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婚約破棄は承りました。私の仕事まで、あなたのものではありません~冷徹監査官は私を囲わない~  作者: 他力本願寺


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第31話 二つの机

雪解けが始まった翌春。ロズフェルド領主館の一階に新設された『特別再建委員会』の対策本部は、朝から熱気に包まれていた。


 部屋の最奥には、全く同じ造りの重厚なオーク材の机が、二つ並べて配置されている。


 右側の机には、膨大な書類の山と、それを物凄い速度で捌いていく再建委員長エレナ・ヴァレント。


 左側の机には、法規集を傍らに置き、一つ一つの決裁を冷徹な視線で審査していく首席監査官エドガー・レイン。


 これまでも領地経営の担当と監査官では、職務が異なっていた。今は、エレナの側にも他領と調整する組織ができた。エレナは再建委員会を、エドガーは監査院の担当班を代表していた。相手の仕事を代行する権限は、どちらにもない。


 そして対等であるがゆえに、二人の意見は容赦なく正面から激突した。


「レイン首席監査官。西部鉱山領の物流正常化に関する決裁ですが、ダストワール商会との既存契約を本日付で暫定破棄し、ただちに地元商人の組合へ輸送の切り替えを手配します」


 エレナは、西部鉱山領の地図を挟んでエドガーに主張した。


「気象観測データによれば、十日後には西部の高い峠で戻り雪が予想されています。山道が完全に閉ざされる前に、現地の採掘者たちへ食糧を届けなければなりません。ダストワールの不自然な運賃引き上げと納期の遅れは、これまでのデータから明らかです。彼らを外すなら、今しかありません」


 現場の速度を最優先とするエレナの提案。


 しかし、エドガーは差し出された決裁書を手に取ることなく、冷ややかに首を横に振った。


「却下だ。現時点での契約破棄は承認できない」


「なぜですか! 彼らが国庫補助金を不当に吸い上げていることは、ロズフェルドの記録とも一致しているではありませんか!」


「過去の状況証拠としては十分だが、西部鉱山領における『決定的な契約違反の物的証拠』がまだ完全に固まっていない」


 エドガーは手元の法規集を叩き、監査院としての立場を崩さなかった。


「契約主体である領が、推測だけで一方的に既存の公共契約を破棄すれば、後でダストワール商会や国庫庁から不当契約解除で訴訟を起こされるリスクがある。もし行政裁判で差し止めを食らえば、補助金の執行そのものが凍結され、結果的に西部への輸送がさらに止まるぞ。証拠要件の確保が先だ。契約の破棄は、我々監査班が西部の帳簿を押さえ、違反を確定させた後に行え」


「それでは間に合わないと言っているのです!」


 エレナは両手で机をバンッと叩き、身を乗り出した。


「あなたが証拠を固めるのを待っていたら、峠は雪で塞がります! 訴訟のリスクを恐れて現場を放置すれば、採掘者たちは凍え死ぬのですよ!」


「急ぐからこそ、明日差し止められる契約にはできない。別の方法を探そう」


 二人の視線が空中で激しくぶつかり合い、バチバチと火花を散らした。


 周囲で作業をしていたミナやヨハンたちが、ハラハラしながら見守っている。


 かつてのハルベルク侯爵家であれば、エレナはここで「男性の責任者」に逆らうことを諦め、自分の意見を引っ込めていただろう。


 だが、今の彼女は再建委員長だ。彼に従う部下ではない。


 エドガーは彼女の顔色を窺わず、解除条件の条文を開いたまま待っていた。


 地位で押し切れない膠着状態。


 エレナは深く息を吸い込み、頭の中で激しく思考を回転させた。彼を説得できないなら、彼の論理の壁を迂回しつつ、自分の目的を達成する別の道を探すしかない。


 やがて、エレナの唇に実務家としての鋭い笑みが浮かんだ。


「……分かりました。ダストワール商会との既存契約は、現時点では破棄しません。監査院が証拠を固めるまで、彼らの権利は法的に維持させます」


「……」


「その代わり、鉱山ギルドの約款にある『緊急避難規定』を適用します」


 エレナは地図の上に、新たな予算案の羊皮紙を滑らせた。


「春先の天候悪化に伴う人命の危機を理由に、既存契約とは別枠で『一時的な補助輸送』の予算を私の方で組みます。ダストワールの荷馬車が遅れている以上、彼らの契約はそのままに、別の業者を走らせて食糧を届けることは緊急措置として認められるはずです。……その補助輸送を行っている間に、監査院は徹底的にダストワールの証拠を固めてください」


「!」


 エドガーの青い瞳が、微かに見開かれた。


 契約を破棄せずに現場の速度を確保し、訴訟のリスクを回避しつつ、監査院に証拠を揃える時間を与える。


 彼は約款と予算案を照合し、短く息を吐いた。


「……なるほど。緊急避難規定を用いた一時的な補助輸送であれば、既存契約への不当な侵害には当たらず、監査院の規定にも抵触しない」


「ええ。証拠が固まり次第、彼らの本契約を破棄し、継続分は改めて公募します。補助輸送の実績も同じ基準で審査します。これなら、文句はありませんね?」


「……ああ。その範囲なら適法性を確認できる」


 エドガーは羽ペンを取り、エレナの新たな決裁書に迷いなく署名を行った。


 エレナは適法確認を受けた案を取り、委員会の決裁へ回すために署名した。


 数時間後。


 白熱した会議が終わり、実務担当者たちが退室した後の対策本部には、二つの机に向かうエレナとエドガーだけが残されていた。


 エレナはミナが淹れてくれた紅茶を、エドガーはブラックコーヒーを手に、それぞれふうと一息つく。


 激しい論戦の疲労はあったが、エレナの心臓はかつてないほどの高揚感で早鐘のように打っていた。


 相手の論理の穴を突き、自分の知識と経験を総動員して、全力で知性をぶつけ合う。


 こんなにもヒリヒリとして、胸がすくようなやり取りができる相手は、世界に彼しかいない。ただ甘やかされ、守られるだけの恋愛では絶対に味わえない、痺れるような充実感がそこにあった。


「……容赦がないな、委員長殿。あそこで緊急避難規定を持ち出してくるとは思わなかった」


 コーヒーカップを口元に運んだエドガーが、微かに肩を震わせて低く笑った。


 その顔には、論破されかけた悔しさよりも、有能な対等者を前にした喜びと、深い熱情が色濃く浮かんでいた。


「首席監査官殿こそ、少しは手加減してくださってもいいのに。あなたがいちいち法の抜け穴を塞いでくるから、私は毎回寿命が縮む思いですよ」


 エレナもまた、紅茶のカップを両手で包み込みながら、艶やかな笑みを返した。


 二人の視線が交差する。


 言葉の端々に散りばめられた知的緊張が、そのまま極上の色気となって部屋の空気を満たしていく。


 会議中には腹が立つほど厳しいのに、今の笑い声はもっと聞いていたい。エレナは紅茶で熱い頬をごまかした。


「……西部鉱山領には、明日から私が直接赴く」


 エドガーが、熱を孕んだ瞳でエレナを見つめながら言った。


「私が現地でダストワールの証拠を押さえる。君は補助輸送の手配を進めてくれ。現地での打合せが必要なら、日程を連絡してほしい」


「はい。必ず、滞りなく荷車を回してみせます」


 二つの組織の長として、いよいよ国家規模の談合網への反撃が始まろうとしていた。


 エレナは地図を畳んだ。ロズフェルドで育った仕組みを、今度は違う土地へ持っていく。まずは、現地の業者に条件を届けなければならない。

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