第1話 婚約破棄と消えた署名
豪奢なシャンデリアが眩い光を落とすハルベルク侯爵邸の大広間には、王都中の有力貴族たちが集まっていた。
本日の主役は、壇上で胸を張り、朗々と声を響かせている侯爵家嫡男、セドリック・ハルベルクである。
「――以上が、私が設計を主導し、我が侯爵家がこの六年間で推し進めた物流網の再構築、ならびに領地会計の抜本的改革の成果です。国庫補助金を最大限に活用し、無駄な中抜きを排除することで、我が領の収益は前年比で三十パーセントの増加を達成いたしました!」
自信に満ちた彼の報告が終わると同時に、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。称賛の嵐を全身に浴びて、セドリックは満足げに微笑んでいる。
だが、会場の隅、柱の陰に立つ伯爵令嬢エレナ・ヴァレントの目は、どこまでも冷ややかだった。
(……中抜きを排除したんじゃない。現地の馬車組合と半年かけて交渉し、積載量と季節変動に基づいた適正な運賃テーブルを私が作り直しただけよ)
エレナは手元の配付資料に視線を落とす。綺麗に製本されたその報告書には、彼女が徹夜を繰り返して書き上げた数字が並んでいる。だが、どこを探しても『エレナ・ヴァレント』という作成者の名前はない。
すべては「ハルベルク侯爵家」という強大な家名に吸い込まれ、次期当主であるセドリックの輝かしい実績として塗り替えられていた。
十八歳で婚約してからの六年間、エレナは彼を支えるために家政と領地会計の裏方を一手に担ってきた。華やかな夜会を辞退し、埃っぽい書庫で過去数十年分の帳簿と格闘し、現場の職人や商人たちと泥臭い調整を重ねてきた。
それが、侯爵家に嫁ぐ者の義務であり、彼から必要とされる唯一の手段だと信じていたからだ。
「さて、皆様。本日は我が家の成果報告に加えて、もう一つ、重要なご報告があります」
拍手が鳴り止むのを待って、セドリックが口を開いた。彼の視線が、人垣を縫って真っ直ぐにエレナへと向けられる。
嫌な予感がした。エレナが顔を上げると、セドリックの傍らに見知らぬ愛らしい令嬢が進み出て、彼にぴったりと寄り添った。
「私、セドリック・ハルベルクは、本日をもってエレナ・ヴァレント伯爵令嬢との婚約を破棄いたします」
大広間が、水を打ったように静まり返った。
セドリックは芝居がかった手つきで、隣の令嬢の肩を抱き寄せる。
「エレナ。君は確かに事務処理には長けているかもしれない。だが、地味で愛嬌に欠け、社交も満足にこなせない君は、これからの躍進する侯爵家を支える妻にはふさわしくない。私は彼女のような、真に愛せる、侯爵夫人にふさわしい華のある女性を妻に迎えることに決めた。君の役目はもう終わったんだ。荷物をまとめて、実家へ帰りたまえ」
公開の場での、一方的で冷酷な宣告。
ざわめきが波のように広がる。貴族たちはエレナを一斉に振り返り、扇の陰から嘲笑と同情の視線を投げかけた。
六年間の献身は、ただの「無償の労働力」として使い捨てられた。悲劇の令嬢。哀れな女。泣き崩れるのを待つような視線の中で、エレナは唇を結んだ。
だが、エレナは一つだけ深呼吸をすると、静かに顔を上げた。
指先は冷えていた。泣くのは後でいい。今退場すれば、この数字まで彼の言う通りになってしまう。
「婚約破棄の件は承りました。ですが、その前に一つだけ訂正していただきたいことがあります」
エレナは感情の欠片もない声で言い放ち、手元の配付資料を高く掲げたまま、堂々とした足取りで壇上へと近づいていく。人垣が自然と割れ、彼女の道を作った。
「セドリック様。あなたが先ほど『自らの実績』として説明されたこの資料ですが、七ページ目、王都北地区への冬期備蓄麦の移送コストの項目をご覧ください。馬車一両あたりの積載量と冬期の天候による遅延リスクの係数が不自然に削られ、運賃が三割も低く見積もられています」
「なっ……何を言い出すんだ、君は! 見苦しい言い掛かりはやめろ!」
「言い掛かりではありません。先週私が提出した最終下書きの時点では、現地の馬車組合と合意した正確な数値が記載されていました。しかし、この報告書は数字が改竄されている。見栄えの良い利益を捻出するために、誰かが意図的に数字を書き換えたのです」
セドリックの顔色が変わった。誰が書き換えを命じたのかは、決裁記録を見なければ分からない。エレナは彼の反論を待った。
「エレナ! 貴様、自分の立場が分かっているのか! 侯爵家に対する侮辱だぞ!」
「現場の実測値に基づかない机上の空論で事業を進めれば、今年の冬、北地区の物流は確実に破綻します。私はこの数字の根拠について、作成プロセスと修正履歴の保全を求めます!」
エレナの凛とした声が大広間に響き渡る。だが、相手は侯爵家だ。一介の伯爵令嬢の訴えなど、力で握り潰されるのは目に見えていた。セドリックの護衛たちが、エレナを排除しようと動き出す。
その時だった。
「――そこまでだ」
会場の最後列から、低く、しかし氷のように冷たく響く男の声が落ちた。
喧騒が一瞬で凍りつく。声の主がゆっくりと前へ進み出ると、貴族たちが慌てて道を空けた。
黒を基調とした軍服のような厳格な制服。月明かりを固めたような銀糸の髪に、すべてを見透かすような冷徹な青い瞳。
王国監査院首席監査官、エドガー・レイン。
貴族の不正を容赦なく暴き、家名や権力に一切の配慮を持たないことから『冷徹監査官』と恐れられる男が、なぜか一侯爵家の成果報告会に足を運んでいた。
「レ、レイン首席監査官殿……! なぜ、あなたがここに」
セドリックの声が上擦る。エドガーは表情を変えずにセドリックを見据えると、監査官証と保全命令の用紙を取り出した。
「国庫補助事業の成果報告と聞いて視察に参ったが……随分と興味深い話が聞けた。王国監査院の権限において、本件事業に関する全原資料、下書き、および修正決裁記録の即時封印保全を命じる」
「なっ……お待ちください! これは侯爵家の内部の問題です! たかが女の戯言で監査院が動くなど――」
「国庫の補助金が投入された事業において、数字の偽造疑惑が公言されたのだ。調べる義務が我々にはある」
エドガーは振り返ることなく、背後に控えていた副官のヨハンに顎で指示を出した。
「ヨハン。直ちに侯爵家の書庫と執務室を封鎖しろ。紙一枚、インクの一滴たりとも外部への持ち出しを禁ずる」
「はっ。直ちに実務にかかります」
ヨハンが一礼して足早に立ち去る。セドリックは顔面を蒼白にさせ、わなわなと唇を震わせていた。
エドガーは、婚約破棄された可哀想な令嬢を庇う騎士のような振る舞いは一切しなかった。彼の視線はエレナを通り越し、ただ事実にのみ向けられている。
彼がエレナの前に立ち止まった時、その青い瞳が初めてエレナを真っ直ぐに射抜いた。
「ヴァレント嬢と言ったな。君を本件の参考人として扱う」
「……参考人、ですか」
「先ほどの指摘について確認する。君が原資料の『実作成者』だな?」
エドガーの言葉には、同情も慰めもない。ただ、彼女が六年間の時間を費やして作り上げた労働の価値を、正確に評価する響きがあった。
「元データはどこにある。改竄される前の本来の数字を証明できるか」
家名でも、婚約者の地位でもなく、自分の仕事そのものを問われている。エレナは背筋を伸ばし、監査官の冷たい瞳を真っ向から見返した。
「すべて証明できます。原資料の束は第三書庫の東棚、青い革表紙の台帳です。修正履歴と日時は、私個人の手控えに完全に記録してあります」
「よろしい。第三書庫へ案内してくれ」
エドガーは短く応じると、セドリックを一瞥もせずに背を向けた。
エレナもまた、かつての婚約者には目もくれず、自らの手で事実を立証するために監査官の後を追って歩き出した。




