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婚約破棄は承りました。私の仕事まで、あなたのものではありません~冷徹監査官は私を囲わない~  作者: 他力本願寺


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第21話 成功したから監査される

ロズフェルド領の空から、灰色の雲を通して白い破片が舞い落ちてきた。


 初雪である。


 例年であれば、この雪は領民たちにとって「飢えと寒さの季節」の始まりを告げる死の足音だった。馬車の轍は雪に埋もれ、遠方の村々は春まで孤立し、ただ配給の麦をちびちびと齧りながら凍える日々を耐え忍ぶしかなかったからだ。


 だが、今年のロズフェルド領は違った。


「エレナ様! 北端のアルト村から、中継所を経由して無事の報告が届きました! 第一陣の備蓄に続き、燃料用の薪もすべて各戸に配分完了したとのことです!」


 領主館の執務室。赤々と燃えるストーブの横で、ミナが弾んだ声で報告書を読み上げた。


「それに、秋の抗議騒ぎの後で、訓練を受けて『除雪隊』に加わった荷役作業員の方々も、早速活躍してくれているみたいです。彼らが雪を掻き出し、道の泥濘みを固めてくれているおかげで、東地区からの定期便も予定時刻通りに到着していますよ!」


「そう。よかった……」


 エレナは手元の帳簿から顔を上げ、窓の外で舞い散る雪を眺めながら小さく安堵の息を吐いた。


 新しい馬車のチャーターと中間拠点の建設。極限まで計算し尽くした『投資』が、見事に機能している。


 物流網を止めないための季節雇用も、結果的に領民の現金収入となり、市場でお金が回り始めている。帳簿上の数字と、人々の温かい生活の営みが、綺麗に噛み合って循環していた。


 彼女が自分の名前で立案し、自分の責任で実行した再建計画は、間違いなく大きな『成功』を収めていた。


「これで、領主様も安心して冬を越せますね」


「ええ。あとは、この状態を来年以降も領の通常税収だけで維持できるように、細かな規定を整えていくだけよ。……監査院への定例報告書の準備をしましょうか」


 エレナが新しい羊皮紙を取り出した、その時だった。


 バンッ! と、けたたましい音を立てて執務室の扉が開かれた。


 立っていたのは、見慣れない制服を着た男だった。王都の監査院本部からの急使の証である、銀色の腕章をつけている。彼は肩に積もった雪を払うのもそこそこに、革筒の中から封印された一通の書状を取り出した。


「王国監査院評議会からの特使である! ロズフェルド領再建官、エレナ・ヴァレントは直ちにこの通知を受け取られよ!」


 ただならぬ気配に、ミナが怯えたようにエレナの背後に隠れる。


 エレナは冷静さを保ちながら歩み寄り、その書状を受け取って封を切った。


 文面を一読した瞬間、エレナの血の気がサッと引いた。


「……エレナ様? 何と書かれているのですか?」


「『特別監査開始通知書』よ」


 エレナは震える声で答えた。


「私たちが夏に申請し、受理された『緊急追加補助金』について……例外条項の適用要件を満たしておらず、監査官の個人的な情実によって不当に下付された疑いがあるとして、国庫庁が匿名の告発を受け付けたそうよ。それを受けて、監査院評議会が特別監査の開始を決めたと。審査は別の独立監査班が担当するそうです」


「なっ……情実!? 身内びいきで不正にお金を受け取ったって言うんですか!?」


 ミナが真っ赤になって怒りの声を上げた。


「ふざけないでください! あの予算は、エレナ様が徹夜で過去の判例を調べ上げて、投資目的に限定するという完璧な論理を作ったからこそ通ったものじゃないですか! 監査院の方々だって、それを厳しくチェックしたはずです!」


「ええ……。でも、国庫庁はそれを『再建官と監査官の馴れ合い』だと主張しているのよ」


 エレナは、通知書に添付された国庫庁の告発送付書を開いた。その末尾に、次官ラウル・ヴァンデルの重厚な署名があった。


 承認した次官が、今度は告発を送る書類にも名を記している。それだけで黒幕とは断じられない。だが、不正受給と認定されれば補助金の返還を求められ、冬の運営を支える資金まで失いかねなかった。


「……すぐに、エドガー様に知らせないと」


 エレナが急使を残して部屋を出ようとした時、廊下から足早に近づいてくる足音があった。


 エドガーだった。


 彼の表情は、これまでに見たことがないほど冷たく、張り詰めていた。その後ろには、同じく顔面を蒼白にさせたヨハンが付き従っている。


「レイン首席監査官……! 王都から、信じられない通知が」


「すでに聞いた。本部からの使者は私の執務室にも来ている」


 エドガーはエレナの言葉を遮り、彼女の机の前に歩み寄った。


 彼の纏う空気は、先日のテラスで彼女の体調を気遣ってくれた時のような柔らかさは微塵もなく、絶対零度の監査官そのものだった。


「君も通知書を読んだな。国庫庁へ下付を要求したあの例外申請書。……あれが身内びいきの不当なものであったという告発だ」


「ばかげています。私が私情で予算を動かしたことなど一度もありませんし、あなたが適当な審査で判子を押すような人ではないことくらい、証拠を見ればすぐに分かるはずです!」


 エレナが食ってかかると、エドガーは冷ややかに目を細めた。


「問題は、証拠の中身ではない。『制度の壁』だ」


「制度……?」


「監査院の『利益相反規則』だ。エレナ、よく聞け」


 エドガーは一歩だけエレナに近づき、低い声で告げた。


「この告発において、君は『不当な手段で予算を獲得した被監査者』となる。そして、あの申請書を首席監査官として適法だと判断し、署名をした私自身もまた、『不正を見逃し、予算下付を助長した手続の当事者』として、監査の対象になる」


「……っ!」


 エレナは息を呑んだ。


 彼女は自分の身の潔白を証明することばかり考えていたが、事態はもっと深刻だった。あの申請書に、エドガーが『エドガー・レイン』という個人の名前で適法確認の署名を行ったがゆえに、彼自身が疑惑の渦中に引きずり込まれてしまったのだ。


「……つまり、私とあなたは」


「そうだ。君と私は、今日から同じ不正疑惑に関するそれぞれの手続きの適否を調べられる立場だ。私が自分の署名を審査することはできない」


 エドガーの言葉が、冷たい雪のように執務室に降り積もる。


「監査院の規定により、審査の対象となった当事者同士が事件に関して接触することは、口裏合わせの隠蔽工作と見なされ固く禁じられている。……ここに、明確な『利益相反』が成立した」


 それは、二人の間に引かれた、絶対に越えられない公的な境界線だった。


 エドガーは、エレナを守るために権力を振りかざして告発者を握り潰すような男ではない。彼は誰よりも法と制度を重んじている。


 だからこそ、この瞬間から、彼が監査官としてエレナに助言を与えることも、私的な会話を交わして励ますことも、当面、独立監査班が接触範囲を確認するまで制限されるのだ。


「今後、この特別監査の決着がつくまで、私は君の案件に一切関与できない。案件への助言はできない。私的な面会も、独立監査班が接触範囲を定めるまでは控える」


 突き放すようなエドガーの宣告。


 つい先日、火災の現場で『君を失うのが怖かった』と感情を露わにし、テラスで同じ平穏を分かち合ったばかりだった。互いに少しずつ近づき、信頼を深めていたはずだった。


 それなのに、二人が何よりも大切に守り抜いてきた『公正な制度』そのものが、巨大な壁となって二人を無情に引き離そうとしている。


「……分かりました」


 エレナは震える手を強く握りしめ、エドガーの冷たい瞳を真っ直ぐに見返した。


 彼が法を破ってまで自分を庇うような真似をしないと分かっている。彼がそれをしないからこそ、エレナは彼を信じているのだ。


 なら、自分がやるしかない。この理不尽な監査を、彼の手を借りずに自らの手で打ち破り、自分と彼の名前の潔白を証明しなければならない。


「私は、自分の仕事の正当性を自ら証明します。あなたが、監査官としての職務を全うできるように」


 エレナの決意の言葉を聞き、エドガーはわずかに伏し目がちに目を閉じると、短く「ああ」とだけ応えた。


 そして彼は、自ら踵を返し、エレナの執務室から出ていった。


 扉が閉まる音が、酷く重く、冷たく響いた。

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