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婚約破棄は承りました。私の仕事まで、あなたのものではありません~冷徹監査官は私を囲わない~  作者: 他力本願寺


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第22話 彼が担当から外れる

灰色の雲が垂れ込め、窓を叩く吹雪の音が領主館の石壁を震わせていた。


 エドガーが『利益相反による担当回避』を宣告し、エレナの執務室から去ってから三日が経過していた。


 その間、エドガーはエレナの前に一度も姿を現さなかった。彼がまだこの館の別区画に滞在していることは分かっていたが、廊下ですれ違うことすらなく、徹底して彼女との接触を絶っていた。


 そして四日目の昼下がり。猛吹雪を突いて、王都から一団の馬車が到着した。


「初めまして、ヴァレント再建官。王国監査院より参りました、独立監査班責任者のセシル・アーレンです」


 応接間に通されたその男は、軍人のような隙のない所作で一礼した。


 エドガーと同じ漆黒の制服。銀縁の眼鏡の奥にある怜悧な灰色の瞳は、感情の揺らぎを一切見せず、ただ目前の事実のみを測るような冷たさを湛えている。エドガーの副官であるヨハンのような社交性は微塵も感じられない。純粋な『監査の刃』としての気配を纏った男だった。


「遠路はるばるご苦労様です、アーレン監査官。……レイン首席監査官から、引き継ぎは済んでおいでですか?」


「はい。レイン首席監査官より、本件に関する一切の審査・判断権限を当独立監査班が引き継ぎました。つきましては、これより国庫補助金の緊急申請にかかる特別監査を正式に開始します。まずは、事前通達でお知らせした資料一式の提出をお願いします」


 挨拶もそこそこに、セシルは一切の無駄を省いた実務的な要求を突きつけてきた。


 エレナの背後に控えていたミナが、緊張した面持ちで、分厚いファイルの束が乗った台車を押し出してきた。エレナが徹夜で揃えた、予算申請の根拠となるすべての契約書と領の財政データである。


「こちらが要求された資料のすべてです」


「確認します。……なお、監査期間中、被監査者である貴女と、本件の手続当事者となったレイン首席監査官との接触は、利益相反規則に基づき厳しく制限されます。首席監査官から貴女へ具体的な助言を行うことも、私的な面会には当班の事前確認が必要になります。ご理解いただいていますね?」


「はい。重々承知しております」


 エレナが淡々と答えると、セシルは眼鏡の奥の目を微かに細めた。


「よろしい。念のため、担当変更に伴う制度上の区分について明確にしておきましょう。今回、利益相反によって私へ移管されたのは、あくまで本件の『案件審査および判断の権限』のみです」


 セシルは手元の規定集を一度叩き、言葉を続けた。


「監査院がこれまでに収集した過去の関連資料や、現在王都に保管されている封印記録など、『保管責任』は従来の指定保管者に残ります。審査に必要な記録は当班が正式に請求し、照合用の写しを独立して管理します」


「権限が完全に移るわけではないのですか?」


「ええ。利益相反による担当回避は、一時的な審査の切り離しに過ぎません。……監査院の規定上、封印記録などの管理権限が通常の指揮系統から完全に切り離され、『独立保全局』へ自動移管されるのは、当該記録の保管責任者が辞任、解任、懲戒による職務停止、あるいは配置換えなど、理由を問わず完全にその地位を離れた場合に限られます。単なる案件の担当回避では、自動移管の条件には該当しません」


 セシルはまるで法規を暗唱するように、厳密なルールを提示した。


 エレナは小さく頷いた。つまり、案件から外れることと、記録の保管責任者でなくなることは別なのだ。保管と審査の二つの役割を、混同してはいけない。


 しかし、その事実が今のエレナの慰めになるわけではなかった。


「説明は以上です。本日は資料の持ち帰りのみとし、明日より個別の聴取を開始します」


 セシルは部下に命じて台車のファイルを回収させると、軍人のような足取りで応接間を去っていった。


 残されたエレナは、重い息を吐き出してソファに沈み込んだ。


「エレナ様……」


 ミナが心配そうに声をかけてくる。エレナは無理に笑みを作って見せた。


「大丈夫よ、ミナ。提出した資料に嘘はないわ。調べられれば、必ず潔白は証明できる」


「はい……! もちろんです!」


 ミナを執務室へ戻らせた後、エレナは一人、静まり返った部屋で窓の外の吹雪を見つめた。


 エドガーが担当を外れ、完全に沈黙したこと。


 それが、自分の仕事の正当性を証明するために不可欠な、法的に最も正しく、公正な措置であることは理屈で完璧に理解している。もし彼が首席監査官の権力を振りかざして自分を庇えば、国庫庁のラウル次官に「やはり身内びいきの不正だ」と格好の攻撃材料を与えるだけだ。


 エドガーは、彼女の仕事が誰からも『彼に助けられたもの』と貶められないように、あえて身を引いたのだ。


 頭では、痛いほど分かっている。


(だけど……)


 エレナは胸の奥をギュッと掴んだ。


 理屈では割り切れない喪失感が、じわじわと彼女の心を侵食していた。


 ハルベルク侯爵家で、誰にも認められず一人で数字と格闘していた日々。あの暗闇の中で、エドガーだけが彼女の報告書に名前がないことを見逃さなかった。


 彼がいつもそばにいて、冷徹で揺るぎない視線を注いでいてくれたからこそ、エレナはどんな理不尽な状況でも心を折られずに戦うことができた。


 彼がいるという事実そのものが、エレナの最強の盾だったのだ。


 それなのに。


 自分が最も過酷な試練に立たされ、一番彼にそばにいてほしかったこの瞬間に、彼は制度の壁の向こう側へと去ってしまった。


『今後、この特別監査の決着がつくまで、私は君の案件に一切関与できない』


 その冷たい宣告が、エレナの耳の奥で何度も響く。


 かつて隣の領地からの引き抜きの話が出た時、彼は引き留めるどころか、完璧な推薦状を書いて彼女を遠ざけようとした。


 そして今回も。彼は『公正さ』を理由に、一番大事な時に彼女から距離を取ったのだ。


(彼は間違っていない。正しいわ。……でも、どうしてこんなにも、心が痛いの)


 エレナは机の上に突っ伏し、冷たい木目に額を押し当てた。


 彼に頼ってはいけない。自分で勝たなければ、彼が身を引いた意味がない。


 そう言い聞かせれば言い聞かせるほど、執務室の隣に置かれた、彼が使っていた主のいない机がやけに広く、冷たく見えた。


 感傷に浸る時間は長くは続かなかった。


 翌日から、セシル率いる独立監査班の容赦ないメスが、ロズフェルド領の実務へと突き立てられた。


 セシルの監査は、エレナ個人の決裁記録だけに留まらなかった。彼は現場の帳簿、商人とのやり取り、そして倉庫での末端の職員の動きに至るまで、一切の妥協なく掘り下げていく。


 そして、その冷徹な調査の過程で、エレナ自身も把握していなかった『現場の小さな淀み』が、次々と白日の下に曝されようとしていた。

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