第34話 元婚約者のお願い
洪水後の復旧を続け、初夏を迎えた西部鉱山領。臨時対策本部に設置された二つの机には、王都から次々と送られてくる分厚い調査資料が山のように積まれていた。
エレナとエドガーが提出した「他領における不自然な契約の一致」の報告は、地方自治体連合の賛同を得て大きなうねりとなり、王都の監査院本部もついに無視できない段階へと突入していた。ラウル次官の庇護下にあるとはいえ、証拠が揃えば監査院は動かざるを得ない。ダストワール商会をはじめとする特定業者と、彼らに便宜を図っていた複数の貴族家に対して、いよいよ本格的な合同調査のメスが入り始めていた。
そして、その「調査対象」の中には当然、ダストワール商会の大株主であるハルベルク侯爵家も含まれていた。
「……王都から、面会希望者が来ている」
午後。届けられた面会簿を確認していたエドガーが、顔を上げてエレナに告げた。
その青い瞳には、わずかな緊張の色が浮かんでいた。
「ハルベルク侯爵家嫡男、セドリック・ハルベルクだ。特別再建委員長である君に、直接話があるそうだ」
その名を聞いた瞬間、エレナの手から羽ペンが滑り落ちそうになった。
セドリック。六年間、エレナのすべてを吸収し、その功績を奪って婚約破棄を告げた男。地方行政審判会で敗訴して以来、二度と会うことはないと思っていた元婚約者が、わざわざこの辺境の鉱山領まで足を運んできたというのだ。
「私に……ですか」
「会うかどうかの判断は、委員長である君に委ねる。不当な圧力をかけるつもりなら私が監査官として追い返すが、そうでないのなら君の自由だ。私が同席する必要はない。公務に関わる申し入れは、通常どおり委員会の面会記録へ残してくれ」
エドガーは、彼女の過去の因縁に自分の権力を挟み込んで、選択を奪うような真似はしなかった。
エレナは小さく深呼吸をし、乱れた心を落ち着かせた。
彼が何を言いに来たのかは、想像がつく。逃げる必要はない。今の私は、彼に虐げられていた無力な令嬢ではないのだから。
「……お通しください。一人で会います」
臨時本部の隣に設けられた小さな応接室で、エレナはセドリックと対峙した。
扉が開いて入ってきたセドリックの姿を見て、エレナはわずかに目を見張った。かつて夜会で見せていたような、自信に満ち溢れた傲慢な侯爵家嫡男の面影はどこにもなかった。目の下には色濃い隈が刻まれ、仕立ての良い服はどこかヨレており、全体的にひどく憔悴している。
「……久しぶりだな、エレナ」
「ごきげんよう、ハルベルク卿。本日はどのようなご用件でしょうか」
エレナは椅子から立たず、委員長としての冷ややかな声で応じた。
セドリックは落ち着かない様子でソファに腰を下ろすと、もみ手をするように身を乗り出した。
「君も聞いているだろう。今、王都でダストワール商会と我が家への不当な調査が行われている。父上は『私には関係ない』と言って、私一人に責任を押し付けようとしているんだ。だが、私はただ、家のために有利な資金調達をしてやっただけだ! ……エレナ。君の今の立場から、私を助けるような証言をしてくれないか」
「助ける証言、ですか」
「そうだ。あの六年間の領地の実務や契約は、すべて君と私の『共同事業』だったと、監査院に言ってほしいんだ。そうすれば、私個人の独断ではないと証明できる。君も実務に関わっていたのだから、事実だろう?」
エレナは、思わず乾いた笑いを漏らしそうになるのを必死に堪えた。
この男は、自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。
あの成果報告会の席で、彼は何と言ったか。自分が設計を主導したと語り、資料からはエレナの名前を消していた。
それが今、不正の責任を問われそうになると「あれは二人の共同事業だった」と言い出す。手柄はすべて自分のもの、責任は二人で分け合おうという、あまりにも身勝手で滑稽な反転だった。
「お断りします」
エレナは、一片の感情も交えずに即答した。
セドリックの顔が、絶望と怒りで歪む。
「なぜだ! 私を恨んでいるからか!? 昔のことを根に持って、嘘の証言で私を破滅させるつもりか!」
「いいえ。私は嘘などつきません。事実だけを証言すると言っているのです」
エレナは冷ややかに、しかし実務家としての確固たる倫理観を持って彼を見据えた。
「六年間の記録は、すでに地方行政審判会で確定しています。細かな実務の数字を私が整え、あなたはそれを持って対外折衝や資金調達を担っていた。それが揺るぎない事実です。私は、知っている事実だけを提出します。あなたを助けるための嘘も、陥れるための嘘もつきません。……あなたがダストワール商会とどのような密約を交わしていたか、私は一切存じ上げませんので」
エレナは、復讐心から彼に不利な嘘をつくような真似はしなかった。そんなことをすれば、自分が重んじている『正確な記録』を自ら汚すことになるからだ。
過剰に罵倒して制裁を下すまでもない。彼が自分を大きく見せようとしてついた嘘は、すでに彼自身の説明能力の無さによって崩壊している。事実をありのままに突きつけることこそが、彼にとって最も残酷な裁きとなる。
「面会は以上です。お引き取りください、ハルベルク卿」
エレナが冷たく告げると、セドリックは何か言い返そうと口を開いたが、彼女の毅然とした態度の前に反論の言葉を見つけられず、幽鬼のように肩を落として部屋を出ていった。
応接室を出て対策本部に戻ると、エドガーが自分の机で書類に向かっていた。
「……終わったか」
エレナが席に戻ると、彼が視線を書類に落としたまま、短く声をかけてきた。
「はい。帰っていただきました。公務に関わる申し入れと私の返答は、委員会の受付簿へ残します」
「そうか」
エドガーはそれ以上何も聞かなかった。彼が「何を話したんだ」と詮索してくることも、「二度とあいつに会うな」と命令してくることもない。彼女の自由と権限を、彼は一切侵さない。
だが、エレナは気づいてしまった。
彼が先ほどから、手元の資料のページをめくる速度がいつもより不自然に早く、インク瓶にペンを戻す時の『カツン』という音が、僅かに乱れていることに。
氷のように冷徹な顔を作りながら、その実、彼はひどく落ち着かない様子だった。
(……もしかして、エドガー様)
かつて六年間も自分を縛り付けていた元婚約者と、密室で二人きりになったこと。それに、彼が『嫉妬』しているのだ。
自分の権力を使って面会を禁じることはしない。彼女の行動を支配しようとはしない。だが、嫉妬の感情だけは完全には隠しきれず、不器用に漏れ出している。
その非支配的で、たまらなく人間臭い彼の姿に、エレナは胸がきゅっと締め付けられるような愛おしさを覚えた。
「エドガー様」
「なんだ」
「今日の午後は、少し一息入れませんか。先日、地元の組合の方から美味しい果実水を差し入れていただいたんです。……私、あなたと一緒に飲みたいなと思って」
エレナが少しだけ甘えるように、意地悪く微笑んで見せると、エドガーはめくっていた書類の手をピタリと止め、微かに息を吐き出した。
「……君がそう言うなら、少し休むとしよう」
彼の耳の端が、ほんのりと赤く染まっていた。
二人の間に流れる、甘く穏やかな時間。このまま共に巨大な壁に挑んでいけるのだと、エレナが信じて疑わなかったその直後。
王都の本部から、エドガー宛に一通の特急便が届けられた。
それは、監査院のトップである『監査院長代理』への就任打診という、彼らの関係性に新たな決断を迫る重い辞令だった。




