第30話 部下ではなく、別の責任者へ
冬も終わりに近づいた頃、執務机に広げた王国全図には、赤いインクでいくつもの印が付けられていた。
西部の鉱山領、南部の穀倉地帯、そして北端を抱えるこのロズフェルド領。
エレナが監査院の過去ログから拾い上げた不自然な補助金申請と、ダストワール商会をはじめとする談合グループが落札した地域である。
「……点と点は繋がりました。ですが、どうやってこの巨大な網を破ればいいのでしょう」
エレナは地図を見下ろしながら、重い息を吐き出した。
手口は分かっている。ロズフェルドで行ったように、透明な入札条件を提示し、地元の商人たちに分割受注させて競争原理を働かせれば、彼らの不当な価格吊り上げは確実に防げる。
だが、現在エレナが持っている権限は、あくまで『ロズフェルド一領の期限付き再建官』としてのものだ。隣の領地でどれほど悪辣な契約が結ばれていようと、彼女が口を出す権利は法的に存在しない。
対するエドガーも、首席監査官という地位こそあれど、監査院はあくまで『適法性の確認と証拠保全を行う機関』だ。彼らが領主の代わりに契約を破棄し、新しい物流網を構築するような行政の執行権限は持っていない。
「このままでは、冬の間に他領の予算は完全に吸い尽くされます」
「監査院の権限で特別監査に入ることはできる。だが、それだけでは根本的な解決にはならない。不正を暴いても、その後に物流を立て直す実務家がいなければ、領民が路頭に迷うだけだ」
向かいの机で腕を組んでいたエドガーが、冷徹な事実を口にした。
壊すだけでは足りない。壊した後に、正しく機能する血流を作り直さなければならないのだ。
「なら、私がやります」
エレナは顔を上げ、迷いのない瞳でエドガーを見た。
「ロズフェルド領の枠を超えて、複数の困窮領の予算編成と契約見直しを直接指導できる、期間限定の独立機関『特別再建委員会』の設立を国と地方自治体に提案します」
「……複数の領をまたぐ権限など、前例がないぞ」
「前例がなければ作るまでです。幸い、私には今のロズフェルドという『最高の成功例』があります。……それに、私は先日、アーレン監査官の厳しい特別監査を受けましたからね」
エレナの口元に、自信に満ちた笑みが浮かぶ。
先日の監査で、エレナ個人の重大な不正は一切ないと公式に認定された。それどころか、彼女が現場に名前と責任を分散させて構築した実務システムは、監査院という国家で最も厳しい審査機関のお墨付きを得たに等しい。
これほど強力な武器はない。
「監査院が証明してくれた私の『実績と潔白』を根拠に、地方自治体連合に対して委員会の設立を請求します。そして、その責任者の座には、当然私自身が就任することを要求します」
それは、誰かに与えられるのを待つのではなく、自らの手で巨大な権限をもぎ取りに行くという宣言だった。
エドガーはエレナの言葉を聞き、一瞬目を丸くした後、肩を揺らして低く笑った。
「……本当に、君という人間は」
呆れたような、それでいて深い敬愛の念が込められた響き。
彼は立ち上がり、エレナの机の前に歩み寄った。
「監査院は君の請求に便宜を図ることはしない。だが、地方自治体連合からの身辺照会があれば、君が極めて優秀かつ適法な実務家であるという事実のみを、監査院の公式見解として全力で証明しよう」
「ええ。事実だけで十分です。戦って勝ち取ってみせます」
それから幾週か、エレナは睡眠を削り、近隣の領主たちや地方自治体連合の代表者たちとの激しい交渉に明け暮れた。
彼らもまた、ダストワール商会らの横暴と、国庫庁からの干渉に苦しんでいた。そこに、実際に冬の危機を自力で脱し、監査で重大不正なしと確定し、指摘された管理不備を是正しているエレナが、具体的な数値と計画を持って現れたのだ。
彼らがエレナの提案に乗るのに、そう時間はかからなかった。
国庫庁のラウル次官は猛反発したようだが、地方領主たちの総意として突きつけられた合法的な枠組みを、正当な理由なく潰すことはできなかった。
そしてついに、王都から一通の正式な認可証が届いた。
『複数領連携・特別再建委員会の設立を認可する。ならびに、同委員会の責任者としてエレナ・ヴァレントを任命する』
「やりました……!」
執務室で報告を受けたミナが歓声を上げ、エレナも深く息を吐き出して認可証を胸に抱いた。
これで、彼女は一領地の雇われ役人ではない。参加領の同意と認可された範囲で、広域の予算と物流を調整する『再建委員長』というトップの座を手に入れたのだ。
その日の夜。
すべての事務作業を終え、静まり返った執務室に、エドガーが姿を現した。
彼は机の上の認可証を一瞥すると、ゆっくりとエレナに向き直った。
「……正式な就任、おめでとう。ヴァレント委員長」
「ありがとうございます、レイン首席監査官」
エレナが立ち上がり、二人は正面から見つめ合った。
これまでは、彼女はどこか彼の『被保護者』であり、あるいは『被監査者』だった。彼が冷徹な視線で彼女の仕事を評価し、導くという上下関係が、そこには確かに存在していた。
しかし今は違う。
彼女はもう、彼の部下でもなければ、ただ監査されるだけの存在でもない。独立した別の組織の責任者であり、制度上も完全に『対等』な立場へと昇り詰めたのだ。
窓の外では、しんしんと冷たい雪が降り続いている。
だが、二人の間に流れる空気は、火傷しそうなほどの熱を帯びていた。
対等になったからこそ、日々の指示を仰ぐ関係ではなくなった。だが、委員会も公費を使う以上、監査を受ける立場には変わりない。
その線をどこに引くか、まだ話せていなかった。
エドガーが一歩、エレナへと近づいた。
彼の氷のように冷たいはずの青い瞳が、今は暗く、熱い熱情を孕んでエレナを射抜いている。
「君の請求書が、ここまで届いたのだな」
低く掠れた声が、エレナの鼓膜を甘く震わせた。
「はい。私は自分の名前で戦える、実務家です」
エレナは視線を逸らさず、彼を見つめ返した。
息がかかるほど近い距離。彼の高い体温と、微かなインクの香りがエレナの感覚を支配する。
触れたい。この人の隣に立ちたい。
これまで必死に抑え込んできた感情が、決壊したダムのようにエレナの胸の中に溢れ出していた。彼への尊敬は、もはやただの仕事上のそれではない。
彼の泥にまみれた過去を知り、彼が抱える深い孤独と優しさに触れた。彼を失いたくない。誰にも渡したくない。
彼の視線がエレナの唇へ落ち、すぐに戻った。見間違いではないと思いたかった。
二人の指先が、机の上でほんのわずかに触れ合った。
それだけで、電流が走ったように互いの体がビクッと震える。
もう、否定できない。
エレナは、もうこの人への気持ちを仕事の尊敬だけとは呼べなかった。
だが、この熱情を言葉にして関係を決定づけるには、まだ片付けなければならない巨大な敵が残っている。
「……明日から、忙しくなるぞ。二つの組織の長として、我々が連携して国庫庁の闇を暴く」
「はい。共に、事実を立証しましょう」
触れ合った指先を名残惜しむように離し、二人は対等なパートナーとして、静かに微笑み合った。




