第36話 尊重という名の逃避
「私が離れられる準備ばかりを、勝手に進めないで。……私に『あなたを選ばせて』よ!」
エレナの悲痛な叫びが、深夜の臨時対策本部――静まり返った執務室の空気を震わせた。
床には、エドガーが用意した「利益相反を回避するための三つの選択肢」を記した書類が散らばっている。
常に冷徹で、どんな理不尽な圧力の前でも完璧な理性を保ち続けてきたエドガー・レインは、エレナの予期せぬ激昂を真っ向から浴び、完全に言葉を失っていた。青い瞳が見開かれ、微かに息を呑む音が聞こえる。
「エレナ……私は、君の自由を奪いたくなくて……」
「それが『逃げ』だと言っているのです!」
エレナは両手で顔を覆いそうになるのを必死に堪え、涙で滲む瞳でエドガーを強く睨みつけた。
「あなたは、あのウェントス伯爵家からの引き抜き話が来た時も、私に『どうしたいか』を聞かず、完璧な推薦状を書いて私を送り出そうとしました。特別監査で担当を外れる必要があったことは分かっています。私が聞きたかったのは、規則を守ったその先で、あなたがどうしたいのかでした。そして今度も、私があなたから離れるための選択肢ばかりを用意した!」
「それは、君の仕事の正当性を守り、君が最も有利に飛べる道を残すためだ。私が権力で君を縛れば……」
「そうやって、また『私のために』と言い訳をするのですね」
エレナの声が、悲しげに震えた。
「あなたは私の自由を守っているつもりでしょう。私の権利を尊重しているつもりでしょう。でも、その完璧な選択肢の中に、あなたの『本当の望み』は一つも入っていない。あなたは一度だって、『残ってほしい』とは言ってくれなかった」
エレナは一歩、エドガーへと踏み出した。
「自分の望みを言わないことは、相手を尊重することではありません。ただ、自分が拒絶される痛みから逃げているだけです。……自分が傷つかない安全圏から、私を突き放しているだけです!」
エドガーの喉がひゅっと鳴る。
彼は一歩後ずさりかけ、その足が床に落ちた書類を踏みつけた。
エドガーは反論しかけた唇を閉じた。足元の書類を見つめ、長い沈黙の後でエレナへ視線を戻す。その顔からは、用意した説明を読み上げる時の余裕が消えていた。
「……君の、言う通りだ」
エドガーは、力なく呟いた。
目の前の彼は、いつものように答えを持っている人には見えなかった。
「私は……恐ろしかったのだ」
絞り出すような、ひどく掠れた声だった。
エドガーは自嘲するように目を伏せ、強く拳を握りしめた。
「君に自分の望みを押し付け、君から選択肢を奪ってしまう自分が恐ろしかった。……私の独占欲が君の羽をもぎ取り、君をあの忌まわしい『家の籠』に閉じ込めてしまうのではないかと。だから、自分の感情を無かったことにして、君から離れる準備ばかりをしてきた」
「……」
「だが、それは卑怯な逃避だった。君を尊重するふりをして、君をひどく傷つけた。すまなかった、エレナ」
彼は深く頭を下げた。
それから、ゆっくりと顔を上げ、エレナを真っ直ぐに見つめた。
その青い瞳には、もはや隠し立てのない、剥き出しの熱と痛みが宿っていた。
「私の、本当の望みを言う」
エドガーは一歩前へ出て、エレナのすぐ目の前に立った。
エレナは動かずに、次の言葉を待った。
「私は、君を手放したくない」
それは、彼がずっと心の奥底に封じ込めてきた、たった一つの真実だった。
「どこにも行かず、私のそばにいてほしい。誰の目も気にせず、ずっと君とあの二つの机を並べていたい。……君に、私を選んでほしい」
権力による命令でも、監査官としての指示でもない。
ただの一人の男としての、不器用で、切実な願いだった。
その言葉を聞いた瞬間。
エレナの目から、せき止めていた大粒の涙が一気に溢れ出した。
彼が、自分を求めてくれた。ただの有能な部下としてでも、再建官としてでもなく、私自身を失いたくないと言ってくれた。
彼女は両手で顔を覆い、しゃくり上げながらも、その口元にはこれ以上ないほど幸福な笑みが浮かんでいた。
「……やっと、言ってくれましたね」
「……ああ。遅くなってすまない」
「本当に。私はずっと、あなたにそう言ってほしかったのに」
エレナは涙を袖で乱暴に拭うと、彼を見上げて力強く微笑んだ。
「私も、あなたと一緒にいたいです、エドガー様。……私が、私の意志で、あなたを選びます」
エレナは自分から、彼の手を取った。
エドガーはそっと手を伸ばし、エレナの頬を伝う涙を親指で優しく拭った。二人の間を隔てていたすべての誤解と恐れが、夜明けの光のように溶けて消え去っていく。
***
――エドガー
エレナが落ち着きを取り戻し、書類の片付けを始めてから。
エドガーは自分の机に戻り、散らばった羊皮紙を拾い集めながら、小さく息を吐いた。
胸の奥で、信じられないほどの安堵と、静かな衝撃が渦を巻いている。
(……望みを言っても、彼女は自分で答えた)
自分の強烈な独占欲と、身勝手な欲望を言葉にしてぶつけた。
それでも、彼女は怯えることなく、縛られることもなく、自分の足で力強く立って笑っていた。
相手に『望みを言う』ことと、相手の権利を『強制して奪う』ことは、全く違うのだ。
彼女が何を望むかは、尋ねてみなければ分からない。拒まれるのが怖くても、答えを先回りして決めるべきではなかった。
(私はもう二度と、彼女から逃げるための退路は用意しない)
エドガーは、拾い上げた『利益相反に関する三つの選択肢』の書類を、ためらいなく真っ二つに引き裂き、ゴミ箱に捨てた。
自分が黙って消える案だけは、もう彼女への配慮と呼ぶまい。
だが、現実に横たわる公的な『利益相反』の壁が消えたわけではない。エドガーが監査院長代理の打診を受けるなら、二人が共に在るための新たな『ルール』を早急に構築する必要がある。
彼女の仕事も自分の仕事も続けられる形を、今度は二人で考えよう。




