。我が国庫庁は、貴女が独立審査院に提出した異議申立てにより、行政プロセスが停滞することを危惧しております。そこで、貴女が全国不足データに対する調査と開示請求を取り下げ、委員会として行っている不足データの調査を打ち切っていただけるならば――」


 使者は、甘く、悪魔のような囁きを落とした。


「貴女の特別再建委員会の予算凍結を、法定の『個別救済枠』として、即日解除することをお約束いたします」


 エレナは息を呑んだ。


 それは、違法な賄賂や裏取引ではない。緊急令下であっても、特定の条件を満たす組織に対して国庫庁の裁量で予算を解除できる『個別救済枠』という、制度に基づく和解案だった。受け入れること自体は違法ではないが、何を取り下げるのかは明記されていた。


「この個別救済は裁量案件となりますので、利益相反の規則に則り、適法性確認はレイン院長代理を担当から外して、次席監査官へ回されます。条件が満たされているか次席監査官の確認を経て、本日中の解除が可能です」


 使者の言葉に、本部にいた親方たちが色めき立った。


 これを受け入れれば、エドガーの立場を危うくすることなく、すぐに予算を引き出すことができる。二村に近い配給倉庫には穀物がある。認証付きの支払許可が届けば、今夜から運び出せるのだ。


「委員長様! その案を受けましょう!」


「そうだ! 俺たちの管轄の命が助かるんだ。他の土地まで背負って、うちの病人を待たせるわけにはいかねえ!」


 親方たちの切実な声が響く。彼らにとって、目の前の領民の命が何よりも重いのは当然だ。


 エレナもまた、その「短期救済の魅力」に強く心を揺さぶられた。


 ここに署名し、調査を諦めさえすれば、誰も死なない。苦しまずに済む。


 自分の管轄だけが助かる、魅惑的な『合法の近道』。


 だが。


(……これを受け入れれば、どうなる?)


 委員会の調査が止まれば、各地から集めた記録をまとめて審査へ出す者がいなくなる。他の請求者の権利までは消えなくても、同じ資料を揃えるには時間がかかる。


 南部の報告にも、備蓄がないのに配給を後回しにされた村の名があった。二村だけの例外を得ても、その数字は訂正されない。


 けれど、そのために目の前の村を待たせてよいと、エレナ一人で決められるのか。


 エレナは、机の上に置かれた和解案の書類を見つめた。


 これを拒めば、アルト村とリューネ村への配給は確実に遅れる。自分自身の選択によって、彼らに飢えと寒さという『実損』を強いることになる。


 その重責に、エレナの手が震えた。


 エレナはペンを置き、親方に向き直った。


「非常食は三日分。その次の便を頼める倉庫はありますか」


「隣領の民間倉庫なら、凍結されていない豆と麦がある。輸送費が余計にかかるが、明日の朝に出せば、今日から三日後の夕方までには届く」


「費用と数量を出してください。マルグリット様の立替の残枠に収まるか、ミナに確認を。それでも足りなければ、調査とは別に、村単位の緊急救済を申し立てます」


 使者を待たせ、通信の返事を取った。余裕は乏しいが、次の便まで繋げる。エレナは金額と出発予定時刻を判断記録へ書き込んだ。


 それから和解案の不受諾欄に、自分の名前を記した。


「……お断りします」


「なっ……!?」


 使者が目を剥き、親方たちが絶句する中、エレナは凜と顔を上げた。


「二村を救うために、他の村の記録まで引き下げることはできません。調査の打切りを条件にした和解は、お受けしません」


 エレナの声は、震えを抑え込み、確固たる決意に満ちていた。


「公益開示請求は取り下げません。独立審査院による審理を継続します!」


「正気ですか、委員長! それでは、北端の村が餓死しますよ!」


「させません。……審査がいつ終わるかは、まだ分かりません。非常食と次の便で繋ぎながら、緊急審査を求めます。費用も、この判断をした者の名前も、記録に残します!」


 ペンを置いても、指の震えは止まらなかった。


 使者は忌々しげに舌打ちをすると、拒否された書類をひったくるようにして本部を去っていった。


 エレナは親方たちに向き直り、深く頭を下げた。


「今夜から正式な配給を戻せる案を、私は断りました。代わりに出せる非常食では、食事の質が落ちます。村の方々への説明も、費用の精算も、私の仕事として引き受けます」


 親方は、しばらく返事をしなかった。


「……馬車は出す。だが、あんたが頭を下げれば済む話じゃない。村への説明には、俺も立ち会うからな」


「はい。お願いします」


 その夜、公益開示請求の状況を問い合わせると、『評議会で審議中。回付時期未定』との返答が来た。


 受付はされている。だが、その先へ進まない。


 エレナは独立審査院へ、現場の記録だけでも適用停止の審査を進めてほしいと追完書を出した。封印記録の回答待ちを理由に、自分たちの立証まで止めるわけにはいかなかった。


 机の片隅には、エドガーからの短い私信があった。


『王都に着いたと聞いた。会いたい。今は時間を約束できないが、君と食事をする日を諦めたわけではない』


 エレナは何度も読み返し、折り目をそっと撫でた。


 彼に会いたい。何も決めず、何も説明しないで、隣に座っていたかった。


 けれど今夜は、両村の代表と審理に向けた準備をする。


『私もです。温かいものを、一緒に食べましょう』


 それだけ返事を書き、エレナは積み上がった記録へ手を伸ばした。

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