第24話 記録に残る面会
ロズフェルド領主館の一階にある、普段は使われない無機質な会議室。
大きな長机の中央に、独立監査班の責任者であるセシル・アーレンが座り、そのすぐ背後には速記用の羽ペンを構えた書記官が控えていた。
机の左側に座るエレナは、膝の上で両手をきつく握り合わせていた。ここ数日の過酷な監査と部下の不正処理による疲労で、彼女の身体は鉛のように重かったが、それ以上に胸の奥で激しく警鐘を鳴らす緊張感があった。
「これより、被監査者エレナ・ヴァレント再建官と、手続当事者エドガー・レイン首席監査官との公式面会を開始する」
セシルが時計を確認し、感情のない声で宣言した。
扉が開かれ、エドガーが静かに会議室へと足を踏み入れた。
利益相反によって彼がエレナの執務室を去ってから、数日ぶりの再会だった。漆黒の制服に身を包んだ彼は、相変わらず氷のように冷徹な気配を纏っており、足音一つ立てずに机の右側の席――エレナの対角線上の位置に腰を下ろした。
「双方に確認する」
セシルが手元の書類を読み上げる。
「本面会は、王国監査院規定に基づく『証人接触制限の範囲確認』を目的とする。今後の特別監査が終了するまでの間、両名が本件申請に関わる一切の案件内容について議論、助言、あるいは情報交換を行うことを固く禁ずる。違反した場合は隠蔽工作と見なし、双方に厳重な処分を下す。相違ないか?」
「承知した」
「承知いたしました」
二人の声が重なった。書記官のペンが、カリカリと乾いた音を立てて羊皮紙に文字を刻んでいく。
「よろしい。規定の確認手続きは以上で終了となる」
セシルは書類をまとめると、机の上で指を組んだ。
「面会の規定時間は残り十五分あります。……制限範囲の確認が済んだ以上、この残り時間で貴方たちが何を話そうと私は関知しません。案件の話さえ出なければ、自由に会話をしていただいて結構です。ただし――」
セシルの灰色の瞳が、眼鏡の奥で鋭く光った。
「その会話の内容はすべて、この書記官の議事録に公式記録として残ります。それでもよろしければ、どうぞ」
冷ややかな宣告が室内に落ちた。
事件に関する話は一切禁止。しかも、独立監査班の責任者と書記官の監視下で、すべての発言が一語一句記録される。普通の人間なら、気まずさに耐えきれずに無言で時間が過ぎるのを待つか、早々に退室を申し出るだろう。
エレナもまた、何を話せばいいのか分からず、沈黙して視線を伏せた。
仕事の話を取り上げられてしまえば、六年間裏方に徹してきたエレナには、彼と共有できる話題など何一つないように思えたからだ。
だが、その沈黙を破ったのはエドガーの方だった。
「……食事は、きちんと取っているか?」
低く、落ち着いた声だった。
エレナは驚いて顔を上げた。エドガーの青い瞳が、まっすぐに彼女を射抜いている。
「え……あ、はい。ミナが用意してくれたものを、合間に少し」
「『少し』では足りない。君の顔色は紙のように白いし、目の下にはひどい隈ができている。睡眠時間も削っているのだろう。昨夜は何時間寝た?」
議事録を取るペンの音が、一瞬だけピタッと止まった。書記官が「これを本当に記録するのか?」という顔でセシルを見上げたが、セシルは無表情のまま「すべて記録しろ」と顎でしゃくった。
カリカリという音が再開される中、エレナは顔が熱くなるのを感じた。
「……三時間ほどです。ですが、監査の対応と、冬の物流の再計算がありましたから、仕方ありません。私は平気です」
「平気なものか」
エドガーは短く吐き捨てるように言った。その声には、冷徹な仮面の下に隠された、彼女の体調を案じる痛切な響きが混じっていた。
「体力を落とせば、思考も鈍る。仕事のためだけに言っているのではない。温かいスープは飲めそうか。……甘いものは摂っているのか?」
「……紅茶に、蜂蜜を少し入れています。エドガー様は? 王都の本部とのやり取りで、あなたもほとんど休まれていないと、ヨハン様から伺いましたが」
エレナが反撃するように問い返すと、エドガーはわずかに目を逸らした。
「私は問題ない。睡眠は四時間取っている。食事も……」
「そういえば、エドガー様は甘いものはお好きではないのですか?」
「……嫌いではないが、あまり口にしない。執務中はもっぱら、ブラックコーヒーだ。砂糖は入れない」
「まあ。それでは胃が荒れてしまいますよ。たまには甘いお茶菓子でも召し上がってください。王都の『焼き林檎のタルト』などは、とても美味しいと聞きますけれど」
「……覚えておこう」
カリカリカリカリ。
書記官のペンが、監査院の首席監査官と領地の再建官による『ブラックコーヒーと焼き林檎のタルト』についての会話を、冷酷な公文書として記録していく。
滑稽な光景だった。
だが、エレナの胸の奥は、これまで感じたことのないような甘い痺れで満たされていた。
(事件の話ができないから……私たちは初めて、仕事以外の話をしている)
彼がどんな飲み物を好むのか。何時間眠っているのか。
これまでは、帳簿の数字と制度の正当性というフィルターを通してしか近づけなかった二人だ。だが今、すべてを制限する『規則』という壁が、かえって彼らの間から仕事という装甲を剥ぎ取り、一人の男と女としての素顔を晒させている。
監視の目があり、言葉を選ばなければならないからこそ。
互いの何気ない問いかけの裏側に隠された「あなたに会いたかった」「あなたのことが心配でたまらない」という強烈な感情が、痛いほどに伝わってくるのだ。
「……この特別監査が終わって、ロズフェルドの冬が明けたら」
エドガーが、ふと静かな声で紡いだ。
彼の瞳が、エレナを柔らかく見つめている。
「雪が溶けて、春が来たら。……君は、何がしたい?」
仕事の予定を尋ねる時とは、少し違う声だった。
冬が終われば彼女は自由になる。その先の未来に、自分は存在できるのかという、祈りのような響きがあった。
エレナは膝の上の手をそっと解き、少しだけ考えてから、ふわりと微笑んだ。
「そうですね……。温かい春の陽だまりで、一日中、何も考えずに本を読みたいです。数字の書かれていない、ただの物語の本を」
「……それはいいな」
エドガーの唇の端が、微かに上がった。
「その時は、とびきり甘い紅茶を用意しよう。……胃が荒れないように」
「ふふっ。ブラックコーヒーではなくて?」
「ああ。私も一緒に飲みたい」
二人の間に流れる空気が、春の陽だまりのように温かく解けていく。
セシルが時計を一瞥し、一つ咳払いをした。
「……時間です。両名とも、本日の面会はこれまでとします。議事録の記載内容に問題がなければ、退出を許可します」
魔法が解けたように、エドガーの表情が再び首席監査官の冷徹な仮面へと戻った。
彼は無言で立ち上がると、会議室の扉へと向かう。
だが、退出する直前、振り返らずに一言だけ落とした。
「今夜は少しでも休んでくれ。……また、こうして話したい」
「はい」
扉が閉まり、彼の気配が完全に消えた後も、エレナは自身の胸の激しい高鳴りを抑えることができなかった。
規則と監視という障害が、彼との距離をここまで縮めてしまうなんて。
私はもう、彼をただの監査官として見ることはできない。彼が私の人生にいてくれないことなど、考えられない。
エレナは、自分の中で明確に育ってしまったその感情を、もはや誤魔化すことができなかった。




