第32話 成功モデルが失敗する
委員会本部を発って二日後、エレナは西部鉱山領の商人ギルドにいた。粗末な木造の集会所に、エレナの張り詰めた声が響いた。
「――以上が、今回の緊急補助輸送における入札要綱です。ロズフェルド領で行ったように、輸送区間を細分化し、皆さんが無理なく分割受注できる仕組みを整えました。これならダストワール商会のような大手に独占されることはありません」
エレナは自信を持って黒板の数字を指し示した。
再建委員長として初めて指揮する、他領での試験導入。ロズフェルドで大成功を収め、監査で指摘された不備を直した『成功モデル』である。この透明な条件さえ提示すれば、地元の商人たちは必ず立ち上がってくれるはずだった。
だが、集まった鉱山領の親方たちの反応は、ひどく冷ややかなものだった。
「委員長様。あんた、西部の山を自分の足で登ったことがあるのか?」
「え……?」
「ロズフェルドの中継路と一緒にされては困る。ここの峠を越えるには、平地の倍の馬と特殊な重馬車がいるんだ。行きは食糧、帰りは重い鉱石を積む。細かく区間を分割して小規模な業者がバラバラに引き受けたところで、機材も馬も足りず、あっという間に立ち往生するのがオチだ」
親方の一人が吐き捨てるように言い、他の者たちも重々しく頷いた。
「ダストワール商会が憎い気持ちは分かるが、奴らには重馬車を揃える資金力があった。あんたの言う『分割受注』なんて机上の空論じゃ、採算が合わねえよ」
商人たちは次々と立ち上がり、入札書を受け取ることなく集会所を出ていってしまった。
後に残されたのは、真っ白になった黒板の数字と、血の気を失ったエレナだけだった。
その夜。
ギルドに借りた臨時対策本部へ戻ったエレナは、誰にも声をかけず、一人で自席の机に向かっていた。
地形も産業構造も違う土地に、一つの成功モデルを無理に当てはめようとした。中継地で積み替えられるという前提を置き、鉱石を積む帰り便まで確かめなかった。西の山道で一度失敗していたのに、今度は成功した仕組みを信じすぎた。
(どうして……もっと現地の事情を計算に入れなかったの。私が責任者なのに)
焦りが、エレナの心臓を冷たい手で締め上げる。
委員長として、立派にエドガーと肩を並べたばかりだ。彼に「対等だ」と認めてもらったばかりなのだ。ここで失敗すれば、また『役に立たない無能な女』に成り下がってしまう。
ハルベルク侯爵家で、少しでもミスをすれば存在価値を否定され、名前を消されてきた過去の恐怖が、黒い泥のようにエレナの足元に絡みついていた。
「……ヴァレント委員長。西部での入札はどうだった」
向かいの机から、エドガーが視線を向けずに尋ねてきた。
ビクッと肩を震わせたエレナは、手元にある白紙の入札書を隠すように両手で覆った。
「じゅ、順調です。少し調整が必要ですが、問題ありません」
「そうか」
嘘をついてしまった。
頼ればいい。彼に相談すれば、監査官としての視点から別の適法なアプローチを提示してくれるかもしれない。だが、エレナは彼にだけは自分の無能さを知られたくなかった。「私には解決できません」と泣きつけば、彼が自分に向けるあの深い敬意と熱情が、幻滅に変わってしまう気がして恐ろしかったのだ。
エレナは一人で、分割の区間距離を調整したり、積載量の規定を書き直したりと、数字のパズルを徹夜で組み替え続けた。
だが、二日が経過しても、西部の商人たちからの入札は一件も入らなかった。
机上の空論をいじくり回しても、現実は一ミリも動かない。このままではダストワールの本契約破棄はおろか、目前に迫った緊急輸送の空白期間が生じ、鉱山で働く人々の食糧が本当に絶たれてしまう。実害が発生する一歩手前だった。
(……見栄を張っている場合じゃない。私は、領民の命を背負っている責任者だわ!)
三日目の朝。
エレナは徹夜で書き殴った計算用紙をすべて丸めてゴミ箱に捨てると、同じ町のギルド事務所へ向かった。
「……先日ご提示した入札要綱は、すべて撤回します」
ギルドの実務を取り仕切る親方たちを前に、エレナは深く頭を下げた。
「私の見通しが甘かった。平地の論理を、西部の皆様に押し付けてしまいました。申し訳ありませんでした」
委員長という肩書きも、貴族としての面子も投げ捨てた謝罪に、親方たちは驚いて顔を見合わせた。
「委員長様……あんた」
「どうか、皆様の知恵を貸してください。私はこの土地の地形も、鉱石輸送の難しさも、まだ何も分かっていません。予算の総枠と適法な契約手続きは私が責任を持ちます。どうか、この土地に最も合った輸送方法を教えてください。助けてください」
一人で抱え込み、完璧な解決策を提示しなければ愛されない。その思いを押し戻すように、エレナは返答を待った。分からないから頼る。現場の声を聞く。親方が地図を寄せ、谷沿いの道を指した。
「……頭を上げな、委員長様。貴族の偉いさんが、俺たちに頭を下げて助けを求めたのは初めてだ」
先日の初老の親方が、苦笑しながら分厚い手で後頭部を掻いた。
「分割が駄目なら、まとまればいい。俺たち西部の運送屋と鉱山ギルドが『共同輸送組合』を作って一括で引き受ける。馬と機材を共有すれば、ダストワールなんぞに頼らなくても山は越えられる。……その代わり、利益の配分と責任の所在で揉めないように、あんたのその優秀な頭で、ガチガチの契約書を作ってくれ」
「……はい! もちろんです!」
エレナの顔に、血色が戻った。
現地の親方たちと膝を突き合わせ、泥臭く意見をすり合わせながら、エレナは全く新しい『組合形式での一括受注』という契約モデルをその場で書き上げていった。
その日の深夜。
対策本部に戻ったエレナは、泥だらけの靴のまま、エドガーの机に新たな決裁書を提出した。
「……レイン首席監査官。西部の輸送手配が完了しました。当初の計画が私の不手際で通用せず、現地の方々の助力を得て、制度を根本から組み直しました」
「知っている。三日間の遅れが出たこともな」
エドガーは冷徹な声で告げると、手元の監査報告書に『委員長の計画不備による三日の遅延』と正確に記録を書き込んだ。
エレナはそれを黙って受け入れた。失敗は消さない。それが二人の流儀だからだ。
だが、エドガーはペンを置くと、深く息を吐き出してエレナを見つめた。
「どうして、すぐに私に言わなかった」
「それは……」
エレナが言葉に詰まると、エドガーは静かに立ち上がり、彼女の前に立った。
「私が、君を見損なうとでも思ったか? 失敗したからといって、君の価値が落ちるなどと、本気で思っていたのか」
図星を突かれ、エレナは小さく肩を震わせた。
エドガーは少しだけ痛ましそうに眉をひそめ、そっと彼女の頬に指先を触れた。インクの匂いのする、ひどく優しい手だった。
「君は天才ではない。一人で完璧な正解を出せるわけでもない。……だが、君は自分の失敗から逃げず、一番泥臭い方法で現場に飛び込み、自らの足で軌道修正して帰ってきた。そんな実務家を、私がどうして見損なうものか」
その温かい言葉が、エレナの心に絡みついていた恐怖の泥を、綺麗に洗い流していく。
役に立たなくても、失敗しても、彼は私を不要だとは言わない。
エレナの目から、安堵の涙が溢れそうになった、その時だった。
ドトォォォォン……!!
突如、窓を激しく震わせるほどの雷鳴が轟いた。
エレナが驚いて外を見ると、西部の山脈の方角に、見たこともないほどの巨大で真っ黒な雨雲が立ち込めていた。
季節外れの、暴力的とも言える大雨。
戻り雪の予報は、暖気の流入で雨に変わった。雪解け水も重なる中、ようやく動き出した輸送網を、西部の渓谷を未曾有の『洪水』の危機が襲おうとしていた。




