第25話 公平は痛い
ロズフェルド領主館の窓ガラスを、吹き付ける雪が容赦なく叩いていた。
会議室の長机を挟み、エレナは真っ直ぐな姿勢で、対面に座る独立監査班責任者のセシル・アーレンを見据えていた。隣には、帳簿係のミナが祈るように両手を組んで控えている。
数日間に及んだ過酷な帳簿精査と、関係各所への聴取。その第一段階が終了し、本日、監査院としての『暫定所見』がエレナに通達されることになっていた。
「これより、特別監査における現段階での暫定所見を通知します」
セシルは感情の読めない灰色の瞳を書類に落とし、機械のように正確な声で読み上げ始めた。
「当独立監査班の調査の結果。被監査者エレナ・ヴァレント再建官の個人口座への不正な資金流入、特定商会との不適切な癒着、ならびに国庫補助金の私的流用といった『重大な不正』は、現段階において一切確認されませんでした」
その言葉が響いた瞬間、ミナの口から「ああ……っ」と深い安堵の息が漏れた。
当然の結果だった。エレナはただの一度も、私腹を肥やすために公金を動かしたことなどない。エドガーが担当を外れ、完全に独立した厳しい第三者の目が入ったことで、かえってエレナの決裁の透明性が証明された形となったのだ。
だが、セシルの追及はそこで終わらなかった。
「ただし、管理体制については別の指摘があります」
セシルは別の書類を一番上に引き出し、厳しい視線をエレナへ向けた。
「第六倉庫の配車スケジュールにおいて、担当事務官が特定業者から便宜のための少額リベートを受け取っていた件について。当該処理は緊急時の例外規定を用いて行われていましたが、その決裁過程において、責任者である貴女の確認不足による『記録の欠落』が複数箇所に認められました。本来なら複数の承認を経て実行されるべき例外手続きが、貴女一人の裁量と略式確認で通過してしまっている」
「……」
「これは、組織としての明らかな管理体制の不備です。よって当独立監査班は、王国規定に則り、再建班に対する『是正勧告』と、責任者である貴女個人に対する減給あるいは戒告を含めた『処分案』を提示する見込みです」
ミナが弾かれたように顔を上げた。
重大な不正はないと証明されたのに、部下の不始末による管理責任で罰を受けなければならない。それは、これまで必死に領のために働いてきたエレナにとって、あまりにも報われない裁定に思えたからだ。
「お待ちください、アーレン監査官! エレナ様は寝る間も惜しんでこの領の冬を救うために……!」
「ミナ。やめなさい」
エレナは静かな声で助手を制した。
セシルの提示した所見は、一切の情状酌量を排した、ただ規定に基づく『事実』の認定だ。
かつてのハルベルク侯爵家であれば、下働きの罪を切り捨てて、「私は知らなかった」と責任を回避するのが貴族の常識だった。だが、自分の名前で記録を残し、自分の名前で権利を行使するということは、同時に自らの足元で起きた失敗の責任からも逃げないということだ。
「アーレン監査官。あなたの所見に、異議はありません」
エレナは微塵も逃げることなく、セシルを真っ直ぐに見つめ返した。
「本人が金銭を受け取った責任とは別に、私が見落とした記録があります。例外処理の確認を抱え込み、現場の余裕も削りすぎました。その管理責任の指摘は受け止めます」
「……この所見はあくまで暫定です。王都の関連商会からの最終的な証拠書類が出揃う、数日後の公表をもって最終認定とします。それまでは不服申し立ての期間が設けられていますが、本当に異議はないのですね?」
「はい。事実に基づく公平な判断です。申し立ては行いません」
エレナの声に、悲壮感はなかった。
むしろ彼女の胸の中には、不思議なほどの清々しさがあった。
罰を受けることは、確かに痛い。自分の経歴に傷がつくことも怖い。だが、誰かの影に隠れて都合よく責任を回避するのではなく、一人の実務家として『自分の名前で正当に裁かれる』という現実は、彼女がようやく手にした『自立』の証明でもあったのだ。
「その代わり、最終認定を待つことなく、直ちに再建計画内の業務フローを修正します」
エレナは机の上で手を組み、セシルに向けて具体的な代案を提示した。
「これまで、緊急を要する例外処理の決裁は、時間短縮のためにすべて私が一人で確認と署名を行っていました。これが、現場の不自然な数字のズレを見落とす原因でした。明日より、配車担当の帳簿と会計担当の帳簿を完全に分離し、ミナを含めた三人の事務官による『二重チェック体制』を導入します。私一人の裁量ではなく、現場同士が相互に数字を監視し合う承認フローへ組み替えます」
失敗を嘆く暇があるなら、同じミスが二度と起きない仕組みを作る。
それが、実務家としてのエレナの矜持だった。
セシルはペンを止め、エレナが示した新しい確認欄を見た。
「……承知しました。その修正フロー案も、後ほど書面にて提出してください。本日の通知は以上です」
セシルが退室した後、エレナはすぐにミナに向き直り、新しいチェックシートの作成に取り掛かった。痛みを受け入れ、それを土台にしてより強固な組織を創り上げるために。
***
――エドガー
同じ頃、別区画の仮執務室で、エドガーは独立監査班から届いた当事者向けの通知を読んでいた。自分が署名した例外条項の適用は、現段階で違法とは認められない。エレナへの管理責任の指摘も、双方に通知すべき範囲で記されていた。
当班への指揮権はない。不服があれば、自分も所定の書面を出す立場だった。
エドガーは通知を伏せ、羽ペンを持ち上げた。何を書くつもりなのか。自分に問い、ペンを置いた。
彼女の不正が認められなかった安堵と、処分の文字を見る痛みが、胸の内でせめぎ合っていた。
(セシルに、もう少し事情を考慮してほしいと言いたい)
そう考えた自分を、エドガーは押しとどめた。
彼は王国監査院の首席監査官だ。担当を外れた今も、首席監査官という肩書きは残る。慰めのつもりの一言が、審査する者には圧力となる。
彼女がどれほど働いたかは知っている。それでも、見落とされた記録がある。その二つを、愛しているという理由で混ぜることはできなかった。
彼女を助けたい。あの理不尽な重圧から解き放ち、自分の腕の中に囲い込んで、すべての責任を代わりに負ってやりたい。
自分の力で彼女を庇護し、ずっとそばに置いておきたいという強烈な『欲望』が、理性を焼き尽くしそうになる。
「……駄目だ」
エドガーは目をきつく閉じ、己の拳が白くなるほどに握り込んだ。
(私がここで介入すれば、彼女の勝利を汚すことになる)
エレナは今、自分の足で立ち、自分の名前で責任を引き受けようとしている。彼女が自ら選び取った『誇り』を、どうして愛する自分が権力で踏みにじることができようか。
もしここでエドガーが彼女を助ければ、国庫庁のラウル・ヴァンデルが言う通りの「監査官の身内びいきの不正」を、自らの手で完成させてしまうことになるのだ。
監査の結論を変えてやることはできない。だが、話せる日が来た時、彼女の隣へ行くことはできる。
この前の面会で、彼女は一緒にお茶を飲みたいと言った。次は、自分からそう言いたかった。
「……耐えろ」
エドガーは、強く握っていた拳をゆっくりと解いた。
今夜は何を食べるのだろう。眠れるだろうか。仕事の報告では尋ねられないことばかりが、頭に浮かんだ。
エドガー・レインは沈黙の執務室の中で、一人、その痛烈なジレンマに耐え続けていた。




