第43話 役に立たない日にも
執行通知から三日後の夜。ロズフェルド領主館の執務室。
エレナは、山のように積まれた決済待ちの書類を前に、一本の羽ペンを握りしめたまま動けずにいた。
インクはすっかり乾ききっている。
緊急穀物令の執行。その紙切れ一枚で、特別再建委員会の口座は完全に凍結された。ロズフェルド領が冬のために備蓄していた予備資金も、一金貨たりとも引き出すことができない。
資金がなければ、西部の共同組合に輸送を依頼することも、不足している小麦を買い付けることもできない。
(……私には、何もできない)
エレナは力なくペンを置き、両手で顔を覆った。
再建委員長という肩書きはあっても、予算を動かせない以上、今の彼女はただのお飾りだ。
何も決められない。誰の役にも立てない。
かつてハルベルク侯爵家で骨の髄まで刻み込まれた恐怖が、どす黒い泥のように足元から這い上がってくる。
役に立たない女は、誰からも必要とされない。価値がない。またすべてを失い、捨てられる。
冷たい絶望に沈みかけていたその時、コン、と静かに扉がノックされた。
「……起きていたか」
入ってきたのは、漆黒の外套を羽織ったエドガーだった。
三日前、彼から「三日後の夜、会いたい」と私信が来ていた。地方支部の引継ぎ確認に赴く予定を済ませ、夜になって領主館を訪ねてきたのだ。
その顔を見て、エレナの目から堰を切ったように涙が溢れ出した。
「エドガー様……私……」
エレナはふらふらと立ち上がり、彼にすがりつくように肩を震わせた。
「私は今、何もできません。予算は凍結され、新しい契約も結べない。……あなたのように戦う力もない。何の役にも立てない、無能な人間ですわ……っ」
ぽろぽろと涙をこぼすエレナを、エドガーは黙って見つめていた。
エドガーは、机の上の未決書類を脇へ寄せた。「私がなんとかしよう」とは言わなかった。
その代わり、彼はエレナの背中に腕を回し、そっと自分の胸に抱き寄せた。
「私が君に、役に立つことを求めたことがあったか?」
「え……?」
「君が委員長として有能だから愛しているわけではない。君が何の実績も出せなくても、何の権限を持っていなくても……私はただ、今日を生き延びた君と一緒にいる時間が欲しかった。それだけだ」
エドガーの声は低く、ひどく穏やかだった。
彼は泣きじゃくるエレナをソファに座らせると、自分でお湯を沸かし、温かい紅茶を二つ淹れて隣に腰を下ろした。
職務の話は一切出ない。彼はただ、成果のない、打ちひしがれた状態の彼女の隣で、同じ時間を過ごすことだけを選んでくれた。
温かいティーカップを手にしたエレナの心から、固く縮こまっていたものが、少しずつほどけていった。
仕事ができなくても、役に立てなくても、私は望まれている。
彼にとって、私は『便利な実務家』ではなく、ただの『エレナ』なのだと。
「……ありがとうございます、エドガー様。紅茶、とても美味しいです」
エレナは涙を拭い、彼にもたれかかって深く息を吐いた。
明日、机の前に戻れば、また怖くなるかもしれない。それでも今は、この腕の中で息をつけた。
翌朝、エドガーが王都への帰途についた後。
立ち直ったエレナは、すぐに領主代行のマルグリット、帳簿係のミナ、そして近隣の商人ギルドの親方たちを執務室に招集した。
以前の彼女なら、「自分が責任者なのだから」と一人で解決策を捻り出そうと苦戦を抱え込んでいただろう。だが、今の彼女は違う。
「皆様にお集まりいただき、ありがとうございます。単刀直入に申し上げます」
エレナは集まった彼らに対し、深く頭を下げた。
「現在の再建委員会には、公的に動かせる予算が全くありません。委員会の権限だけでは、買付けも輸送費の支払いもできません。……ですが、正式な配給が再開されるのを待っていては、北端の村々は飢えてしまいます。今の私には何もできません。どうか、皆様の力を貸してください」
委員長としての虚勢を捨て、真っ直ぐに助けを求めた。
すると、扇子で口元を隠していたマルグリットが、ふふっと優雅に笑った。
「あなたもようやく、素直に人を頼ることを覚えたのね」
マルグリットは立ち上がり、一枚の小切手をエレナの机の上に置いた。
「私の私財から、北端の村々が凌ぐための非常食代と、追加の輸送費の一部を立て替えます。これは寄付ではありません。あなたが今まで築いてきた『信用』に対する投資です」
「マルグリット様……」
「俺たちにも任せてくだせえ、委員長様」
運送業者の親方が、力強く胸を叩いた。
「金が出ないなら、俺たちの持ち出しで馬車を走らせます。俺たちの手元にある食糧なら、凍結対象じゃありません。何日、何台走らせられるかは、ここで詰めましょう。今まであんたが、俺たちの名前を残して正当に扱ってくれたんだ。今度は俺たちがあんたを助ける番だ」
次々と上がる賛同の声に、エレナは胸が熱くなった。
実名記録で育てた仲間たちの結束が、資金を動かせない彼女を力強く支えようとしていた。
「皆様、本当にありがとうございます。ですが、これはあくまで公的な事業です。皆様の善意に甘えて、うやむやに処理することはいたしません」
エレナは素早く羽ペンを取り、羊皮紙に一筆書き入れた。
「マルグリット様からの立替金、ならびに皆様の持ち出しによる輸送費は、委員会の事後精算を申請します。ただし、今ここで承認を約束することはできません。立替の上限と精算されなかった場合の扱いも、契約に明記しましょう。私が依頼した判断は、私の名前で残します」
被害を美談や正義の物語で消さない。
損害は損害として正確に記録し、責任の所在を明確にする。それがエレナの戦い方だ。
各村の残量を確かめ、必要最低限の食糧を繋ぐ日程ができた。長引けば、別の供給先を探さなければならない。
(これで、時間は稼げた)
エレナは冷たい決意を瞳に宿し、王都の方角を見据えた。
次なる手は、守りではない。
ラウル次官が仕掛けた不当な凍結を打ち破るため、緊急令の前提となっている『全国の不足データ』が偽装であることを、彼女自身の力で証明してみせることだ。




