第37話 職務と私生活を分けて始める
嵐のような感情の衝突から一夜明けた、西部鉱山領の臨時対策本部。
朝陽が差し込む執務室には、いつものように二つの机が並び、エレナとエドガーが向かい合って座っていた。
しかし、二人の間に流れる空気は、昨日までのヒリヒリとした緊張感とは全く質の違う、穏やかでどこか気恥ずかしい熱を帯びていた。
「……エレナ。昨夜のことだが」
先に口を開いたのは、エドガーだった。
彼は手元の羽ペンを置き、背筋を伸ばしてエレナを真っ直ぐに見据えた。
「私はもう、君を守るためと称して退路を用意するような逃避はしない。監査院長代理の打診は受ける。その上で、職務上の独立性を壊すことなく……君との私的な交際を始めたい」
一切の言い訳を排した、不器用なほどに直球の申し込みだった。
エレナは胸が甘く締め付けられるのを感じた。彼が、自分の望みをはっきりと口にしてくれた。その事実だけで、これまで感じていた孤独や不安がすべて嘘のように消え去っていく。
ただ素直に「はい」と頷いて、彼の胸に飛び込みたかった。
だが、エレナは再建委員長として、そして何よりも彼と対等な実務家として、姿勢を正した。
「嬉しいです、エドガー様。……ですが、私たちがこれからも別々の組織のトップとして共に在り続けるためには、感情だけで突き進むわけにはいきません」
エレナは手元に用意していた白紙の羊皮紙を引き寄せ、インク瓶にペンを浸した。
「私たちが交際を始めるための『条件』を、明確にさせてください」
「条件、だと?」
「はい。一つ、私たちが関わる個別の利益相反案件については、今後も徹底して担当を変更し、第三者の審査を入れること。一つ、二人の関係を監査院評議会および地方自治体に正式に報告し、隠蔽しないこと。一つ、案件外の私的な接触は禁じない代わりに、互いの組織の利益のために便宜を求めたり、情報を漏洩させたりしないこと」
エレナはスラスラと、二人の関係を律するための厳格なルールを書き連ねていく。
それは、彼が昨日破り捨てた「彼が身を引くための選択肢」とは違う。二人が共に並び立ち、互いの正当性を絶対に汚さないために、エレナ自身が考え抜いた『前向きな契約条件』だった。
エドガーは目を丸くした後、肩を揺らして低く笑った。
「……恐れ入った。まさか交際の申し込みに対して、これほど強固な利益相反の管理規則を突き返されるとは思わなかった」
「不満ですか? 首席監査官殿」
「いや。君らしい提案だ。全面的に同意しよう」
エドガーの瞳には、愛おしさがこれでもかと溢れていた。
だが、彼は立ち上がると、エレナの机の前に進み出て、その羊皮紙に指を置いた。
「この条件で構わない。だが、監査院のトップに立つ者として、一つだけ重要な線引きを追記させてもらう」
「線引き、ですか?」
「ああ。君が言った『担当を変更する利益相反案件』というのは、私や君が個人の裁量でどうにかできる『個別裁量案件』に限られるという点だ」
エドガーは、監査官としての冷徹な顔を少しだけ覗かせて告げた。
「もし今後、国から『全国一律に発動する法定執行』が下った場合は、別規則が適用される。法定要件を満たした一括執行には裁量の余地がなく、私が担当を外れることはできない。……つまり、たとえ私たちが恋人であっても、法が命じれば、私は君の事業を容赦なく差し押さえる側に回らなければならない」
「……」
「それでも、君は私を選ぶか?」
それは、彼の優しさだった。
これから巨大な談合網と戦う上で、何が起きるか分からない。もし自分の職務が彼女に牙を剥くことになった時、彼女が「裏切られた」と傷つかないように、あらかじめ法的な境界線を明確に引いておいてくれたのだ。
エレナは一切の迷いなく頷いた。
「もちろんです。あなたが法を曲げて私を特別扱いするような人ではないと分かっているからこそ、私はあなたを選んだのですから」
エレナが羊皮紙の末尾に自分の名前を署名し、ペンを差し出す。
エドガーもまた、その横に自らの名前を並べて書き込んだ。
二人の合意はできた。公的な担当変更は、これから両組織へ届け出て確認を受ける。
一見すると、恋人同士が交わすにはあまりにも冷たく、厳しい誓約書に見えるかもしれない。
だが、二人にとっては違った。このガチガチのルールがあるからこそ、二人はもう「相手の仕事を汚してしまうかもしれない」という恐怖から解放される。
この厳格な契約は、二人を遠ざける檻ではなく、互いを信じて安心して近づき、心から愛し合うための、最強の『土台』だった。
「……書類の手続きは、ここまでだ」
エドガーが羊皮紙を端に除け、小さく息を吐いた。
彼の纏う空気が、監査官のものから、ただの一人の男のものへと一変する。
「ここからは、案件外の私的な時間ということで構わないな?」
「ふふっ、ええ。規則通りですわね」
エレナが微笑むと、エドガーは彼女の手を取り、そっと自らの方へと引き寄せた。
抵抗なく立ち上がったエレナの腰に彼の腕が回り、二人の距離がゼロになる。
エドガーの大きな手がエレナの頬を包み込み、少しだけ荒れた親指が目尻を優しく撫でた。
「……ずっと、こうしたかった」
彼の声は甘く掠れ、その瞳には昨日までの迷いが嘘のように、真っ直ぐな熱だけが宿っている。
エレナもまた、彼の手の上に自分の手を重ね、その心地よい温もりに目を閉じた。
長い道のりだった。婚約破棄から始まり、名前を取り戻し、すれ違いと逃避を乗り越えて、ようやくここまで辿り着いた。
二人は、誰の影にも隠れることなく、互いの明確な意志をもって唇を重ね合わせた。
開いた窓から初夏の風が入った。二人はしばらく、手を繋いだまま机へ戻らずにいた。
その日の午後。
エドガーは王都の監査院本部に向けて、『監査院長代理への就任を受諾する。ならびに、エレナ・ヴァレント再建委員長との関係を報告する』という公式な書状を発送した。




