第23話 監査される側の名前
ロズフェルド領主館の執務室は、針を落とす音さえ響きそうなほどの緊張感に包まれていた。
独立監査班の責任者、セシル・アーレンが着任して数日。彼の監査は、エドガーの冷徹さとはまた異なる、機械のように精密で容赦のないものだった。
「ヴァレント再建官。国庫補助金を用いた第三区画の馬車チャーター契約についてですが、相見積もりの決裁日が事後処理になっています。これは王国規定第十二条に抵触する恐れがありますが、どのような例外処理を適用したのですか?」
「その日は集中輸送開始前の豪雨により、東部からの急使が二日遅れました。天候による不可抗力の遅延であるため、特例第三号に則り、現場の事後承認で進めています。添付資料の気象記録と、荷受け人の署名を確認してください」
「……なるほど。確かに記録と一致しています。では次に、こちらの資材調達に関する領収書ですが――」
セシルの灰色の瞳は、少しの感情も交えずに膨大な書類の山を次々とさばいていく。
エレナは背筋を伸ばし、彼の問いに一つ一つ的確に答えていった。論理の破綻はない。すべて自分が現場を歩き、数字を確認して下した決断だ。
だが、息を抜く暇もない連日の聴取と書類作成は、確実にエレナと現場の事務官たちの体力を奪っていた。何より、一番の心の支えであったエドガーと接触を絶たれている孤独が、見えない重圧となってエレナの肩にのしかかっている。
「本日の聴取はここまでとします。明日は、新たに追加雇用した運送業者との取引台帳を精査します。原本を用意しておいてください」
セシルが退室していくと、エレナは張り詰めていた糸が切れたように、椅子に深く背中を預けた。
「エレナ様、お疲れ様です……温かいお茶をお持ちしますね」
ミナが痛ましげな顔で駆け寄ってくる。彼女もまた、監査に対応するために連日徹夜で資料を揃えてくれていた。
「ありがとう、ミナ。あと少しよ。私たちがやってきた仕事に不正はないわ。堂々としていればいいの」
エレナはミナを安心させるように微笑んだ。
しかし、その自信は翌日の監査で無残に打ち砕かれることとなった。
「……ヴァレント再建官。こちらの取引台帳に、不自然な資金の動きがあります」
翌朝。セシルが机の上に広げたのは、ミナの部下にあたる若い男性事務官が担当していた、追加雇用業者との配車スケジュール帳だった。
「特定の運送商会のみ、積荷の待ち時間が意図的に短縮され、効率の良いルートが優先的に割り振られています。そして、この業者から当該事務官の個人口座へ、少額ではありますが、定期的な金銭の振り込みが確認されました」
「え……?」
エレナは絶句し、台帳を食い入るように見つめた。
隣に立っていたミナが、サッと血の気を失い、その場に崩れ落ちそうになる。
「そ、そんな……彼が、業者から賄賂を受け取っていたというのですか……?」
「額は少なくとも、便宜の見返りであれば収賄が疑われます。ですが、国庫補助金が絡む事業において、担当者が業者から私的に金銭を受け取る行為は、明白な規定違反です」
セシルの冷たい宣告に、ミナの目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「私の……私の責任です! 私が彼の計算を最終確認していたのに、配車の不自然な偏りを見落としていました! 申し訳ありません、エレナ様……!」
「ミナ、落ち着いて」
エレナは震えるミナの肩を抱き寄せ、冷静さを保とうと必死に努めた。
ハルベルク侯爵家で六年間、セドリックの影として働いていた時にも、似たような横領や不正は何度も目にしてきた。あの家では、こうした不祥事が発覚した際、上の人間は「下働きの者が勝手にやったことだ」と責任を押し付け、末端の人間だけを切り捨ててすべてを隠蔽した。
だが、エレナはそんな真似は絶対にしないと誓っている。
「アーレン監査官。本人の説明も確認させてください。聴取への同席が認められる範囲で構いません」
セシルが聴取の手続きを説明した後、別室から案内されてきた事務官は、恐怖で顔を青ざめさせ、ガタガタと震えていた。
「申し訳ありません、再建官様……! ほんの出来心だったんです! 親の薬代がどうしても必要で……少しだけ配車の順番を融通するだけで、謝礼を払うと持ちかけられて……!」
床にひれ伏して命乞いをする青年に、エレナは静かな、しかし威厳のある声で語りかけた。
「事情はどうあれ、領の公金と権限を利用して私腹を肥やすことは許されません。配車の担当からはいったん外れていただきます。処分については、聴取と記録の確認を経て決めます」
「ひぃっ……!」
「ですが」
エレナは青年の目をしっかりと見据えた。
「あなたがわずかな小銭に目が眩んでしまった背景に、領の財政難を理由とした『極端な低賃金』と、集中輸送を進めていた頃からの『過重労働』があったことは事実です」
エレナは振り返り、セシルに向かって真っ直ぐに言い放った。
「アーレン監査官。彼個人の不正行為は独立した調査に委ねます。配車の担当からは外し、懲戒と受領金の扱いは弁明を聞いた上で決めます。ですが、この不正を生み出した土壌――末端の事務官に生活の不安を抱えさせ、労働環境を管理しきれなかった『組織としての責任』は、再建の総責任者であり、決裁書に名前を書いた私にあります」
セシルの灰色の瞳が、微かに見開かれた。
セシルは配車表とは別の用紙を取り出し、管理体制についての説明を書き留めた。
エレナは自分が承認した配車表を開いた。確認印の横に、不自然な待ち時間がそのまま残っている。
「私の監督不行き届きから生じた実害です。監査報告書には、包み隠さずそのように記録してください」
エレナの潔い態度に、セシルはしばらく沈黙した後、手元の書類にペンを走らせた。
「……承知しました。個人の不正と組織の管理責任を明確に分け、被監査者が事実を隠蔽せず迅速な是正措置を講じた旨を、報告に付記します」
セシルの声は相変わらず事務的だったが、そこには確かな『信頼』の響きが混じっていた。
結論が出たわけではない。それでも、事務官のしたことと、自分が見落としたことは、別々に記録された。
「本日の聴取はこれで終了とします。……それと、ヴァレント再建官」
書類を鞄に片付けながら、セシルがふと思い出したように口を開いた。
「手続当事者であるレイン首席監査官への、王都からの事情聴取がすべて完了しました」
「……エドガー様の?」
「はい。これにより、証人接触制限の範囲を明確に定義するための、双方への確認手続きが必要となります。明日の午後、私の立ち会いと議事録の作成を条件に、レイン首席監査官と貴女の『公式面会』を設定します」
エレナの心臓が、トクン、と大きく跳ねた。
それは、利益相反によって冷たく引き離されて以来、初めてエドガーと言葉を交わすことができる機会だった。
案件の話は一切禁止される、厳しい監視下の面会。それでも、彼に会える。
エレナは胸の奥から湧き上がる熱い感情を必死に押さえ込み、セシルに向かって深く一礼した。
「……承知いたしました」




