第17話 推薦状
契約の調整と馬車の改修、試走を重ねるうちに夏が過ぎ、北の尾根が色づき始めていた。
東部の豊かな穀倉地帯を治める有力貴族、ウェントス伯爵家からの使者がロズフェルド領主館を訪れたのは、新しい物流網が本格的に稼働し始めた日の午後だった。
応接間に通された使者は、マルグリット領主代行に丁重な挨拶を済ませると、同席していたエレナに一通の豪奢な書状を差し出した。
宛名は、エレナ・ヴァレント個人。
封を切り、文面に目を通したエレナは、思わず息を呑んだ。
「……ウェントス伯爵家の、専属財務官……?」
「はい。我が主であるウェントス伯は、ヴァレント再建官のロズフェルド領における手腕を高く評価しておられます。とくに、あの難解な緊急追加補助金の例外枠を自らの名義で勝ち取り、大商会の独占を防ぐ入札を成立させた手際はお見事の一言に尽きると」
使者は恭しく頭を下げた。
「我が領は豊かではありますが、それゆえに旧態依然とした帳簿管理が蔓延し、無駄が多く発生しております。ぜひ、ヴァレント様のその卓越した実務能力を我が領のために振るっていただきたいのです。報酬は現在の倍、のみならず、王都に邸宅をご用意し、一生涯の身分保証をお約束いたします」
それは、破格という言葉すら生温いほどの好条件だった。
ハルベルク侯爵家を追い出され、実家の庇護を自ら断って『期限付きの再建官』という不安定な立場を選んだエレナにとって、これ以上ないほどの絶対的なキャリアの保証である。
使者は「良いお返事をお待ちしております」と、数日の猶予を残して風のように去っていった。
残された執務室には、しんと静まり返った空気が漂っていた。
「……素晴らしいお話ですわね、エレナ様」
沈黙を破ったのは、領主代行のマルグリットだった。彼女は扇で口元を覆いながらも、その目にははっきりとした寂しさが浮かんでいた。
「王都の邸宅に、一生涯の身分保証。侯爵家に婚約破棄された傷など、これでお釣りが来るくらいに払拭できましょう。私たちのことは気になさらず、お受けなさいな」
「そうです! エレナ様の実力が正当に評価されたんです。私、自分のことのように嬉しいです……!」
ミナもまた、涙ぐみながら必死に笑顔を作って背中を押してくれている。ロズフェルド領の人間が、エレナにどれほど深く感謝し、引き留めたいと願っているかは、痛いほど伝わってきた。
だが、エレナの心は晴れなかった。
これほどの好条件を提示されてなお、自分の胸の奥に渦巻いている感情の正体が、彼女自身にも分からなかったのだ。
(私は、どうしたいの……?)
良い話だ。受けるべきだ。頭ではそう理解しているのに、心の一部がひどく冷え切っている。
ふと、廊下から響く規則正しい足音に、エレナの肩がビクッと跳ねた。
彼女は自分でも驚くほど、心臓が早鐘のように打ち始めるのを感じた。
足音の主が誰か、分かっていたからだ。
(エドガー様は、この話をどう思われるかしら……)
同じ館で働く彼にも、使者が来たことは伝わっているはずだ。
私は彼に、どう言ってほしいのだろう。
『君の能力が正当に評価されて良かった』と喜んでほしいのか。
それとも。
『ここに残ってほしい』と、引き留めてほしいのか。
執務室の扉がノックされ、エドガー・レインが静かに姿を現した。
マルグリットとミナが気を利かせてそっと部屋を退出し、室内にはエレナとエドガーの二人だけが残された。
彼はいつものように隙のない漆黒の制服姿で、感情を一切読ませない冷徹な青い瞳でエレナを見据えた。
「……ウェントス伯爵家から、専属財務官の打診があったそうだな」
「はい。先ほど、使者の方が」
エレナは微かに震える声で答えた。エドガーが次に何を言うのか、怖くて、同時に期待してしまっている自分がいた。
だが、エドガーは一切の引き留めや、妨害の言葉を口にしなかった。
彼は無言のまま懐から一通の書類を取り出し、エレナの机の上に置いた。
上質な羊皮紙。そこには、監査院の正式な印が押されている。
「これは……?」
「推薦状だ。私が書いた」
エレナは息を呑み、その書類を手に取った。
そこには、エレナがロズフェルド領で行った実務の内容――二重請求の是正、緊急予算の適法な獲得、地元商人との公正な契約――が、客観的な数字と事実のみを用いて、最大限の賛辞と共に正確に記されていた。最後に『王国監査院首席監査官 エドガー・レイン』という力強い署名が添えられている。
「ウェントス伯爵家が提示した条件は破格だが、彼らはまだ君の本当の価値の半分も理解していない。この推薦状を添えて交渉すれば、さらに有利な条件を引き出せるだろう。君にはそれだけの価値がある」
事務的で、どこまでも冷徹な声。
彼が用意したのは、エレナがより高く、より遠くへ羽ばたくための、完璧な切符だった。
だが、その完璧さが、エレナの心を鋭く抉った。
(ああ。……私は、ここにいてほしいとは思われていないのだ)
エレナの胸の奥で、ひどい痛みが弾けた。
役に立たなければ、愛されない。感情を殺して数字を合わせる有能な裏方でなければ、自分には価値がない。ハルベルク侯爵家で植え付けられたその呪いが、再び彼女の首を真綿のように締め付けた。
エドガーは自分を正当に評価してくれた。自分の名前で仕事を残す大切さを教えてくれた。だが、それはあくまで『専門家としての有能さ』に対する評価であって、エレナという一人の女性をそばに置いておきたいという感情ではなかったのだ。
「……ご丁寧に、ありがとうございます。首席監査官殿」
エレナは感情を押し殺し、推薦状を握りしめたまま、エドガーに深く頭を下げた。
彼にすがってはいけない。惨めな姿を見せたくない。
彼女は実務家としての分厚い仮面を被り、ただ震える手だけを机の下に隠した。
***
――エドガー
領主館に割り当てられた自室に戻ったエドガーは、分厚い木の扉を閉め、鍵を下ろした。
返事を待つ間は動かなかった手が、扉を閉めてから震えた。
彼は壁に背を預け、喉の奥から絞り出すような、苦しげな息を吐き出した。
推薦状を書いた右手を、もう片方の手で押さえた。
自分の手で、彼女がこの領から、自分の手元から去っていくための切符を用意したのだ。
愚かだと自分でも思う。
本当は、誰よりも彼女を引き留めたかった。
ウェントス伯爵家からの使者が来たと聞いた時、彼の胸を焼いたのは、これまで感じたこともないほど激しい嫉妬だった。
ほかの誰かの隣で笑う彼女を、想像したくなかった。考え込む横顔も、計算が合った時の微笑みも、自分が一番近くで見ていたい。ずっとそばにいてほしい。首席監査官から引き留められれば、彼女は断りにくいかもしれない。それを利用してはならない。
だが、それが恐ろしかった。
自分の欲望のために権力を行使し、彼女から有利な選択肢を奪って手元に囲い込む。それは、かつて母から仕事と功績を奪い、名もなき裏方に貶めた父親の所業と何が違うというのか。
(私は、彼女の自由を奪いたくない……)
エドガーは自嘲するように目を伏せた。
相手を愛しているからこそ、自分のどす黒い欲望が彼女の未来を汚すことが恐ろしかった。だから彼は、自分自身の感情を殺し、彼女が一番有利に飛べるための推薦状を書いた。
自分の望みを黙っていれば彼女のためになると、エドガーは信じようとした。だが、推薦状を受け取った時の彼女の声が、いつまでも耳を離れなかった。
「……行け、エレナ。君は、誰の鳥籠にも入るべきではない」
薄暗い部屋の中で、エドガーは誰に届くこともない言葉を、一人静かに呟いた。




