第19話 燃えた倉庫と残った原本
小口の輸送が続き、初雪まで二十日を切った夜だった。
深夜の静寂を、けたたましい半鐘の音が切り裂いた。
ベッドから跳ね起きたエレナは、窓の外を見て息を呑んだ。ロズフェルド領の中心部、物流の要を担う倉庫街の一角から、夜空を焦がすような真っ赤な炎が上がっていたのだ。
「エレナ様! 火事です! 倉庫街が……!」
寝巻きの上にショールを羽織っただけのミナが、血相を変えて部屋に飛び込んでくる。
「燃えているのはどの区画!?」
「第十二倉庫です! 過去の帳簿や、古い契約書が保管されている旧記録保管庫から火が出たようで……現在、風に煽られて隣の資材倉庫にも延焼中です!」
その報告を聞き、エレナの頭の中で点と点が繋がった。
旧記録保管庫。そこには、ダストワール商会をはじめとする王都の大商会が、過去にこの領でどのようにして不当な利益を得てきたかという『談合の証拠』が眠っている。監査院が本格的な調査に乗り出す前に、記録を狙った火なのだろうか。確かめるより先に、隣の宿直室にいる人々の顔が浮かんだ。
エレナはすぐさま動きやすい衣服に着替えると、領主館を飛び出し、馬車で火災現場へと急行した。
現場は地獄のような有様だった。
激しい炎が夜空を舐め、黒煙が肺を焼くように立ち込めている。衛兵たちが水桶をリレーして消火に当たっているが、乾燥した古い木材でできた倉庫は火の回りが早かった。
「誰か! まだ隣の資材倉庫の中に、宿直の作業員たちが取り残されているんだ!」
現場の責任者が悲痛な声を上げた。
燃え盛る旧記録保管庫のすぐ隣にある資材倉庫。そこには、先日エレナが季節雇用として雇い入れたばかりの荷役作業員たちが寝泊まりしているはずだった。
「記録より、人命が優先よ!」
エレナは迷わず叫んだ。
燃えゆく帳簿を惜しんで飛び込むような真似はしない。彼女は現場の最前線に立ち、風向きと火の勢いを素早く計算した。
「水桶の列を二手に分けて! 一列は延焼を防ぐために資材倉庫の屋根と壁に水をかけ続けて! もう一列は、作業員たちを逃がすための退路を確保するの! 周辺にある木箱や燃えやすい布はすべて広場に投げ捨てて、防火帯を作りなさい!」
的確で迷いのないエレナの指示に、恐慌状態に陥っていた衛兵や街の人々が我に返り、組織的な動きを取り戻し始める。
「――証拠保全班は、第十二倉庫の裏口へ回れ。消火隊が安全を確認した区画だけから書類を搬出しろ。人員の退路を最優先にする」
低く、地を這うような声が、燃え盛る炎の音を割って響いた。
漆黒の制服に身を包んだエドガーが、ヨハンたち監査官の部隊を引き連れて現場に到着したのだ。
彼はエレナの姿を認めると、一度だけ短く視線を交わした。
エドガーは「危ないから女は下がれ」などという言葉は絶対に口にしなかった。エレナが『人命救助と延焼防止』という実務責任者としての最適解を選んだことを一瞬で理解し、その領分を侵すような真似はしない。
彼は彼自身の職務である『証拠の保全』に特化し、部下たちを指揮して消火隊と連携した搬出作業に取り掛かった。
人命を守る者と、記録を守る者。
エレナは人員と荷の確認を続けた。エドガーの側では、持ち出された記録の照合が始まっていた。
――数時間後。
空が白み始める頃になって、ようやく炎は完全に鎮圧された。
幸いなことに、エレナの迅速な避難誘導が功を奏し、逃げ遅れた作業員たちは全員無事に救出された。大火傷を負った者もいない。
だが、火元の第十二倉庫は完全に焼け落ち、黒焦げの骨組みだけが惨めな姿を晒していた。
「……申し訳ありません、首席監査官。裏口から突入し、棚をいくつか運び出しましたが……奥に保管されていた過去三年分の重要な契約原本は、ほとんどが灰になってしまいました」
煤で顔を真っ黒にしたヨハンが、無念そうに首を振ってエドガーに報告する。運び出されたのは、水浸しになった一部の古い書類の束だけだった。
「これでは、ダストワール商会が過去に行ってきた不正や、他領との談合を立証するのは難しくなるかもしれません。出火の原因は、まだ調べているところですが……」
ギリッと歯を食いしばるヨハン。
だが、怪我人の手当てを終え、彼らの元へ歩み寄ってきたエレナは、静かに首を横に振った。
「いいえ。照合できる記録は、まだ残っています」
「ヴァレント再建官……?」
「原本を失った部分はあります。でも、写しと控えから再構築を試みられます。私はこの領に来て最初の不正を正した時から、すべての報告書や契約書に『実務担当者の実名』を記録させてきました」
エレナの瞳は、灰燼に帰した倉庫を前にしても、微塵も絶望していなかった。
「同時に、重要な帳簿の写しは、一部を領主館の金庫に、一部をミナたちの手元に、そして一部を別の倉庫にと、『分散保存』する仕組みを作ってあります。一つの倉庫が燃えたくらいで、ロズフェルド領の記録は消えたりしません。……燃え残った断片と、現場の実名記録、そして彼らの証言を繋ぎ合わせれば、過去の契約を、どこまで裏づけられるか確かめられます」
それは、エレナがハルベルク侯爵家で「名前を消され続けた」経験から編み出した、最強の防衛策だった。
ヨハンの顔にパッと希望の光が点る。
「なるほど! 点と点を線で結び直せば、一か所の原本を失っても、照合する手がかりは残る。さすがはヴァレント再建官だ!」
事後処理の方針が定まり、ヨハンたちが現場の残骸の保全作業に戻っていく。
エレナはふっと緊張の糸を緩め、疲れ果ててその場にしゃがみ込みそうになった。
その時だった。
よろめいた肩を、エドガーの手が支えた。
「……っ」
驚いて顔を上げると、至近距離にエドガーの顔があった。
いつもは氷のように冷たく、微動だにしない彼の青い瞳が、激しく揺らいでいる。煤で汚れた彼の頬には、焦りと、隠しきれない動揺が走っていた。
彼の胸が、荒い呼吸で大きく上下している。
「……怪我は、ないな」
絞り出すような、ひどく低い声だった。
彼の手のひら越しに、彼自身の震えがエレナの肩に伝わってくる。
「は、はい。私は大丈夫です。作業員の方々も全員無事でした……」
「……」
エドガーはエレナの顔、腕、足元を這うように確認し、彼女が本当に無傷であることを確かめると、まるで己の感情を押さえ込むように、ギュッと強く目を閉じた。
「……無事でよかった」
それは、首席監査官としての言葉ではなかった。
一人の男としての、生々しい感情の吐露だった。
肩を支える手は、まだ震えていた。エレナは彼の袖にそっと触れた。
「エドガー様……?」
普段の彼らしくない激しい感情の漏出に、エレナは戸惑いながら彼を見上げた。
『こんな危険な現場にはもう来るな』『君は安全な領主館に引っ込んでいろ』。普通の貴族の男であれば、そう言って彼女の行動を制限し、自分の庇護下に囲い込もうとするだろう。
だが、エドガーはエレナの肩からゆっくりと手を離し、一歩だけ距離を取った。
「……怖かった」
彼はただ、自分自身の弱さを曝け出すように、その一言だけを口にした。
行動を制限することはしない。彼女の決断を否定することもしない。ただ、『君を失うのが恐ろしかった』という、彼自身の重く切実な感情だけを、エレナの前に差し出したのだ。
その不器用で、痛いほどの尊重に、エレナの胸の奥が熱く締め付けられた。
東の空から、真新しい朝日が昇り始めていた。
火災の痛手は、これから少しずつ数え直さなければならない。しかし、二人の間には、燃え残った灰を洗い流すような確かな感情が芽吹いていた。
そして明日はついに、エレナが心血を注いで作り上げた新物流網による、冬の大規模食糧輸送の第一陣が到着する日である。




