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婚約破棄は承りました。私の仕事まで、あなたのものではありません~冷徹監査官は私を囲わない~  作者: 他力本願寺


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第38話 院長代理と「家の名」

エドガー・レインが王都へ向かい、正式に『王国監査院・院長代理』に就任したという報せは、瞬く間に全国へと知れ渡った。


 彼が去った後のロズフェルド領、そして西部鉱山領における通年の物流網は、エレナが構築した『再建委員会』の管理下で、滞りなく稼働し続けていた。彼が敷いた厳格な利益相反のルールに従い、エドガーからエレナの委員会へ特別な助言や便宜が下されることは一切なかった。


 二人は、完全に別々の組織のトップとして、それぞれの戦場で職務と向き合っているのだ。


 だが、その平穏な実務の裏側で、国家を牛耳る旧体制派の反撃が静かに、そして確実にエレナの足元へと迫っていた。


「……エレナ様。国庫庁から、地方自治体連合に宛てた新たな通達の写しが入りました」


 西部鉱山領の臨時対策本部。ミナが血の気を引かせた顔で、一枚の書類をエレナの机に置いた。


 エレナはペンを置き、その文面に目を通した。


『国庫補助金事業における契約・記録の適正化について。近年、事業の末端において、実務担当者の個人名義による契約や署名を推進する動きが見られるが、これは事業の信用担保を著しく損なう危険な行為である。いざという時の賠償責任は、歴史と財力を持つ家、あるいは商会という組織単位で担保されなければならない。よって今後、家名を伴わない個人名義のみの実務記録は、国庫補助事業の正式な要件から除外するよう検討中である』


「……ラウル次官ですね」


 エレナは、冷たい吐息と共にその名を口にした。


 国庫庁次官ラウル・ヴァンデル。ダストワール商会をはじめとする談合網の頂点に立つ男。


 彼は、エレナが地方で進めている「平民や下働きの個人名義を記録に残す」という改革の広がりを、法的な網をかけて根底から潰しに来たのだ。


 この通達が正式な規則になれば、エレナの再建委員会のやり方は『非正規』と見なされ、予算の執行を止められてしまう。


「ひどいです……! あんなにみんなで頑張って、一人ひとりが責任を持って仕事をするようになったのに。それを『信用がない』から駄目だなんて!」


 ミナが憤りに声を震わせる。


 ラウルのロジックは、旧体制の貴族たちにとっては極めて現実的で説得力のあるものだった。


 事業が失敗した時、あるいは横領などの損害が出た時、一介の平民や下働きに全額を賠償する能力はない。だからこそ、力のある『家』や『商会』が連帯してその責任を被り、信用を担保する。個人に責任を持たせれば、いざという時に誰も責任を取れず、ただ分散してうやむやになるだけだ、というのが彼の言い分だ。


 一見すると、国家の安定を守るための正しい理屈に聞こえる。


「確かに、平民一人に巨大な事業の金銭的責任は負いきれないわ。……でも、ラウル次官の言う『家が責任を取る』という仕組みが、現実に何を引き起こしてきたか。私たちは身をもって知っているじゃない」


 エレナは立ち上がり、壁に掛けられたロズフェルド領と西部鉱山領の地図を見上げた。


「家という大きな隠れ蓑があるからこそ、セドリックのように他人の功績を盗む人間が現れる。家が責任を被るという体裁があるからこそ、ダストワール商会のような巨大な談合が監査の目をすり抜け、誰も本当の失敗の責任を取らないシステムが出来上がってしまったのよ」


 個人の名が消える場所では、必ず不正と無責任が蔓延する。


 責任を分散させないために『家』があると言うなら、エレナは現場の事実をもってそれに反証するしかない。


「ミナ。ロズフェルド領の第六倉庫の帳簿と、西部の共同輸送組合が作成した冬から春にかけての運用記録をすべて集めてちょうだい。それから、現場で働く親方たちや倉庫番の皆さんに、証言書を書いてもらうわ」


「証言書、ですか?」


「ええ。個人の名前を記録に残したことで、『誰が何を決めたか』が明確になり、逆に責任逃れや不正が減ったという『実例』をかき集めるのよ」


 机上の空論には、冷徹な事実と数字で立ち向かう。


 それが、エレナが彼から学び、自ら選び取った戦い方だった。


 彼女はすぐさま馬車を手配し、夏の日差しの強い街道を駆け回って、現場の実務者たちから膨大な記録と声を収集し始めた。


 誰もが、エレナの呼びかけに喜んで応じてくれた。自分の名前で仕事をし、正当な対価と誇りを得た彼らは、もはや家名の影に怯える無力な歯車ではなかった。


 王都から届く公報には、監査院内部の調査が始まったことも記されていた。過去の警告を握り潰した決裁経路を調べるという。エレナは公務の資料として、それを綴じた。


 別便の私信は、仕事を終えてから開いた。


『王都のタルトを食べてみた。君にも食べてほしいが、馬車で送るには向かないらしい。今度こちらへ来る日が決まったら知らせてくれ』


 エレナは思わず笑い、返事を書くためにもう一度ペンを取った。


 夏の終わり。


 エレナの元に、王都から公式な召喚状が届いた。


 それは、エレナが進める『個人名義の記録改革』の是非と、特別再建委員会の今後の権限についてを問う、王国評議会主催の『特別公聴会』の開催通知だった。


 逃げるわけにはいかない。エレナは、現場から集めた膨大な実名記録の証拠をトランクに詰め込み、王都へと向かう馬車に乗り込んだ。


 そしてその公聴会には、監査院の代表として、エドガー・レインが証人席に立つことが記されていた。

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