第20話 冬の荷車が来る
空を覆う雲が低く垂れ込め、吐く息が白く染まる晩秋の朝。
ロズフェルド領の中心広場に、地鳴りのような重い轍の音が響き渡った。
「来た……来たぞ!」
「馬車の列だ! 麦が、薪が届いたぞ!」
見張りに立っていた衛兵の叫び声に、広場に集まっていた領民たちが一斉に歓声を上げた。
街道の向こうから姿を現したのは、一目で終わりが見えないほど長く連なった、数十台もの大型荷馬車の列だった。泥濘む山道を乗り越えるために特別に強化された車輪と、他領からチャーターされた屈強な輓馬たち。その荷台には、冬を越すために必要な小麦の麻袋や塩漬け肉、そして山ほどの薪が、溢れんばかりに積載されていた。
先日の火災の爪痕が残る倉庫街の横を、力強い足取りで進んでくる馬車の列。
それは、エレナが地元の運送商人たちと結び、執念で構築した『新物流網』がもたらした、最初の大規模食糧輸送の到着だった。
「エレナ様! 見事です、これなら北端の村にも十分に配分できます!」
計算尺を握りしめたミナが、涙で顔をくしゃくしゃにしてエレナに抱きついた。
広場の片隅には、北端のアルト村とリューネ村から招かれていた村長たちの姿もあった。彼らは荷台に積まれた膨大な食糧を見て、その場にへたり込み、地面に額を擦り付けて泣き咽んでいる。
これで、飢えずに冬が越せる。
領民たちの安堵と歓喜が、冷たい空気を震わせていた。
「ええ。……みんなが、自分の仕事の責任を果たしてくれたからよ」
エレナは小さく息を吐き出し、胸をなで下ろした。
迂回や契約の見直しで負担をかけた人もいる。それでも、今年の冬に必要な荷がようやく揃った。それが何よりも嬉しかった。
荷下ろしが一段落し、広場に即席の表彰台が設けられた。
マルグリット領主代行からの労いの言葉が述べられた後、副官のヨハンが書類の束を片手に、エドガーの元へと歩み寄る。
「首席監査官。今回の緊急輸送網の構築は、見事な成果です。つきましては、監査院本部に提出する報告書ですが、『我が監査院の適切な指導による再建のモデルケース』としてまとめましょう。監査院の権威向上にも繋がります」
それは、官僚組織においてごく当たり前の提案だった。監査官が駐在している領地で成果が出たのだから、組織の手柄として報告する。ハルベルク侯爵家でも、エレナの仕事は常にそうやって組織やトップの功績として吸収されてきた。
だが、エドガーは即座に首を横に振った。
「却下だ」
彼の声は、歓喜に沸く広場の中でも芯まで通るほど冷徹だった。
「我々の仕事は適法性の確認と証拠保全だ。再建の実施者として報告してはいけない。王都の本部には事実のみを報告しろ。これは監査院の成功ではない」
エドガーはヨハンの手から報告書を取り上げると、広場に集まった領民たち、そして最前列に立つエレナへ向けて真っ直ぐに視線を向けた。
「この巨大な物流網を組み上げ、火災の危機を乗り越えて冬の備蓄を確保したのは、再建官エレナ・ヴァレントと、現場で泥にまみれて馬車を走らせた者たちだ。彼らが自らの足で事実を集め、自らの名前で責任を負い、戦い取った成果だ。……記録には、立案、運行、検品、それぞれを担った者の名を残せ」
エドガーの宣言に、広場は一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
『ヴァレント再建官、万歳!』という声が、あちこちから上がる。
エレナは胸がいっぱいになり、両手で口元を覆った。
自分の仕事が、誰の影にも隠されず、自分の名前のまま光を浴びている。エドガーは、彼女の功績を己の組織の都合でかすめ取ったりはしなかった。
***
熱狂する広場から少し離れた、領主館の静かなテラス。
冷たい風に火照った頬を冷ましていたエレナの元に、エドガーが歩み寄ってきた。彼は自らの漆黒の外套を脱ぐと、ドレス姿のエレナの肩に無言でふわりとかけた。
「……レイン首席監査官。あの、ありがとうございます。先ほどの広場での……」
「風が冷たくなってきたな。火災の夜の煙で、喉は痛んでいないか? 少し顔色が悪い。徹夜が続いたのだろう。無理はするな」
エレナが仕事の礼を言おうとしたのを遮り、エドガーは彼女の体調を問うた。
仕事の成果や、有能な再建官としての価値についてではない。彼が気にかけているのは、仕事の成果とは無関係な、エレナ・ヴァレントという一人の女性の無事と健康だった。
「だ、大丈夫です。少し疲れただけですから。……冬が、越せそうです」
エレナが外套の温もりに包まれながら微笑むと、エドガーの厳しい目元が微かに和らいだ。
「ああ。よくやった」
短く、しかし深い実感を伴った言葉。
エレナは彼から与えられた温もりに、少しだけ甘えるように目を細めた。
***
――エドガー
エドガーは、目の前で冷たい風に髪を揺らすエレナを見つめながら、自身の内に渦巻く感情を必死に押さえ込んでいた。
彼女はやり遂げた。この大規模輸送を成功させたことで、ロズフェルド領の最大の危機は去った。
つまり、彼女の「再建官」としての最も重い責務は、果たされつつあるのだ。
冬が終われば、彼女の仕事は一段落する。彼女をこの不便な領地に縛り付けるものは何もなくなる。ウェントス伯爵家からの誘いを断ったとはいえ、彼女の噂を聞きつけた他の貴族たちが、春になればこぞって彼女を迎えに来るだろう。
(……冬が終わっても、残ってほしい)
失いたくない。どこにも行かず、ずっと私のそばにいてほしい。
エドガーの胸の奥底で、その個人的な欲望が痛いほどの熱を持って叫んでいた。
今ここで彼女を抱きしめ、「私を選んでほしい」と言えたら、どんなに楽だろう。
だが、彼はその言葉を硬く噛み殺した。
自分の欲望を押し付け、彼女の進路を拘束することは、彼女が自らの足で歩く自由を奪うことだ。それだけは、絶対にしないと誓っている。
エドガーは外套に包まるエレナを見つめたまま、ただ静かに、晩秋の冷たい風を胸いっぱいに吸い込んだ。
隣でエレナが、外套の襟を指先で寄せた。もう少しここにいたい。そう言う代わりに、エドガーは風上へ半歩だけ移った。




