第33話 洪水の日の指揮権
西部鉱山領の空が、真夜中のように黒く染まった。
直後、バケツを引っくり返したような豪雨が、石造りの街並みと険しい山肌を容赦なく打ち据え始めた。
「水位が警戒線を越えました! 上流からの土砂で、第三堰堤がいつ決壊してもおかしくありません!」
商人ギルドの集会所に設けられた臨時対策本部に、ずぶ濡れになった伝令が飛び込んできた。
机に広げた等高線図を見下ろしていたエレナは、即座に顔を上げた。
「第三堰堤より下流の地区に、直ちに避難指示を出して! 同時に、共同組合の荷馬車を、避難用と資材運搬用に分け、土嚢と木材を堤防の補強に向かわせなさい」
エレナの声は、雨音に負けないほど張りと威厳に満ちていた。
再建委員長としての彼女の権限は、予算編成だけにとどまらない。領主が発令した緊急対応の委任状により、彼女は輸送・避難支援の指揮を担っていた。堤防の状態と作業の可否は、地元の水防責任者が判断する。
そこへ、漆黒の外套を雨で濡らしたエドガーが歩み寄ってきた。彼は一介の監査官としてではなく、この緊急事態における一つの戦力として、彼女の前に立った。
「ヴァレント委員長。私も君の指揮下に入る。指示をくれ」
それは、王国監査院の首席監査官という絶対的な地位を持つ男が、再建委員長である指揮系統を一本にするための申し出だった。
エレナは一瞬だけ彼の青い瞳を見つめ返し、大きく頷いた。
「レイン首席監査官。あなたには、下流の河岸を見渡す高台に設けた『臨時記録拠点』の責任者をお願いします」
「記録拠点、だな」
「はい。過去二十年分の堤防補修記録と、現在の水位データ、そして下流の避難台帳をすべてそこに集約させてあります。あなたの情報処理能力で、補修履歴と現在の報告を照合してください。補修の抜けがある区画と避難の遅れを知らせてください。水防責任者と照合して、人員と土嚢を振り分けます」
エドガーは補修台帳と避難台帳の所在を確かめ、短く応えた。
「承知した。すぐに拠点へ向かう。……君も、無茶はするなよ」
「あなたも」
すれ違いざまに交わされた短い言葉。
エドガーが数名の部下を連れて雨の中へ飛び出していくのを見送り、エレナは再び指揮に没頭した。
エドガーの配置は、劇的な効果を生んだ。
彼から送られてくる伝令の情報は、驚くほど正確で無駄がなかった。『過去の補修で粗悪なセメントが使われていた第六区画が最も危険。施工の欠落がある。水防責任者の現場確認を急いでほしい』『第二区画の補修記録は揃っている。東の尾根は通行記録上、今朝まで使われている』。
膨大な過去の帳簿と記録を瞬時に解析し、論理的な優先順位をつける。その情報を現地の水防責任者と突き合わせることで、水防作業と避難誘導はギリギリのところで間に合っていた。
だが、自然の猛威は人間の計算を容易く凌駕する。
大雨が降り始めてから四時間が経過した頃。
突如、地響きのような轟音と共に、上流の山肌が大きく崩落した。
「委員長! 上流で大規模な土砂崩れが発生しました! 鉄砲水が下流に向かっています!」
「なっ……! 下流の臨時記録拠点は!? エドガー様たちは避難できているの!?」
エレナは血相を変えて立ち上がった。
だが、泥だらけの伝令は、絶望的な顔で首を横に振った。
「分かりません! 土砂崩れで拠点へ続く道が完全に寸断されました。通信は途絶……濁流が、あの一帯を呑み込んだ可能性があります……!」
その言葉が耳に届いた瞬間。
エレナの視界が、ぐらりと大きく揺れた。
(エドガー様が……濁流に……?)
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように痛んだ。
息ができない。指先から急速に体温が奪われ、全身の血が凍りつくような感覚。
倉庫火災の夜、火の海に取り残されたかもしれない自分を見た彼が、どれほどの恐怖を味わったのか。
今、エレナは初めて、身体感覚としてそれを思い知っていた。
頭が真っ白になる。今すぐここを飛び出して、泥を掻き分けてでも彼を捜しに行きたい。彼が死んでしまったら、再建も、実績も、自分の名前も、何の意味もない。
彼を失いたくない。彼がいなくなる世界など、耐えられない。
「委員長様! ご指示を! 水防部隊をどう動かしますか!?」
親方の怒鳴り声が、エレナの意識を現実に引き戻した。
周囲では、何十人もの人間が、指揮官であるエレナの次の言葉を待っている。
もし自分がここで取り乱し、指揮権を投げ出してエドガーを捜しに行けば、情報伝達の要であるこの本部が機能不全に陥る。結果として、逃げ遅れる領民が確実に出る。
愛する男を捜すために、領民を見殺しにするのか。
(……駄目。私は、再建委員長だわ)
エレナは震える両手を机の上に強く押し付け、指の関節が白くなるほど力を込めた。
避難を待っている人がいる。ここを離れたくても、指揮を引き継ぐまでは離れられない。
「……現在位置に留まっている水防部隊は、高台へ退避。これ以上の危険な補強作業は中止します」
感情を極限まで殺し、エレナは指揮を続けた。
「寸断されたルートを迂回し、孤立した区画がないか確認を急ぎなさい。……記録拠点の捜索は、安全が確保されてから行います。今は、全体の被害を最小限に抑えることを最優先としなさい!」
自分の声が、どこか遠くで響いているように感じた。
それからの数時間は、生きた心地がしなかった。
ただ機械のように情報を処理し、決断を下し続ける。胸の奥で暴れ狂う恐怖と絶望を、分厚い実務家の仮面で必死に押さえつけながら。
やがて、狂ったように降り続いていた雨が小降りになり、重い雲の隙間から夕暮れの光が差し込み始めた頃。
本部の扉が開き、騒然とした声が上がった。
「戻ったぞ! 記録拠点の連中だ!」
エレナは弾かれたように顔を上げた。
そこに立っていたのは、頭から泥水を被り、漆黒の外套を無惨に汚したエドガーだった。
彼の顔には疲労が色濃く滲んでいたが、その鋭い青い瞳の光は少しも失われていない。彼は手にした革袋――避難の際に携行した台帳と記録の束――を机に置いた。
「……鉄砲水が来る前に、拠点の人員をさらに高い尾根へ退避させ、運べる記録も携行した。避難誘導は完了している。私が確認した拠点の人員に、死傷者はいない。遅れてすまない、委員長」
淡々と報告する彼の姿を見た瞬間、エレナの中で張り詰めていた鋼の糸が、プツンと音を立てて切れた。
夜間の指揮を地元の責任者に引き継ぎ、二人は本部脇の控室へ下がった。
やがて、部屋の中に二人きりになった瞬間。
エレナはふらふらとエドガーに歩み寄り、そのまま彼の泥だらけの胸に縋り付いた。
「っ……エドガー様……!」
「エレナ……?」
「馬鹿……! 通信が途絶えた時、どんなに……どんなに恐ろしかったか……!」
エレナは彼の外套を両手できつく握りしめ、堪えきれずに嗚咽を漏らした。
彼が泥で汚れていることなど関係なかった。ただ、彼が生きてそこにいるという事実だけが欲しかった。
「あなたが濁流に呑まれたかもしれないと思った時……息ができませんでした。私、あなたがいない世界なんて嫌です。……絶対に、嫌……っ」
涙と共に溢れ出したのは、純粋で、剥き出しの喪失恐怖だった。
エドガーは目を見開き、自身の胸で泣きじゃくる彼女を見下ろした。
エドガーは何も言わず、彼女の呼吸が落ち着くまで待った。
彼は泥に汚れた自分の腕をためらうことなく回し、彼女の細い背中を、確かな力で抱きしめた。
「……すまない。怖がらせた」
エドガーの声は、ひどく掠れていた。
「私も、君を失いたくない」
二人は泥と涙に塗れながら、互いの体温と鼓動を確かめ合うように、強く抱きしめ合った。
対等な責任者として死線を潜り抜けたこの日、二人の心は、もはや後戻りできないほど深く、決定的に結びついていた。




