第29話 彼の側の汚れ
ランプの油が底を突き、窓の外が白み始めても、エレナの視線は手元の一枚の羊皮紙に釘付けになったままだった。
王都から取り寄せた、監査院の過去の監査判断ログ。
二年前、南部の穀倉地帯で起きた緊急補助金の申請において、ダストワール商会が提示した不自然な運賃の高騰。それをいち早く見抜き、現場から『重大な懸念あり』として上層部へ警告報告を上げた監査官の名前。
『王国監査官 エドガー・レイン』
そして、その警告報告の横には、監査院評議会の赤い承認印と共に、『適法。問題なし』という書き換えられた決裁の文字が並んでいた。
エドガーの正当な報告は、巨大な談合網を擁護する上層部の手によって完全に握り潰されていたのだ。
「エレナ様……」
隣で徹夜を共にしていたミナが、不安げな声を出した。
「レイン首席監査官は、二年前にはもうダストワール商会の不正に気づいていたんですね。……でも、どうして」
「ええ。どうして……」
エレナは唇を噛み締めた。
どうして彼は、自分の正当な報告が握り潰されたと知った後も、この監査院という組織に残り続けたのか。
不正を憎み、事実を何よりも重んじる彼なら、評議会の腐敗を告発し、組織と戦うこともできたはずだ。だが、彼はそうしなかった。彼は組織に残り、妥協し、沈黙を守ったまま出世の階段を上り、今や首席監査官という権力の座に就いている。
それはつまり、彼が上層部の不正を『見て見ぬふり』をしてきたということに他ならない。
(エドガー様が、不正に目を瞑った……?)
胸の奥が、ギリリと音を立てて軋むような感覚があった。
彼はずっと、エレナにとって絶対に揺るがない『無謬の正義』だった。どんな圧力にも屈さず、ただ事実だけを冷徹に守り抜く、完璧な監査官。
その彼の過去に、こんな泥にまみれた妥協の跡が残っているなんて。
夜が完全に明けた頃。
エレナは問題のログの写しを手に、エドガーの仮執務室へ向かった。特別監査が終了し、利益相反の接触制限は解除されている。もう、互いに言葉を交わすことに何の障害もない。
扉をノックして中に入ると、エドガーはすでに身支度を整え、王都への報告書に目を通していた。
「……どうした、ヴァレント再建官。ひどい顔だぞ。徹夜したのか」
エドガーが微かに眉をひそめて振り返る。
エレナは無言のまま彼の机の前に進み出ると、手にしていた二年前のログの写しを置いた。
自分の名前と、書き換えられた決裁印を見たエドガーの青い瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。だが、彼はすぐに普段の冷徹な仮面を取り戻し、静かに息を吐いた。
「……見つけたか」
「はい。エドガー様、これはどういうことですか」
エレナの声は、自分でも驚くほど震えていた。
「あなたは二年前、ダストワール商会の不正な運賃引き上げに気づき、上層部に警告を出していた。ですが、それは握り潰された。……なぜ、あなたは告発しなかったのですか? なぜ、不正を見逃すような組織に残り、出世を受け入れたのですか?」
激しい追及の言葉だった。だが、エドガーは目を逸らすことも、取り乱すこともなかった。
彼はログの写しを指先で弾き、極めて淡々とした声で答えた。
「当時、私が確認したのは一領の価格異常だった。談合全体を裏づける記録までは揃っていなかった。警告を退けられた後、外部審査にまで持ち込むことを私は選ばなかった」
「それは……っ」
「私は、ただ正しさを主張して散る『潔い敗者』になるつもりはなかった」
エドガーは立ち上がり、窓の外の雪景色へと視線を向けた。
「私の目的は、家名や身分によって個人の功績と責任が奪われる、この国の旧態依然とした仕組みそのものを変えることだ。そのためには、外から石を投げるのではなく、組織の内側で『権力』を持たなければならない」
「……」
「だから私は、妥協した。警告の控えを残しながら、再審査の要求を重ねるより、内部の記録手続きを変える仕事を優先した。上層部と折り合う場面もあった。……その代償として、ダストワール商会が他領で不当な利益を啜り、現地の領民たちが苦しんでいる事実を、今日に至るまで見殺しにしてきた」
エドガーが振り向いた。その冷徹な青い瞳の奥には、彼が長年抱え込み、ひた隠しにしてきた深い絶望と自己嫌悪の色が、初めて生々しく浮かび上がっていた。
「これが、私の『汚れ』だ。私は君が思っているような、清廉潔白な正義の味方ではない。組織に残ると決め、その間に止められなかった被害がある人間だ」
自らを冷酷に切り捨てるような彼の告白。
エレナは、息が止まるような衝撃を受けた。
幻滅したからではない。彼がどれほどの苦痛と孤独を抱えながら、あの冷徹な仮面を被り続けてきたのかを、痛いほどに理解してしまったからだ。
母の功績を父に奪われ、存在を消された過去。
二度と誰にもそんな悲劇を繰り返させないため、彼は自らの手を汚してでも制度を変える力を求めた。誰にも理解されず、軽蔑されることを受け入れてでも。
(エドガー様は、無謬の神様なんかじゃない)
エレナの目から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。
ハルベルク侯爵家で、役に立つことでしか自分の価値を見出せず、心を殺して数字の辻褄を合わせ続けていた自分と、何が違うというのか。
彼もまた、傷つき、間違い、何かを犠牲にしながら、それでも必死に自分の足で立とうとしている不完全な『人間』なのだ。
完璧な監査官としての彼を尊敬していた。だが今、目の前で自らの汚れを曝け出し、不器用に立ち尽くしている彼を見て、エレナの胸に湧き上がったのは、これまでの尊敬など吹き飛ぶほどの、深く熱い愛情だった。
「……泣くことはないだろう」
エドガーが、酷く困ったような、痛ましげな声を出した。彼は戸惑いながら手を伸ばしかけ、だが自分の汚れた手で彼女に触れる資格はないと思い直したのか、空中でその手を止めた。
エレナは自ら一歩踏み出し、宙で止まっていた彼の手を両手でしっかりと包み込んだ。
「エレナ……?」
「泣いていません。……いいえ、泣いていますが、あなたに幻滅したわけではありません」
エレナは涙を拭い、彼を真っ直ぐに見上げた。
「あなたは、泥にまみれながらも、その手で私の記録を差し戻し、私の名前を守ってくれた。私が間違った道に進もうとした時、監査の刃を突きつけて正してくれた。……あなたが残った理由は分かりました。でも、その間に損をした人の分まで、私が許すことはできません。……それでも、今ここから調べ直すあなたと、一緒に働きたいです」
エレナの言葉に、エドガーの瞳が大きく見開かれた。
エドガーは何か言いかけ、唇を閉じた。握った手の力が、わずかに強まった。
エドガーの喉が小さく鳴り、彼はゆっくりと、エレナの両手を力強く握り返した。
「……後悔するぞ、ヴァレント再建官」
「しません、レイン首席監査官。私は、一度決めた仕事は投げ出さない主義ですから」
涙で濡れた顔のままエレナが微笑むと、エドガーの顔にも、ついに隠しきれない安堵の笑みが浮かんだ。
尊敬一辺倒だった距離感は消え去り、二人は痛みと罪を共有する対等なパートナーとして、確かな絆を結び直した。
だが、二人の前に立ち塞がる壁は、想像以上に巨大だった。
「エドガー様。ラウル次官の国家的談合網を打ち崩すためには、ロズフェルド領の数字だけでは足りません。複数の領地にまたがる不正の証拠を、すべて同時に押さえる必要があります」
「ああ。だが、君はあくまで『ロズフェルド領』の再建官であり、監査院には他領を調べる権限がある。ただし、不正な契約を止めた後の物流を引き継ぐ権限はない」
いくら二人が結託しても、今の役職の枠組みの中では、この巨大なシステムを止めることはできない。
点と点を線で結び、国家の暗部に正当な裁きを下すためには、監査とは別に、各領の同意を得て物流の再建を担う仕組みが必要だった。




