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婚約破棄は承りました。私の仕事まで、あなたのものではありません~冷徹監査官は私を囲わない~  作者: 他力本願寺


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第3話 命令すれば早いのに

急行馬車に揺られること三日。


 王都の喧騒を遠く離れ、エレナたちは緑豊かな、しかしどこか活気に乏しいロズフェルド伯爵領の中心街へと到着した。


 晩春とはいえ、風はまだ冷たく、領主の館へ続く石畳の道は、行き交う荷車の数もまばらだった。


「……随分と静かな街ですね」


 馬車の窓から外を眺めながら、エレナはぽつりとこぼした。


 同乗しているエドガーは、手元の書類から視線を上げることなく淡々と答える。


「物流が滞っている証拠だ。帳簿上の数字を合わせるために、秋から冬にかけての買い付けを絞りすぎた結果、春になっても市場に物が回っていない」


 領主の館は、かつての栄華を思わせる立派な造りだったが、壁のツタは手入れが行き届いておらず、どこか寒々しい印象を与えた。


 応接間に通されたエレナたちを出迎えたのは、現在の領主代行であるロズフェルド伯爵未亡人、マルグリット・ロズフェルドだった。喪服を思わせる暗い色のドレスに身を包んだ、厳格そうな五十代の女性である。


「監査院の首席監査官殿が直々に足を運ばれるとは、恐れ入ります」


 マルグリットはエドガーに対しては丁寧な敬意を払ったが、その隣に立つエレナへ向けられた視線は、明確な警戒と値踏みの色を帯びていた。


「ですが……そちらの若いお嬢様が、我が領の『再建官』候補とは。失礼ながら、ヴァレント伯爵令嬢は先日、ハルベルク侯爵家から婚約破棄されたばかりだと伺っております。そのような身辺の落ち着かない部外者に、我が領の台所事情――詳細な現場資料や倉庫の鍵を預けるわけにはまいりません」


 マルグリットの拒絶には、領主代行としての警戒もあった。旧来の貴族社会において、領地の帳簿は家の恥部でもある。それを、王都でスキャンダルを起こしたばかりの若い娘に見せろと言われて、はいそうですかと頷く者はいない。


「お言葉ですが、マルグリット様。私は――」


 エレナが一歩前に出ようとした時、エドガーの背後に控えていたヨハンが、すっと前に出た。


「マルグリット閣下。ご懸念は理解いたしますが、これは王国監査院が正式に認可した選考プロセスです。もしご協力をいただけないというのであれば、監査院の権限において『強制命令』を発動し、一括で資料を開示していただくことも可能ですが」


 ヨハンの言葉に、マルグリットの顔が強張る。首席監査官の命令に逆らえば、国庫補助金の打ち切りという最悪の事態もあり得る。それはロズフェルド領にとって死を意味した。


「……命令とあれば、従わざるを得ませんが」


 屈辱に唇を噛むマルグリット。だが、その時だった。


「待て、ヨハン」


 エドガーが低く、静かな声で副官を制した。


「強制命令は出さない」


「ですが、首席監査官。それでは調査が始められません。我々の滞在日程にも限りがあります」


「構わない。王国からの正式な再建認可書が届き、そして何より、領主代行であるマルグリット様『ご自身』の同意が得られるまで、我々は待つ。監査院は証拠を保全し適法性を確認する機関であり、領地経営の権限を強制的に強奪する機関ではない」


 その言葉に、マルグリットだけでなく、エレナも驚いてエドガーを見た。


 エドガーが権力を行使すれば、資料の開示など一瞬で終わる。彼の命令一つで、エレナは今すぐにでもすべての帳簿に目を通すことができるのだ。


 監査のために資料を取り上げることと、再建官が領地の仕事を任されることは違う。


(……命令すれば早いのに。この人は、どこまでも正規の手続きを崩さないのね)


 エレナは認可書を待つ間にできることを考え、微かに口角を上げた。


「マルグリット様。お気遣いなく。正式な認可が下りるまで、館の帳簿には一切触れません」


「……え?」


「ですが、私は私で、今できることをさせていただきます」


 エレナは一礼すると、エドガーたちを残してさっさと応接間を後にした。


 館を出たエレナが向かったのは、街の中心にある市場と、領が管理する巨大な物流倉庫の『外側』だった。


 正式な権限がないため、倉庫の中に入ることはできないし、帳簿を見ることもできない。だが、実務家であるエレナには、外から見える事実だけで十分だった。


「……小麦の市場価格が、王都より二割も高い。しかも、出回っているのは昨年の古い麦ばかりね」


 エレナはメモ帳に素早く数字を書き込んでいく。


「倉庫に出入りする荷車の数は一時間に三台。荷台の沈み方に比べて、商人が話す運賃は高い。行き先を尋ねると、どれも同じ倉庫だと言う……。重量記録と請求書を照合したいわね」


 エレナは三日間、泥濘む春の道を歩き回り、現場の事実をひたすら拾い集めた。


 誰が、どこで、不当な利益を得ているのか。それを証明するためには、館にある『どの資料』が必要になるのか。膨大な情報の海から、ピンポイントで急所を突くための計算式を頭の中で組み上げていく。


 そして四日目の朝。


 王都から急行便で、エレナの『期限付き再建官』としての正式な認可書が届いた。


 再び応接間に集まったマルグリットの前で、エレナは一枚の紙を差し出した。


「マルグリット様。認可が下りました。つきましては、館にあるすべての帳簿……ではなく、このリストに記載した『過去三年分の第六倉庫の重量記録』および『指定した三つの運送商会との契約書原本』のみを開示してください」


 リストを受け取ったマルグリットは、そこに書かれた的確すぎる要求に目を見張った。


 マルグリットはリストの倉庫番号を指でなぞり、傍らの家令に確認した。


「……あなたは、この数日で、調べるべき記録をここまで絞ったというのですか」


「はい。あとは、数字の裏付けを取るだけです。ご協力いただけますか?」


 エレナの真っ直ぐな視線を受け止めたマルグリットは、やがて深く息を吐き出し、ゆっくりと頷いた。


「……分かりました。ヴァレント再建官。我がロズフェルド領の記録、すべてあなたに開示いたしましょう。どうか、領民を救ってください」


 マルグリットが、自分の意志で同意書へ署名した。


 エレナが自らの足と頭脳で勝ち取った、最初の再建官としての調査権限だった。


 エドガーは同意書への署名を確認し、認可書と合わせて発効時刻を記した。エレナが顔を上げると、彼はわずかに頷いた。

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