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婚約破棄は承りました。私の仕事まで、あなたのものではありません~冷徹監査官は私を囲わない~  作者: 他力本願寺


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第39話 彼は証人席に立つ

王都の中心にそびえる王国評議会議事堂。その最も広い第一会議場は、貴族と高位官僚たちの熱気とざわめきに満ちていた。


 特別公聴会。


 それは、エレナ・ヴァレントが率いる『特別再建委員会』の今後の権限と、国庫補助事業における「個人名義記録」の是非を問う、制度の見直しを審議する場であった。


 重厚なマホガニーの証言台の前に、エレナはただ一人で立っていた。彼女の背後には傍聴席が広がり、正面には王国評議会の議員たち、そして改正に反対する立場から、国庫庁次官ラウル・ヴァンデルが居並んでいる。


「――以上の理由から、当国庫庁は、特別再建委員会の手法を極めて危険であると断じます」


 ラウルの重く響く声が、議場を支配していた。


「事業の末端に至るまで平民や下働きの個人名義を記録させ、彼らに決裁の責任を負わせる。なるほど、平民に寄り添う美談としては聞こえが良いでしょう。しかし、国家の事業は感情では動きません」


 ラウルは立ち上がり、エレナを見下ろすように視線を向けた。


「いざという時、一介の平民に巨大な補助金の賠償能力があるのか? ありません。だからこそ、我が国は長きにわたり『家』という歴史と財力を持つ単位で信用を担保し、連帯して責任を負う仕組みを築いてきた。個人の名前に責任を細分化すれば、結局は誰も責任を取れず、国家の根幹たる信用制度そのものが崩壊する。……ヴァレント委員長の改革は、国家を瓦解させる暴挙に他なりません」


 議場のあちこちから、賛同の囁きが漏れる。


『家』の力で国を回してきた貴族たちにとって、ラウルの論理は彼ら自身の存在意義を守るための正義そのものだった。


 だが、エレナは微塵も怯まなかった。


 彼女は証言台の上に、持参した分厚い革張りの鞄を置き、その中から大量の書類の束を取り出した。


「家や組織が財産で責任を担保することと、誰が判断したかを記録することは両立します。私は、組織の責任をなくす提案をしているのではありません」


 エレナの凜とした声が、議場の空気を鋭く切り裂いた。


「こちらをご覧ください。これは、ロズフェルド領および西部鉱山領で、私が自らの足で集めた過去三年分の契約記録と、改革後の実名入り運用記録です。改革前後を同じ項目で比較しました」


 エレナは証言台の上から、分厚い記録を議長席へと提示した。


「この記録が示す事実は一つです。『家が連帯して責任を負う』という隠れ蓑があったからこそ、末端の人間は『どうせ上の人間が責任を取るのだから』と考え、あるいは『どうせ自分の功績にはならないから』と諦め、杜撰な契約や現場の腐敗が蔓延したのです。……事実、ダストワール商会をはじめとする大商会が不当な価格で入札を独占し、数々の領地が赤字に苦しんだのは、『家』の信用を盾にした無責任な談合の結果ではありませんか!」


 議場がどよめいた。


 エレナは一歩も引かず、言葉を続ける。


「平民に賠償能力がないから責任を負えないのではありません。自分の名前で仕事をし、自分の名前で失敗の痛みを引き受けるからこそ、人は自身の仕事に誇りを持ち、不正を防ごうとするのです。私が西部の鉱山領で結んだ新しい共同組合の契約は、組合を契約主体とし、代表者と担当者の氏名を別々に残しています。賠償を末端の職員一人に背負わせる仕組みではありません。遅延は記録し、原因を追えるようになりました。……顔のない『家』に依存する旧体制こそが、国家の財源を食い潰す腐敗の温床です!」


 前列の議員が、組合の契約書と比較表を並べ直した。「賠償を負う主体は変わらないのか」と、隣へ小声で確かめている。先ほどまでラウルに頷いていた席からも、資料を求める手が上がった。


 エレナは書記に控えを渡した。ラウルの顔色が微かに変わった。


「詭弁だ。現場の数例をもって国家のシステムを否定するなど、小娘の暴論に過ぎない」


「その点は、提出した比較表の件数と損失額でご判断ください。続いて、監査記録の確認をお願いします」


 エレナが視線を向けた先。


 議場の重い扉が開き、監査院長代理に就任したばかりのエドガー・レインが、数名の書記官を伴って姿を現した。


 漆黒の制服。威厳に満ちた冷徹な歩み。


 議場が静まり、彼の足音が聞こえた。二人が恋人同士であるという事実は、彼が就任時に提出した報告書によって、すでに公聴会の上層部にも知れ渡っている。


 傍聴席から「恋人の弁護か」という声が漏れた。エレナは証言台に置いた手を動かさなかった。


 だが、証人席に立ったエドガーは、エレナの方を一切見なかった。


「王国監査院・院長代理、エドガー・レイン。宣誓の上、証言する」


 彼の声は、ひどく冷ややかで、中立的だった。


 彼はエレナの言葉に賛同して『彼女は正しい』と訴えるような真似はしなかった。彼はあくまで、監査という独立機関のトップとして、手元の資料を読み上げた。


「私は、特別再建委員会の是非について私見を述べる立場にない。だが、監査院として『過去の事実』を報告する義務がある」


 エドガーは議場全体を見渡し、告げた。


「当監査院は、過去三年間にわたり、ダストワール商会および関連貴族家による国庫補助事業の契約において、甚だしい『審査の怠慢』を犯していた事実をここに認める」


 議場が、水を打ったように静まり返った。


 絶対的な権威である監査院のトップが、公の場で、自らの組織の過ちを認めたのだ。


「家単位で信用が担保されているという国庫庁の論理に寄りかかり、我が監査院の過去の上層部は、現場から上がってきた『不自然な運賃高騰』の警告報告を意図的に握り潰してきた。……私もまた、その握り潰された報告を上げた一人として、組織の腐敗を正せなかった責任を痛感している」


 それは、彼がエレナにだけ明かした彼自身の『汚れ』の告白でもあった。


 書記官が、警告の原本と上申後の決裁を並べた。受け取った日時も、退けた者の名前も、議員たちの前に置かれた。


「以上が、監査院の公式な報告である。……家名という皮袋がどれほど立派であろうと、その中身の数字が腐っていれば、国家は崩壊する。制度の適正化をどう図るか、最終的な判断は議会に委ねる」


 エドガーはそう締めくくると、静かに一礼して証人席に座った。


(エドガー様……)


 証言台に立つエレナは、離れた席に座る彼を見つめた。


 視線が交差する。


 冷徹な仮面を被ったエドガーの青い瞳の奥に、エレナにしか分からない、深く熱い愛情と信頼の光が宿っているのが見えた。


「次官殿」


 エレナは再びラウルに向き直り、澄んだ声で告げた。


「家名だけでは見えなかった判断が、今、記録で辿れました。組織が負う責任を残したまま、実際に働き、決めた人の名前も記す。私は、その規則を求めています。……今こそ、新しい記録の規則を認めるべきです」


 議長は、エレナの比較表に監査院の決裁記録を添えた。現場から辿った欠落が、監査する側の記録とも繋がった。


「ヴァレント委員長。組織の賠償責任と、担当者の記名欄をどう分けるのか。規則案の文面について、説明を願いたい」


 エレナは次の資料を開いた。家の信用を否定するのか、という問いから、何をどう記録するのかへ、審議が進んでいる。


 証人席の彼と目が合った。短く頷き返し、エレナは自分が求める条項を読み上げた。

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