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婚約破棄は承りました。私の仕事まで、あなたのものではありません~冷徹監査官は私を囲わない~  作者: 他力本願寺


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第16話 数字にいない人々

ロズフェルド領の中心に位置する第六倉庫の前には、百人近い男たちが詰めかけ、物々しい怒号が飛び交っていた。


 彼らは皆、日焼けした肌と筋骨隆々な体を持つ、領内の荷役作業員たちだった。手に手に作業用の鉤縄や木槌を握りしめ、倉庫の入り口を封鎖するように立ち塞がっている。


 急報を受けて領主館から駆けつけたエレナは、馬車から降り立つなり、その張り詰めた空気に息を呑んだ。


「あんたか、王都から来た再建官様ってのは!」


 先頭に立っていた大柄な男が、エレナを睨みつけて怒鳴った。


「俺たちは昨日いきなり、仕事が半分になると言い渡された! それどころか、名簿の下から三十人は明日から来なくていいとクビを切られたんだ! どういうことか説明してもらうぞ!」


「そうだ! 冬が来る前に給金が絶たれたら、俺たちの家族はどうやって飯を食えばいいんだ!」


 彼らの怒りは尤もだった。


 北端のアルト村とリューネ村を救うための緊急集中輸送。その資金を捻出し、全体のコストを最適化するために、エレナは領内すべての物流契約と人員配置を徹底的に見直した。無駄な待機時間を削り、重い荷物を少ない人数で効率的に捌けるよう、動線とシフトを組み替えたのだ。


 帳簿上の数字は、美しく整っていた。完璧な計算によって生まれた余剰資金は、次なる馬車のチャーター代へと回されている。


「……申し訳ありません。輸送の効率化を進める過程で、人員の最適化が必要でした。不要な待機時間に対する賃金の支払いは、現在のロズフェルド領の財政では維持できないのです」


 エレナが冷静に事実を告げると、男たちの顔にさらに強い怒りの色が浮かんだ。


「最適化だと? ふざけるな!」


 大柄な男が、地面に唾を吐き捨てた。


「俺たちは数字のコマじゃねえ! 待機時間が無駄だって? その間に俺たちが何をしてたか知ってるのか。馬の蹄の泥を落とし、荷車の車軸に油を差し、少しでも長持ちするように手入れをしてたんだ! あんたは帳簿の上で無駄を省いたつもりだろうが、現場の余裕を削り取っただけだ!」


「俺たちを切り捨てて、何が領の再建だ! 帳簿の数字が合えば、俺たちが明日食うパンがなくなることはどうでもいいのか!」


 その言葉は、見えないハンマーとなってエレナの頭を殴りつけた。


 帳簿の数字が合えば、それでいいのか。


 エレナはハッとして、男たちの泥だらけの顔や、すり減った靴、ささくれた手を見つめた。


 ハルベルク侯爵家にいた六年間。彼女に求められていたのは「感情を殺し、ただ数字の辻褄を合わせる有能な裏方」であることだった。セドリックが使い込んだ予算の穴を埋めるため、何度も下請けの予算を削り、彼らの生活を犠牲にして「家」の体裁を保ってきた。


 その時、自分の顔は見えない安全な場所に隠し、ただ数字だけを動かしていた。


(私は……『数字が合うこと』と、『人々の生活が続くこと』を混同していた……)


 北端の村を救うことばかりに気を取られ、目の前にいる荷役作業員たちの明日を切り捨ててしまっていたのだ。それは、侯爵家の冷たいやり方と何一つ変わらないではないか。


「……あなたの言う通りです」


 エレナは深く息を吸い込み、男たちの前に進み出た。


 騒ぎを聞きつけた領の衛兵たちが駆けつけ、男たちを取り押さえようと槍を構えたが、エレナは鋭い声でそれを制止した。


「衛兵、下がりなさい! 彼らは悪党ではありません。ロズフェルドの経済を支えてきた領民です!」


 エレナは再び男たちに向き直り、静かに、しかし遠くまで通る声で告げた。


「現場の余裕と、皆さんの生活への配慮を見落としたのは、私個人の完全な失策です。再建官として、深く謝罪いたします」


 エレナは深々と頭を下げた。


 男たちは顔を見合わせた。言い返されると思っていたのか、怒鳴り声が一度途切れた。


「ですが、待機時間への支払いを元に戻すことはできません。国庫庁に提出した予算計画はすでに動いているからです」


「結局、俺たちは切り捨てられるってことかよ!」


「違います。皆さんを『待機』させておくお金はない、と言っているのです。必要な整備の賃金を計上し直します。その上で、別の仕事への移行も相談させてください」


 エレナは姿勢を正し、頭の中で急速に新たな予算の組み替えを行った。


「北端のアルト村へ向かう山道に、荷馬車の中間中継所を三箇所建設します。雪に閉ざされる前に建てるためには、人手がいくらあっても足りません。解雇を言い渡された三十名は、安全講習を受けた上で、その建設作業に応募していただけます。また、冬の間は仕事が減りますが、北のルートを維持するための『低地の除雪および道路整備隊』として、皆さんを季節雇用で契約します。……職種と賃金を示します。無理な仕事を引き受けていただくつもりはありません」


 それは、既存の仕事をただ戻すのではなく、新しい計画の中に彼らの居場所を無理やり作り出す『移行策』だった。


 建設費と除雪の季節雇用費。当然、追加の費用が発生する。建設費には、外部の作業班を雇うための予算がある。そこを現地の雇用と訓練へ振り替え、冬季の維持費は通常予算で賄えるか確かめる必要があった。


 エレナの決意に満ちた瞳と、具体的な代案の提示に、男たちの間にあった剣呑な空気は急速にしぼんでいった。


「……本当に、除雪隊として冬の間も雇ってくれるんだな?」


「今日中に予算の振替案を確認します。明日、賃金と雇用期間を記した条件を持って戻ります」


 男たちは顔を見合わせ、やがて武器代わりに持っていた木槌や鉤縄を下ろした。


 暴動一歩手前だった抗議が、具体的な仕事の交渉へと着地した瞬間だった。


 その日の夕方。


 執務室に戻ったエレナは、激しい頭痛と戦いながら、新たに追加された人件費を捻出するための予算修正案を書き上げていた。


 そこへ、監査院の仮執務室からエドガーがやってきた。彼はすでに市場の騒ぎを耳にしているはずだった。


「レイン首席監査官。……申し訳ありませんでした。私の読みの甘さで、倉庫の稼働を半日止めてしまいました。さらに、新たな雇用策による予算の圧迫も招きました」


 エレナが立ち上がって謝罪すると、エドガーは机に置かれた修正案の書類を手に取った。


 彼は「気にするな」とか「君はよくやった」などといった、甘い慰めの言葉は一切口にしなかった。


「半日の作業遅延による物流の損失額と、新たな季節雇用にかかる追加費用。遅延の損失と、今後の業務に必要な雇用費は分けて記録する。計画不備による追加負担がいくらかも明らかにしてくれ」


 冷徹に告げられたその言葉は、一見すると厳しい罰のように聞こえる。


 だが、エレナはまっすぐに彼を見つめ返し、「はい」と力強く頷いた。


「私の失敗です。私の名前で記録に残してください」


 侯爵家での彼女なら、絶対に言えなかった言葉だ。失敗すれば自分の価値がなくなる。だから名前を隠し、誰の責任でもないように帳尻を合わせようとした。


 しかし、目の前にいる監査官は、失敗したからといって彼女の権利を奪ったり、解任したりはしなかった。


「……そうだ。君が間違え、君が自分で修正した。その事実を、逃げずに記録しろ」


 エドガーの静かな声には、確かな肯定の響きが含まれていた。


 失敗をしても、あなたの名前は消さない。あなたの生きた証として、歴史に刻む。


 それは、ただ甘やかされるよりもずっと深く、エレナの魂を救済する言葉だった。エレナは修正案に、整備作業と有給の訓練時間を書き加えた。


 現場の不満を吸収し、新たな雇用体制を組み込んだ物流網が力強く動き出して数日後。


 ロズフェルド領主館に、一通の親展の書状が届けられた。


 隣領を治める、東部の有力貴族である伯爵家からの使者だった。


 書状の宛名は、マルグリットでもなく、監査院でもなく、エレナ・ヴァレント個人。


 内容は、ロズフェルド領での鮮やかな手腕を高く評価し、現在の倍以上の報酬で、自領の『専属財務官』として迎え入れたいという、露骨な引き抜き(ヘッドハント)の打診だった。

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