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婚約破棄は承りました。私の仕事まで、あなたのものではありません~冷徹監査官は私を囲わない~  作者: 他力本願寺


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第26話 名前が守ったもの

ロズフェルド領主館の一階広間には、氷のように冷たく張り詰めた空気が満ちていた。


 本日は、独立監査班による特別監査の最終結果が公表される日である。長机の中央には責任者のセシル・アーレンが座り、その対面にはエレナが一人、背筋を伸ばして立っていた。


 暫定所見が下されてからの数日間、エレナは王都から目に見えない巨大な圧力がかかっているのを感じていた。国庫庁のラウル次官をはじめとする旧体制派は、この監査を利用して「平民や下働きを重用したヴァレント再建官の独裁が不正を招いた」というシナリオを作り上げ、エレナ一人にすべての責任を集中させて再建官の地位から引きずり下ろそうと画策しているらしかった。


(私が見落とした部分は認める。でも、していない決定まで引き受けてはいけない。記録に沿って答えよう)


 エレナは静かに覚悟を決めていた。


 自分が責任を取る。それが、名前を刻んだ者の義務なのだから。


「――これより、ロズフェルド領における国庫補助金緊急申請に関する、特別監査の最終結果を通達する」


 セシルが立ち上がり、分厚い最終報告書を開いた。


「暫定所見に対し、本部からは独断専行を疑う意見が出ています。当班はこれをそのまま結論とはせず、現場の判断記録を追加で照合しました。まず、その結果と証言を確認します」


 セシルが書記官に合図すると、広間の扉が開いた。


 そこに立っていたのは、領主代行のマルグリット、帳簿係のミナ、第六倉庫の初老の倉庫番、そして秋にエレナと共同入札の契約を結んだ地元の運送商人たちだった。


「先日提出された資料について、順に説明をお願いします」


 セシルに促され、ミナが照合済みの控えを証言台へ置いた。


「ミナ!? 皆さんも、証言に来てくださったのですね……」


 エレナが驚いて声を上げるが、ミナはエレナに向かって深く一礼した後、セシルを真っ直ぐに睨みつけた。


「アーレン監査官。王都の本部が、エレナ様お一人にすべての責任を押し付けようとしているという噂を聞きました。……それは、間違っています!」


 ミナは積み上げた書類の束をバンッと叩いた。


「これを見てください! これは、第六倉庫の配車記録、例外処理の申請書、そして現場の稟議書です。エレナ様がこの領にいらしてから、私たちはすべての記録に『自分自身の名前』で署名してきました。この書類の提案者欄を見てください。エレナ様一人の独断ではありません。現場の状況を見て、私が計算し、倉庫長が確認し、私たちの名前でエレナ様に提案したものです!」


「その通りだ!」


 第六倉庫の倉庫番が、力強い声で続いた。


「昔のように、上が勝手に決めて俺たち下働きに責任を押し付けたわけじゃねえ。俺たちは自分の仕事として、自分の判断で現場を動かした。あの馬鹿な事務官が賄賂を受け取った隙を作ったのは、俺たちの確認にも不足があった! ただ、誰が何を見落としたかは、この記録で分けてくれ! 再建官様一人のせいになんて、絶対にさせねえ!」


「我々商人も同じです」


 地元の運送商人が進み出た。


「ヴァレント様は、常に我々に数字を公開し、我々自身の名前で契約を結ばせてくれました。もし彼女の管理体制を『独断専行』と呼んで処罰するなら、我々が出した提案と、彼女が決めた内容を、この控えで確かめてください!」


 彼らの言葉に、エレナは目頭が熱くなるのを抑えきれなかった。


 ハルベルク侯爵家では、仕事はすべて『家』のものであり、都合が悪くなれば末端の人間は顔のない歯車として簡単に切り捨てられた。エレナ自身もそうやって捨てられた。


 だからこそ彼女は、赴任以来、現場の担当者の名前を記録に残してきたのだ。


 帳簿の欄に見慣れた筆跡が並んでいた。顔を上げれば、その名前の人たちがここにいる。


 セシルは無言のまま、机に叩きつけられた書類の束を手に取り、素早い手つきで確認していった。


 やがて彼は、書類を丁寧に机に置き直し、眼鏡の位置を直した。


「……事前の照合結果と、本日の説明に矛盾はありません」


 セシルの声は、相変わらず感情の起伏を感じさせなかったが、その目には確かな敬意が宿っていた。


「現場が自立して機能し、各人が自らの名で責任を分担している。これを『独断専行による組織の腐敗』と定義することは、監査院の論理として不可能です。……よって、本部からの指摘は証拠不十分として退けます」


 セシルは、改めて最終報告書を手に取った。


「結論を申し上げます。エレナ・ヴァレント再建官による重大な不正は『なし』と確定します。ただし、記録不足を生んだ管理責任に対する是正勧告と、減給三ヶ月の処分は規定通り適用されます。……最終認定は以上です」


「……っ!」


 ミナが泣き崩れ、倉庫番と商人たちが肩を叩き合って喜んだ。


 重大不正なし。再建官としての権限は剥奪されない。王都からの理不尽な横槍は、エレナたちが現場で残し続けた『名前の書かれた事実』によって、完全に打ち砕かれたのだ。


「異議はありません。アーレン監査官、公正な裁定をありがとうございました」


 エレナが深く頭を下げると、セシルもまた軍人のように一礼し、書類をまとめて広間を後にした。


 ***


 その日の夕方。


 猛烈な嵐のような監査が終わり、静寂を取り戻した執務室で、エレナは一人、減給処分の手続き書類にサインをしていた。


 罰は残ったが、心は驚くほど軽かった。自分が守りたかったものは、すべて守り抜くことができたからだ。


 コン、と控えめなノックの音がして、扉が開かれた。


 入ってきたのは、漆黒の制服を着たエドガーだった。


「……レイン首席監査官」


「監査結果が確定し、当班から私自身の手続きにも違法な便宜は認められないとの通知を受けた。これをもって、利益相反による『証人接触制限』は正式に解除となる」


 エドガーはエレナの机の前に立ち、少しだけ息を吐いた。


 数日間、まるで別世界にいるかのように遠ざかっていた彼が、再び『いつもの距離』に戻ってきたのだ。


「重い監査期間だったな。よく乗り切った」


「はい。……別の方に調べてもらうことは、必要だったのですね。……でも、会えないのは寂しかったです」


「私がしたことではない。君が日々の実務で彼らの名前を残し、誰が何を担ったかを記録した結果だ。君自身の仕事が、君を守ったのだ」


 エドガーの言葉は淡々としていたが、その青い瞳には、隠しきれない深い安堵と、彼女に対する誇りが滲み出ていた。


 エレナは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。彼が戻ってきてくれた。ただそれだけの事実が、これほどまでに嬉しい。


「……ですが、エドガー様」


 少しだけ私的な響きを取り戻した声で、エレナは問いかけた。


「王都の国庫庁……ラウル次官は、なぜあのような無理な横槍を入れてまで、私を潰そうとしたのでしょうか。ただの個人的な嫌がらせにしては、執拗すぎます」


 エレナの問いに、エドガーの表情が再び引き締まった。


 彼は手にしていた分厚い革張りの資料の束を、エレナの机の上に置いた。


「それについて、独立監査班がロズフェルド領の過去の帳簿を洗い直した結果、厄介な事実が浮かび上がった」


「厄介な事実、ですか?」


「ああ。君の潔白は重大不正なしと確定した。だが……」


 エドガーは資料のページを開き、ある項目を指し示した。


「監査資料を他の困窮領のデータと照合したところ、不気味な共通点が見つかった。ロズフェルド以外の複数の赤字領地でも、緊急補助金の申請が行われ、そのすべてがラウル次官の決裁ですんなりと通っている。そして――そのすべての領で、輸送を独占していたのが『ダストワール商会』をはじめとする、特定の商会群だ」


「同じ商会、同じ補助金経路……?」


 エレナは背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 それは単なる一領地の不正などではない。国庫庁のトップと、複数の大商会、そしてそれを取り巻く貴族たちが結託し、国の補助金を適法に見せかけて吸い上げるための、巨大な『国家的談合のシステム』の存在を示唆していた。


 エレナがロズフェルドでダストワール商会の独占を防ぎ、地元商人に物流を切り替えたことは、彼らが長年かけて作り上げたその巨大な集金システムに、真っ向から風穴を開ける行為だったのだ。


「彼らが君を潰そうとしたのは、個人的な恨みではない。彼らの『集金網(システム)』を守るためだ」


 エドガーの声が、執務室に低く響いた。


 エレナは、他領の記録を一枚ずつ机に広げた。自分たちが退けた商会の名が、ここにも、隣の紙にもある。ロズフェルドの帳簿だけを閉じて、済む話ではなかった。

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