第35話 また私の退路を先に決める
西部鉱山領の臨時対策本部。深夜のしじまに包まれた執務室の机の上に、一通の就任打診書が置かれていた。
王都の監査院本部から特急便で届けられたその書類には、王国印と共に『エドガー・レイン首席監査官に、監査院長代理への就任を打診する』という一文が記されていた。
「院長代理……」
エレナは、信じられない思いでその文字をなぞった。
現在、王都ではエレナたちが暴いた国家的談合網の捜査が本格化し、激しい権力闘争が繰り広げられている。ダストワール商会と結託していた監査院の上層部にも当然調査のメスが入り、現在の院長は政治的圧力、あるいは保身のための「体調不良」を理由に休職に追い込まれたらしい。
急遽、空席となった実務のトップに、これまで冷徹に事実のみを積み上げ、確固たる実績を残してきたエドガーに白羽の矢が立ったのだ。
「エドガー様。これは、素晴らしいことですわ。あなたが院長代理として監査院の実権を握れば、ラウル次官たち旧体制派の圧力に対抗できる。調査は一気に進みます」
エレナは顔を上げ、向かいの机に座る彼に笑顔を向けようとした。
だが、エドガーの表情は喜びに沸くどころか、氷のように硬く、張り詰めていた。
「権限は手に入る。だが、問題はそこではない」
エドガーは立ち上がり、エレナの机の前に歩み寄った。
「私が監査院のトップに就けば、すべての国庫補助事業の最終的な監査責任を負うことになる。当然、君が責任者を務める『特別再建委員会』の事業もその対象だ。……監査する組織のトップと、監査される組織のトップ。これは、以前の首席監査官という立場以上に、個別案件の利益相反を、これまで以上に厳密に管理する必要がある」
「……」
「就任を受諾する前に、君と私の『私的な関係』をどう扱うか、法的な整理をつけなければならない」
エドガーの声は、ひどく事務的だった。
彼は懐から、あらかじめ用意していたらしい数枚の羊皮紙を取り出し、エレナの前に並べた。
「想定される適法な選択肢は三つだ。一つ、私が監査院長代理に就任する代わりに、特別再建委員会が関わるすべての共同案件から担当を外れ、完全に独立した別班に審査を委ねる。二つ、我々の間に恋愛感情があることを監査院評議会に公表し、審査対象となっている共同案件が終了するまでの間、君との私的接触を全面的に制限する。三つ……私的な関係そのものを、今ここで白紙に戻す」
「えっ……」
エレナは息を呑み、並べられた選択肢とエドガーの顔を交互に見比べた。
彼は何を言っているのだろうか。
確かに、彼の言う通り法的な整理は必要だろう。二人の関係が「監査の癒着」と攻撃されないためにも、利益相反のルールに則った透明性は不可欠だ。
だが、彼が並べた選択肢は、そのどれもが『彼がエレナのそばから離れること』を前提としていた。
彼の表情からは、先日、自分を抱きしめて「君を失いたくない」と囁いた時の熱は完全に消え失せている。まるで、第三者の冷酷な契約条件を読み上げているかのようだった。
「君は再建委員長として、これから最も重要な時期を迎える。些細なスキャンダルや利益相反の疑いで、君の足元を掬われるようなことがあってはならない。……君の地位と実績を最も安全に守れる選択肢を、君自身で選んでくれ」
エドガーはそう締めくくった。
彼にしてみれば、これは最大限の愛情と尊重の表れだったのだろう。自分の地位や欲望よりも、愛する女性の仕事と自由を守ることを最優先に考え、自分の孤独(不利益)を受け入れているのだから。
だが。
その言葉を聞いた瞬間、エレナの胸の奥で、静かだが決定的な怒りの炎が燃え上がった。
「……またですか」
「エレナ?」
「また、私の退路を、私より先に決めるのですね!」
エレナは立ち上がり、机の上に並べられた羊皮紙を乱暴に払いのけた。
バサバサと音を立てて書類が床に散らばる。エドガーが驚きに見開いた青い瞳に向かって、エレナは感情を爆発させた。
「ロズフェルドで他の貴族から引き抜きの話が来た時、あなたは私に何も聞かず、完璧な推薦状を用意して『ここから出て行く準備』を整えました。特別監査で担当を外れたことは必要でした。でも、会える条件が整うまで、あなたがまた話したいと思っているかさえ、私には分からなかった。そして今度も!」
「私は、君の正当性と自由を守るために……」
「そうやって綺麗な言葉で取り繕わないでください!」
エレナの怒声が、深夜の執務室に響き渡った。
「あなたは私の自由を守っているつもりでしょう。でも、その選択肢の中に、あなたの『本当の望み』は一つも入っていないじゃないですか! あなたがどうしたいのか。私にどうしてほしいのか。それを一切言わずに、ただ『法的に正しいから』『君のためだから』と、安全な場所に逃げ込んでいるだけです!」
ハルベルク侯爵家で、役に立たなければ捨てられるという恐怖を味わってきたエレナにとって、彼のこの態度は、何よりも残酷な突き放しだった。
彼が黙っている限り、エレナには、離れても構わないと言われているように聞こえてしまう。
「あなたは自分の権力が、私を縛ることを恐れているのでしょう? 自分が父親のように、相手の選択肢を奪う存在になることが怖いから、自分の欲望を消し去ろうとしている。……でも、それは尊重なんかじゃありません。ただの『逃避』です!」
エレナは両手で机の端を強く握りしめ、肩で息をした。
涙で滲む視界の先で、エドガーが虚を突かれたように言葉を失っている。
「私が離れられる準備ばかりを、勝手に進めないで。……私に『あなたを選ばせて』よ」
絞り出すようなエレナの悲痛な叫びが、静寂に沈んだ室内に吸い込まれていく。
常に冷徹で完璧だったエドガーの仮面に、明確な亀裂が入った瞬間だった。




