第40話 名前を残す規則
特別公聴会から三週間後。
王都からロズフェルド領の再建委員会本部へと届けられた王国官報の第一面に、その決定は大きく掲載されていた。
『国庫補助事業における記録適正化に関する暫定規則の制定について』
エレナは、インクの匂いが新しいその紙面を、震える指先でなぞった。
そこには、国庫補助金が投入されるすべての事業において、いかなる理由があろうとも『実務責任者』『資料作成者』『最終承認者』の個人名をそれぞれ個別に記録・署名することが義務付けられると記されていた。
名前が消されれば、不備として訂正を求められる。誰が作り、誰が承認したかを、家名とは別に確かめられるようになる。
「やりましたね、エレナ様……!」
傍らで官報を覗き込んでいたミナが、感極まった声でエレナの手を握った。
「皆が、自分の仕事に自分の名前を残せるんです。誰かに奪われることに怯えなくていいんです!」
「ええ。……ええ、そうね」
エレナは小さく頷き、こみ上げてくる熱いものを必死に飲み込んだ。
ハルベルク侯爵家で、役に立たなければ捨てられると恐怖しながら、自分の名前を消して数字を合わせ続けていたあの日々。公開の場で婚約破棄され、すべてを奪われたあの日、エドガーが原資料を封印保全してくれなければ、自分の手控えだけで訂正を求めることは、もっと難しかっただろう。
あの日の一人の令嬢の絶望が、冷徹な監査官との出会いを経て、今こうして国家全体の制度を改善する一筋の光となったのだ。
官報が届いて三日後の夜。
エレナは、地方支部の引継ぎ確認で来訪したエドガーの仮執務室を訪れていた。
監査院長代理として多忙を極める彼もまた、自組織の膿を出し切るための大改革を進めている最中だった。
「官報を見た。君の戦いが見事に実を結んだな、ヴァレント委員長」
「エドガー様が、あの日証言台で監査院の過去を明らかにしてくださったおかげです。……そちらの改革は順調ですか?」
エレナが問いかけると、エドガーは机の上から数枚の羊皮紙を取り出した。
「ああ。監査院の『封印記録の保全規則』が、王国評議会の承認を経て改正された。本日付の施行だ」
エドガーが示した公布文には、監査の隠蔽を防ぐための極めて厳密なルールが記載されていた。
「保管者が地位を離れた時の独立移管は、既存の規定を改めて明文化した。今回加えたのは、移管後に公益開示の請求を止められない仕組みだ。まず、利益相反によって個別の案件担当を外れる場合。この時、次席や独立監査班へ移るのは『審査・判断の担当権限』だけであり、封印記録そのものの『保管責任』は通常の指揮系統に残る」
「はい。私がアーレン監査官の審査を受けた時と同じですね」
「そうだ。その上で、最も重要な条項がこれだ」
エドガーは、インクの濃い一文を指で叩いた。
「『当該封印記録の保管責任者が、辞任、解任、懲戒による職務停止、配置換えなど、理由を問わずその地位を離れた場合、記録は自動的に独立保全局へ移管される』。……さらに、『独立保全局は、移管を受けた封印記録について係属中の公益開示請求がある場合、旧保管系統や監査院評議会の同意を一切要せず、独立審査院へ請求と記録を回付する義務を負う』」
エレナは、そのルールの持つ意味を正確に読み取った。
これまでは、上層部が「組織防衛」を理由に公益開示を差し止めれば、外部からはどうすることもできなかった。しかしこの規則があれば、もし不正な封印が行われたとしても、保管責任者がその地位を離れさえすれば、自動的に鎖が断ち切られ、独立機関による強制的な審査への道が開かれる。
権力による不当な隠蔽を防ぐための、最も強固な最後の砦だった。
「封印したまま保管者だけを替え、請求を放置することはできなくなる」
エドガーは書類を片付け、静かに息を吐いた。
そして、ふと目元を和らげ、壁掛け時計を見上げた。
「……さて。本日の職務上の報告はここまでだ」
「ええ。お疲れ様でした、院長代理殿」
エレナが微笑んで応えると、エドガーは立ち上がり、執務机から離れてソファの方へと歩いた。サイドテーブルに用意されていたティーセットに手を伸ばし、彼自身の手で二つのカップに紅茶を注ぐ。
張り詰めていた空気が解け、温かく甘い香りが部屋に漂い始めた。ここからは、彼らが互いに約束した『私的な時間』だ。
「最近は王都との往復で、あまり君とゆっくり話す時間が取れなかったからな」
「仕方がありませんわ。お互いに組織の責任者ですから」
ソファに並んで腰を下ろし、エレナはエドガーからカップを受け取った。
少しだけ彼の方へ身を寄せると、エドガーの大きな手が自然にエレナの肩を抱き寄せた。公私の線引きを明確にしているからこそ、こうして触れ合う時間がたまらなく愛おしく、安心できる。
「……この一連の制度改革が軌道に乗り、ダストワール商会の談合調査に完全に決着がついたら」
エドガーが、エレナの髪をそっと撫でながら低い声で言った。
「その後の生活について、少し考えていたんだ」
「将来のこと、ですか?」
「ああ。君は再建委員会をこのまま恒久的な組織として根付かせるつもりだろう。私も、地方から届く記録を中央だけで抱え込まない仕組みを整えていきたい。いつ一区切りつくかは、まだ分からないが。……その時は、王都と地方で離れ離れになるのではなく、互いの拠点の行き来がしやすい中間地点に、二人の生活の基盤を持てないかと」
エドガーの言葉に、エレナは胸が熱くなった。
彼が、自分との未来を具体的に考えてくれている。どちらかが仕事を辞めて家庭に入るのではなく、互いの仕事を尊重し、共に働き続けながら、帰る場所を同じくするという未来を。
「素敵ですね……。休みの日は、二人で小さな庭の手入れをして、午後には本を読んで」
「ブラックコーヒーと、焼き林檎のタルトも用意しよう」
「ふふっ。胃薬も常備しておかないといけませんね」
他愛のない、だけれどこれ以上なく幸福な未来の想像。
二人は身を寄せ合い、互いの体温を感じながら静かに微笑み合った。この穏やかな日常が、ずっと続いていくのだと信じて疑わなかった。
初秋に入り、朝夕の風は冷たくなっていた。
本来ならば、たわわに実った小麦が黄金色に輝き、豊穣を祝う季節である。
だが、その数日後から、エレナの元には西部の山間部や南部の穀倉地帯の各地から、一枚、また一枚と不吉な報告書が舞い込み始めた。
『長雨と日照不足による、著しい生育不良』
『深刻な天候不順。秋の収穫量は、例年の三割に満たない見込み』
それは、国家の根幹を揺るがす恐ろしい『凶作』の足音だった。
エレナは届いた順に報告を並べた。先ほどまで話していた冬の庭が、ふと遠く感じられた。




