第18話 残る理由
白み始めた空が、ロズフェルド領主館の窓から薄青い光を投げかけていた。
エレナは執務室の机の前に座り、ほとんど眠れぬまま朝を迎えていた。彼女の目の前には、二つの上質な羊皮紙が並べられている。
一つは、東部の有力貴族ウェントス伯爵家から届いた、専属財務官への破格の就任打診書。
もう一つは、エドガー・レイン首席監査官の署名が入った、完璧な推薦状。
これを持っていけば、私は一生誰にも蔑まれることなく、実務家としての地位と安定を手に入れることができる。ハルベルク侯爵家を見返すには十分すぎるほどの栄達だ。
頭では、それが最善の選択だと分かっている。
だが、エレナの胸の奥には、氷の塊を呑み込んだような重く冷たい痛みが居座っていた。
(エドガー様は、私を引き留めなかった)
彼がくれた推薦状は、寸分の狂いもなくエレナの実績を評価する最高のものだった。しかし、それは同時に「君はもうどこへでも行けるから、私の元から去っていい」という冷たい宣告にも思えた。
侯爵家で「役に立たないなら捨てられる」という恐怖を刷り込まれてきたエレナにとって、彼の行動は「あなたはこの領を再建するための有能な駒であり、それ以上の感情はない」という事実の突きつけに他ならなかった。
――私は、どうしたいの?
エレナは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
答えは、すでに出ていた。
午前十時。
領主館の応接間には、ウェントス伯爵家からの使者が再び訪れていた。
ソファにはエレナが座り、その後ろには領主代行のマルグリットと、帳簿係のミナが付き添っている。二人の顔は、まるで葬儀にでも参列するかのように暗く沈んでいた。エレナは、まだ返事をしていないことを二人に伝えていた。それでも、別れの挨拶を待つような顔に見えた。
使者は恭しく頭を下げ、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「ヴァレント再建官。我が主からのご提案、お考えいただけましたでしょうか。王都の邸宅の手配はすでに進めておりますし、馬車の準備も――」
「お気遣い痛み入ります」
エレナは静かに言葉を遮り、手元にあった打診書を、封を切った時と同じように綺麗に折り畳んで使者の前に差し出した。
「せっかくの素晴らしいお話ですが、お受けすることはできません。ウェントス伯爵閣下には、身に余る光栄であると、心よりの感謝をお伝えください」
使者の顔から、すっと笑みが消えた。
背後にいたマルグリットが「えっ……」と息を呑み、ミナが目を丸くする。
「お、お受けできないとは……? 条件に何かご不満でも? もし報酬の額でしたら、我が主はさらに上乗せしても構わないと」
「いいえ、条件はこれ以上ないほど破格です。私の実力を評価してくださったことには、本当に感謝しております。ですが、問題はそこではありません」
エレナは背筋を伸ばし、使者を真っ直ぐに見据えた。
「私は現在、ロズフェルド領の『期限付き再建官』として、王国からの認可を受けています。北端の村々を冬の飢餓から救うため、新しい物流網の再構築を先導している最中です。この計画が完了する前に、より良い条件を提示されたからといって職務を投げ出すことは、私の実務家としての誇りが許しません」
エレナの言葉には、一片の迷いもなかった。
引き留めてくれなかったエドガーへの意地でもなければ、彼に対する当てつけでもない。
「私は、ロズフェルドの冬を越すまで、この領の再建に責任を持ちます」
それが、エレナが自分自身で選び取った『残る理由』だった。
使者は唖然とした表情を浮かべた後、やがて深く嘆息し、打診書を引き取った。
「……そこまでのご覚悟がおありなら、これ以上申し上げることはございません。我が主も、貴女の実直さをさらに惜しむことになるでしょう。……失礼いたします」
使者が退出していくと、張り詰めていた空気が一気に弾けた。
「エ、エレナ様ぁぁっ!」
ミナが顔をくしゃくしゃにして泣き出し、エレナの腕にすがりついてきた。マルグリットもまた、目元をハンカチで押さえながら深く頭を下げた。
「ヴァレント再建官……本当に、本当に何と御礼を申し上げてよいか……」
「やめてください、マルグリット様。私は自分の仕事の責任を果たそうとしているだけです」
泣きじゃくるミナの背中を優しく撫でながら、エレナはふと、応接間の窓の外を見つめた。
領民のため。仕事への責任。
口にした言葉に嘘はない。だが、それだけが理由ではないことも、エレナ自身は痛いほど自覚していた。
(私は……エドガー様の反応を、ひどく気にしてしまっている)
彼がくれた推薦状を手にした時、胸が締め付けられるように痛かった。
彼が引き留めてくれなかったことに、腹を立てていた。
そして、使者に「残る」と告げた瞬間、頭の片隅で『これで、まだあの人のそばにいられる』と安堵してしまった自分がいる。
ただの有能な監査官。厳しい仕事の監督者。そう思おうとしていたはずなのに、いつの間にか、彼が自分をどう思っているかが、自分の選択を左右するほど大きなものになってしまっていたのだ。
昼下がり。
応接間での騒ぎが一段落し、エレナが自室の執務机に戻って溜まっていた帳簿仕事に取り掛かろうとした時だった。
控えめなノックと共に、エドガーが姿を見せた。
「……ウェントス伯爵家からの使者が、王都へ向かって帰っていくのを見た」
彼は執務室の中央で立ち止まり、エレナを見下ろした。
その顔はいつものように無表情を装っていたが、どこか落ち着きがないように見えた。
「はい。お断りしました」
「……」
エレナが淡々と答えると、エドガーの肩の力が、ほんのわずかに、しかし確実に抜けた。
「……そうか」
短く呟かれたその声には、冷徹な仮面の下から漏れ出した、深い安堵の響きが混じっていた。
エレナは手元の羽ペンを弄びながら、少しだけ棘のある声を出してしまった。
「せっかく首席監査官殿が素晴らしい推薦状を書いてくださったのに、無駄にしてしまって申し訳ありません。ですが、私は冬が終わるまで、この領での実務を投げ出すつもりはありませんので」
傷ついた心を隠すための、精一杯の強がりだった。
だが、エドガーは咎めることも、不機嫌になることもなかった。彼はエレナの机の前に歩み寄り、静かに告げた。
「推薦状は、君が積み上げた事実を正確に記したまでだ。無駄になったわけではない。君が残ると決めたのなら……それでいい」
エドガーの言葉は、それだけだった。
今日は新しい推薦状も、別の就職先の話も出なかった。
エレナが推薦状を引き出しへしまう間、彼はその場に立っていた。急いで帰る様子はなかった。
「……また一緒に仕事ができるのだな」
エドガーの言葉に、エレナは小さく目を見開いた。
それは不器用な彼なりの、最大の歩み寄りだった。
エレナの胸の奥にあった冷たい痛みが、じんわりと温かいものに溶けていく。推薦状を渡された時の絶望感は、いつの間にか消え去っていた。
「……はい。私の仕事は、ここにあります」
エレナが柔らかく微笑むと、エドガーもまた微かに口角を上げ、隣に設えられた監査官用の机へと向かった。
言葉を多く交わしたわけではない。
だが、二人は確かに同じ執務室に残り、それぞれの机に向かって仕事の続きを始めた。インクの匂いと、紙をめくる音だけが室内に響く。
そこには、これまでよりもずっと穏やかで、確かな信頼と安堵の余韻が流れていた。
夕刻、エレナは古い契約記録の取り寄せを頼んだ。ダストワール商会との取引が始まった頃の帳簿を、もう一度確かめたかった。




