第2話 同情ではなく試験
ハルベルク侯爵邸での騒動から一夜が明けた。
王都の閑静な区画にあるヴァレント伯爵邸の応接室には、重苦しい静寂が漂っていた。
「エレナ。あの男のことはもう忘れなさい。君は何も悪くないのだから」
「そうですわ。当分は領地の別邸でゆっくり羽根を伸ばすといいわ。新しい縁談なら、お父様と私でいくらでも探してあげますからね」
ソファの向かいに座る両親は、痛ましげな顔でエレナを見つめ、口々に慰めの言葉をかけてくれる。
彼らの愛情は本物だ。ヴァレント家は決して大貴族ではないが、家族の絆は温かい。昨夜、荷物一つで帰ってきた娘を、彼らは一切責めることなく迎え入れてくれた。
だが、両親が用意してくれた「保護」という名の温かい毛布に包まれながら、エレナの心はひどく冷え切っていた。
(休む……? いつまで?)
エレナの手のひらには、昨夜まで握っていたペンだこが硬く残っている。
六年間、毎日数字と格闘し、領民の生活をどう回すかだけを考えて生きてきた。そのすべてを奪われ、「可哀想な娘」として実家の庇護下に戻る。それは、誰かの役に立つことでしか自分の存在価値を見出せないエレナにとって、ゆっくりと窒息していくようなものだった。
何かを考え、手を動かさなければ、自分が空っぽになって消えてしまいそうだった。
その時、執事が慌ただしい足音とともに応接室へ駆け込んできた。
「旦那様! わ、王国監査院の首席監査官殿が、エレナお嬢様に面会をと……!」
「なんだと? 監査院がなぜ我が家に」
父が面会を了承し、執事が来客を案内した。
そこに立っていたのは、昨夜の夜会と同じ、隙のない漆黒の制服に身を包んだエドガー・レインだった。銀の髪と氷のような青い瞳が、室内の空気を一瞬で引き締める。
彼は伯爵夫妻に形式的な挨拶を済ませると、まっすぐにエレナの前まで進み出た。そして、傍らに控えていた副官のヨハンから分厚い革張りの書類鞄を受け取り、ためらいもなくローテーブルの上にドンッと置いた。
「ヴァレント嬢。君に一つ、提案を持ってきた」
傷心の令嬢にかける言葉としては、あまりにも事務的で冷淡な響きだった。父が庇うように身を乗り出す。
「レイン殿。娘は昨日、酷い目に遭ったばかりです。監査院の事情聴取なら、日を改めていただきたい」
「聴取ではありません、伯爵。これは試験です」
「試験……?」
エドガーはテーブルの上の分厚い書類を指で叩いた。
「現在、王都より東に位置するロズフェルド伯爵領が、深刻な財政危機に陥っている。私は現在、王国認可による『期限付き再建官』の派遣選考を監督しているが……ヴァレント嬢、君にこの監査資料を読んでもらいたい」
「私に、ですか」
「そうだ。昨夜の君の指摘は完璧だった。だが、あれは君が六年間見続けた見知った数字だ。初見の、しかも他領の乱れた帳簿から何を見出せるか。もしこの資料から的確な問題点を見抜けたなら、君を再建官の候補として王国に正式推薦する」
彼が求めているのは、初めて見る帳簿を前にした、エレナ自身の答えだった。
エレナの奥底で、冷え切っていた何かに熱が灯るのを感じた。
両親は「そんな、傷ついた娘にいきなり他家の赤字再建だなんて」と難色を示したが、エレナは静かに首を振って彼らを制した。
「お父様、お母様。お気遣いは嬉しいですが……私は、ただ守られて部屋に籠もっているより、自分の手で仕事をしたいのです」
エレナは両親に向けた柔らかな笑みを消し、実務家の顔に切り替えてエドガーと対峙した。
「お受けします、レイン首席監査官。ですが、資料を開く前に確認させてください。もし私が試験に合格し、再建官として赴任した場合の条件についてです」
「言ってみろ」
「第一に、私個人の名前での王国との直接契約であること。報酬と任期、および現地での人事・契約見直しに関する裁量権を事前に明文化すること。第二に――」
エレナはエドガーの青い瞳を真っ向から見据えた。
「私が行う再建業務に対し、監査院から不当な介入があった場合、監査官の判断に対して正式に異議を申し立てる経路を保証すること。以上です」
父が「エレナ、首席監査官殿に向かって何という口を……!」と息を呑んだ。相手は泣く子も黙る冷徹監査官だ。一介の令嬢が条件闘争など持ちかければ、不敬だと一蹴されてもおかしくない。
だが、エドガーの表情はピクリとも動かなかった。
「妥当な要求だ。裁量権の範囲と報酬規定は王国法第四章に準拠する。異議申立て経路についても、行政審判会への申し立て手続きを契約書に明記しよう。一つも値切るつもりはない」
エドガーは契約書のひな形に、彼女が挙げた条件を書き加えた。エレナは身を乗り出し、その文面を確かめた。
「では、試験を始めよう。制限時間は一時間だ。ロズフェルド領の赤字の主因を特定しろ」
エドガーが資料の紐を解いた。選考用に、機密部分を除いた写しだと説明を添える。
エレナは革張りの帳簿を引き寄せ、ページをめくる。インクの匂い。数字の羅列。途端に、世界が鮮明な輪郭を取り戻していくのを感じた。
ロズフェルド領は戦後の借金と、外部からの補助金依存で首が回らなくなっていると噂で聞いたことがある。だが、数字は嘘をつかない。
エレナの視線が、紙面を滑るように動いていく。支出の項目、税収、そして物流に関する記録。
開始からわずか二十分後。エレナはペンを置き、顔を上げた。
「特定しました。問題は、単なる支出過多ではありません」
「ほう。では何だ?」
「『輸送費の二重計上』と、それに伴う『冬季在庫の致命的な不足』です」
エレナは帳簿の該当ページを二箇所開き、エドガーの前に並べた。
「ここを見てください。昨年度の春の種麦の輸送費と、秋の収穫物の買い上げ輸送費。名目は違いますが、運送業者への支払い単価が距離に対して三割ほど高く設定されています。さらに、領の予算管理とは別の『国庫補助金特別枠』の帳簿にも、同じ商会への馬車維持費が名目を変えて計上されている」
「……」
「この重複した支払いに費やされた資金は、本来なら冬を越すための備蓄麦の購入に充てられるべきものでした。ですが、帳簿上の数字を合わせるために、昨秋の買い付け量が規定値の半分に減らされ、今年度の計画にも同じ不足が持ち越されています。このままでは、初雪が降る頃には領民が飢えます。赤字を埋めることより、物流経路の再構築と冬用備蓄の確保が急務です」
よどみないエレナの解説に、副官のヨハンが目を見開いて息を呑んだ。ヨハンは採点用の控えと、エレナが開いた頁を見比べた。
エドガーは帳簿を見つめていた視線をゆっくりと上げ、エレナを見た。その冷たい青い瞳の奥に、確かな熱が揺らいだように見えた。
「……見事だ。いや、私の期待以上だったと言うべきか」
エドガーは立ち上がり、静かに告げた。
「試験は合格だ、ヴァレント嬢。君をロズフェルド領の再建官候補として正式に承認する。これは哀れみでも同情でもない。君自身の能力と、制度に基づく正当な評価だ」
その言葉は、どんな優しい慰めよりもエレナの胸を強く打った。
奪われた名前。失われた六年間。けれど、私にはまだこの目と頭がある。
エレナは深く頷き、自らの足で立ち上がる決意を固めた。




