第28話 監査院を監査する
国庫庁次官ラウル・ヴァンデルがロズフェルド領を去ってから、数日が経過していた。
領の冬季輸送は、ミナたちの二重チェック体制のもとで順調に進んでいた。だが、エレナの執務室の机には、領の帳簿とは別の、分厚い王国法令集が何冊も積み上げられていた。
「……やはり、この巨大な談合網を立証するためには、監査院の記録が必要不可欠ね」
エレナは疲れた目を擦りながら、ポツリと呟いた。
ラウル次官が承認印を押した、複数領にまたがる不自然な緊急補助金の申請と、ダストワール商会をはじめとする特定業者による高額な落札。これらがただの偶然ではなく、意図的な『国家的談合』であることを証明するには、一つの巨大な壁を越えなければならない。
それは、「なぜ過去三年間、これらの不自然な契約が、王国監査院の厳しい審査をすり抜けてきたのか」という疑問だ。
監査院の内部で、誰かが意図的に見逃したのか。あるいは、不正を告発しようとした声が、上層部によって握り潰されたのか。
その事実を証明できなければ、ラウル次官を追い詰めることはできない。だが、それは同時に、エドガーが所属する絶対的な権力機関『王国監査院』そのものに疑いのメスを入れることを意味していた。
(エドガー様の組織を、私が監査する。……そんなことが、許されるのかしら)
エレナはペンを握りしめ、ためらった。
彼はエレナの潔白を証明するために、自ら担当を外れ、身を引いてくれた。その彼が心血を注いでいる組織に、他所者である自分が牙を剥く。それは、彼に対する裏切りのようにも思えたからだ。
だが、エレナの脳裏に、自分の失敗を訂正した夜に聞いた彼の言葉が蘇る。
『存在した人間を誰かの都合で消させるつもりはない』
そうだ。彼は組織の面子を守るために事実を隠蔽するような男ではない。もし監査院の内部が腐敗しているのなら、彼はそれを正すことを望むはずだ。
「……やるしかないわ」
エレナは再び法令集を開き、監査院の内部規定と、国庫補助法を照らし合わせた。
やがて彼女の指先が、ある一つの条文でピタリと止まる。
『国庫補助事業における外部再建責任者は、事業の適正な遂行に必要と認められる場合、王国監査院の保有する公共契約記録に対する閲覧請求を行うことができる』
これだ。この制度を使えば、外部の人間であっても監査院の記録にアクセスできる。
エレナは直ちに白紙の羊皮紙を引き寄せ、閲覧請求書の作成に取り掛かった。だが、彼女は闇雲に「すべての記録を見せろ」と要求するほど愚かではなかった。監査院の機密保持規定に引っかかれば、一瞬で却下されてしまうからだ。
「閲覧対象は、あくまで『通常契約記録』と『監査判断ログ』に限定する……」
エレナは自ら対象を絞り込んだ。内部通報の記録、刑事送致に向けた準備資料、そして最も機密性の高い『封印記録の本文』は、最初から閲覧請求の対象外とする。通常の閲覧請求では開示されず、公益開示という別の手続きを要するからだ。
だが、エレナはそこに一つ、法令集の目録開示条項を根拠とする一文を書き加えた。
『ただし、本請求の対象となる補助金事業に関連して、閲覧不可の封印記録が存在する場合。その本文の開示は求めないが、該当する封印記録が「存在するか否か」「何件あるか」「現在も封印状態が維持されているか」という『目録情報』のみは、請求者へ開示されるべきである』
中身は見えなくとも、そこに「隠された箱がある」という事実さえ分かれば、談合を立証するための強力な武器になる。
エレナは対象と根拠を確かめ、最後に自分の名前を署名した。
翌朝。
エレナは、完成した『監査院記録閲覧請求書』を監査院の地方受付へ提出した。受付番号を付した職員は、記録保管局へ送る前に首席監査官へ報告したいと言った。
仮執務室で文面を確かめたヨハンが、ギョッと目を剥いた。
「ヴァ、ヴァレント再建官……! これは、本気ですか?」
「はい。他領で起きたダストワール商会との契約に関する、過去三年分の監査判断ログの開示を求めます」
「しかし、これは我が監査院の審査機能そのものに疑いを向ける行為です! 外部の人間が、監査院の過去の判断を洗い直すなど……組織に対する重大な挑戦と受け取られかねません。王都の評議会が、黙って通すはずがありませんよ!」
エレナは提出控えを机に置いた。受付番号は、もう打たれている。
「請求先は記録保管局です。開示の可否は、そちらの回答を待ちます。今日の便で送ってください」
だが、エドガーの青い瞳は、少しの不快感も怒りも帯びていなかった。
彼はエレナの組み上げた請求書を、一行一行、丁寧に読み込んでいく。
「ヨハン。請求の相手が監査院でも、送付の扱いは変わらない。受付済みなら、今日の便に載せろ」
「……承知しました。送付時刻も記録します」
エドガーは別の用紙を取り出した。
「請求対象には、私の過去の担当案件が含まれる可能性がある。記録保管局へ関係を申告する。私は開示の可否や資料の選定には加わらない」
彼は申告書に署名し、請求書と共に送るようヨハンへ渡した。
開示を判断するのは、記録保管局の審査担当者だ。エレナは提出控えの宛先を確かめた。自分の報告書を差し戻された日のことが、ふと蘇る。今は逆に、彼の組織の記録を自分が確かめようとしている。
机の端に置かれた控えをエドガーが取り、返してくれた。その指先と一瞬触れ、エレナは書類を取り落としかけた。仕事の相手として疑問を向けることと、この人に会いたいと思うことは、同時に自分の中にあった。
「……ありがとうございます、レイン首席監査官」
「請求したのは君だ。回答に足りないものがあれば、控えの番号で問い合わせるといい」
エレナは受付番号を手帳に写し、控えを鞄にしまった。
数日後。
記録保管局から開示決定と、通常契約記録・監査判断ログの写しが届けられた。決定書にはエドガーの関係申告を踏まえ、当該案件に関与していない審査担当者が判断した旨と、その署名があった。
エレナはミナと共に、その資料の海に飛び込んだ。
過去三年間、ダストワール商会をはじめとする談合商会が落札した案件において、どのような監査が行われてきたのか。数字とログを照らし合わせていく作業は、気が遠くなるほど過酷だったが、同時に監査院内部の淀みを確実に浮き彫りにしていった。
「エレナ様。やはりおかしいです」
深夜。目を赤くしたミナが、一枚のログを引っ張り出してきた。
「二年前の南部穀倉地帯の緊急予算案件ですが、現場の監査官が『不自然な運賃の高騰』を指摘する報告を上げています。ですが、その上の決裁プロセスで、理由もなくその報告が『問題なし』に書き換えられています」
「見せてちょうだい」
エレナはログを受け取った。
確かに、現場から上げられた警告報告が、上層部の判断で握り潰された痕跡がはっきりと残っている。監査院の上層部にも、ラウル次官の談合網に加担し、事実を捻じ曲げる腐敗した者たちがいるのだ。
だが、エレナの視線は、そのログに記された『ある名前』に釘付けになった。
「……嘘、でしょう?」
エレナの指先が震える。
二年前。この不自然な運賃の高騰をいち早く見抜き、上層部に警告報告を上げた現場の監査官。
その提出者の欄には、見慣れた流麗な署名が記されていたのだ。
『王国監査官 エドガー・レイン』
彼だ。彼は二年前の時点で、すでにこの巨大な談合の気配に気づき、組織に対して警告を発していた。
だが、彼の報告は握り潰された。
問題はそこではない。
エレナが凍りついたのは、彼が自らの報告を握り潰された事実を知りながら――その後も今日に至るまで、彼がその『腐敗した監査院』という組織に残り続け、出世を遂げているという事実だった。
「どうして……」
間違いのない人だと思っていた彼。誰よりも事実の隠蔽を憎むはずの彼。
その彼が、自らの正義をへし折られてなお、泥にまみれた組織に留まり続けていた。
エレナは手にしたログを見つめながら、彼の冷徹な仮面の奥に隠された、決して綺麗事だけではない『汚れ』と妥協の過去に、初めて触れようとしていた。




