第15話 監査官へ「NO」と言う
ロズフェルド領主館の執務室。エレナの目の前には、王都の監査院本部から特急便で届いた羊皮紙の通達書が広げられていた。
送り主は監査院評議会。国庫補助金を用いた大規模契約に関する、新たな『安全策』の通達だった。
「……高額な保証金の事前供託。全運送馬の三段階にわたる監査院指定獣医による健康審査。さらに、荷車の車軸強度の事前証明書の提出……?」
文面を読み上げるエレナの声が、次第に震えを帯びていく。
隣で聞いていたミナが、悲鳴のような声を上げた。
「そんな無茶な! こんな厳しい条件をつけられたら、資金力のある王都の大商会しか入札に参加できなくなります! せっかく地元の商人たちが共同入札でまとまりかけていたのに、保証金なんて払えるわけがありません!」
「それに、時間の問題もあるわ」
エレナは通達書を強く握りしめた。
「指定獣医の審査や証明書の発行を待っていたら、入札の決定が最低でも二週間は遅れる。……北端のアルト村とリューネ村へ、初雪の前に備蓄を運び込むためのタイムリミットに、絶対に間に合わなくなるわ」
机を挟んで向かい側に立つエドガーは、エレナの怒りにも似た視線を、氷のように冷ややかな瞳で受け止めていた。
「国庫補助金を使った事業において、悪質な業者が途中で契約を放棄する事案が他領で相次いでいる。監査院本部としては、国費の損失を防ぐために安全策の基準を引き上げざるを得ない。首席監査官として、この通達をロズフェルド領の入札にも適用する」
「レイン首席監査官! 現場の状況をご存知のはずです。この条件を呑めば、結果的にダストワール商会のような大手に独占を許し、物流の速度が致命的に落ちます。領民が凍え死ぬのを黙って見ているのですか!」
「輸送を止める危険は理解している。だが、事故や契約放棄への備えも必要だ。この基準の適用を除外することは、一介の監査官の裁量を超える」
エドガーの言葉は、まるで感情を持たない機械のようだった。
彼は本部からの命令を遵守する組織の人間であり、エレナへの個人的な評価や同情で法を曲げることは決してしない。
エレナは血の滲むような思いで唇を噛み、彼を睨みつけた。
「……分かりました。監査院のお立場は理解しました」
エレナはエドガーから視線を外し、執務室の書棚へと向かった。
エドガーが去った後、彼女は部屋に籠もり、分厚い王国法令集と過去の監査記録を引っ張り出した。
六年間、ハルベルク侯爵家で何度も理不尽な要求を突きつけられてきた。その度に彼女は耐え、自分が折れることで丸く収めようとしてきた。
だが、今は違う。自分には守るべき任期と、自分の名前で背負った領民の命があるのだ。
(契約の時、私が明記を求めた独立審査の経路がある。急ぐ場合の要件と、提出すべき根拠を確かめよう……!)
ランプの油を継ぎ足しながら、文字通り徹夜で法規集の細かい文字を追い続ける。
やがて、窓の外が白み始めた頃。
埃を被った古い行政法規の付則の隅に、エレナは一つの条文を見つけ出した。
『第七十四条。国庫補助事業の再建責任者は、監査院の決定が事業の存続に重大な支障を来す合理的な理由がある場合、地方行政審判会および独立審査院に対し、当該処分への独立審査請求を行うことができる』
監査院の絶大な権力ゆえに、報復を恐れて長年誰も使ってこなかった、事実上死文化している異議申立ての制度。
エレナは震える指先でその条文を書き写し、正式な申立書を一気に書き上げた。
数時間後。
監査院の仮執務室の扉を、エレナは強く叩いた。
中ではエドガーとヨハンが王都への報告書を作成していた。エレナはエドガーの机の前に進み出ると、書き上げたばかりの書類をドン、と叩きつけた。
「レイン首席監査官。あなたの『追加条件を適用する』という決定に対し、王国法第七十四条に基づき、正式に独立審査請求を申し立てます」
ヨハンが弾かれたように立ち上がり、目を丸くした。
「ヴァ、ヴァレント再建官!? 緊急審理を求めるのですね。工程への影響を示す資料も添付されていますか?」
貴族社会において、上位者の決定に歯向かうことは社会的な死を意味する。通常であれば「生意気な小娘だ」と一蹴され、申し立てそのものを権力で握り潰されるのがオチだ。
だが、エドガーの表情はピクリとも動かなかった。
彼は机の上の申立書を手に取り、その要件と条文番号を冷徹な視線で確認する。
「……この審査請求を通せば、地方行政審判会での審理に最低でも二日はかかる。工程の遅延は免れないぞ」
「はい。それでも、大商会に独占され、不当な契約で長期的な物流が滞るよりはマシです。二日分の遅れは、私が現場の荷積みを指揮して必ず取り戻します」
「……」
エドガーはエレナの決意に満ちた瞳をじっと見つめ返した。
受理を渋られたら、審判会へ直接提出する。エレナは控えを握り、彼の返答を待った。
しかし、エドガーは静かに羽ペンを手に取った。
「受理しよう。直ちに地方行政審判会への付託手続きに入る」
「承知しました。受付時刻を記録します」
「法に定められた正当な権利行使だ。これを潰す理由はない。ヨハン、本部に審査開始の旨を伝えろ」
ヨハンは書類を受け取り、本部宛ての通知を用意し始めた。
それから二日間、エレナは地方行政審判会で、追加条件による遅延を数字と気象記録で説明した。エドガーは監査側の説明者として、安全策を求めた根拠と、本部の指示が現場に及ぼす影響の双方を提出した。結論を出すのは、独立した審判官たちだった。
エドガーは監査院側の立場として反論も行ったが、決してエレナの主張を感情的に否定せず、ただ法的な妥当性のみを争点とした。
結果は『一部認容・一部却下』。
事故防止に必要な車軸の点検は残し、運行前の現地点検と証明書の後日提出を認める一方、最も時間を食う「指定獣医の事前審査」と「高額な保証金」は、ロズフェルド領の特殊な雪害リスクを鑑みて免除されることとなった。
エレナの主張が、監査院の決定を覆したのだ。
その日の夜。
領主館の執務室で、ようやく入札要綱の最終手配を終えたエレナは、安堵の息を吐いて背もたれに身を預けた。
そこへ、静かなノックと共にエドガーが姿を見せた。彼の手には、二つの温かいハーブティーのカップが握られていた。
「……レイン首席監査官」
「遅くまでご苦労だな」
エドガーはカップの一つをエレナの机に置き、自身も向かいの席に腰を下ろした。
エレナは湯気の立つカップを両手で包み込みながら、少しだけ申し訳なさそうに視線を伏せた。
「その……本部の通達を覆したことで、あなたの面子を潰す結果になってしまいました。申し訳ありません」
覆った通達の写しが、机の端にあった。彼と顔を合わせた途端、審理中には気にならなかったことが、胸につかえた。
だが、エドガーはエレナの謝罪を静かに手で制した。
「謝る必要はない。むしろ、私は安堵している」
エレナが顔を上げると、そこにはいつもの冷徹な仮面を少しだけ緩めた、一人の青年としてのエドガーの顔があった。
彼の青い瞳は、ひどく穏やかな光を湛えている。
「私が間違っていた時。あるいは、私の背後にある組織が理不尽な要求を突きつけてきた時。……君が私に対して、はっきりと『NO』と言える状態が機能した。それが、何よりも嬉しい」
エドガーの唇に、微かな、だが確かな笑みが浮かんだ。
「私を止めてくれて、ありがとう、エレナ」
その優しく甘い響きに、エレナの心臓がトクンと大きく跳ねた。
これまで「役に立つこと」でしか自分の居場所を確保できなかったエレナにとって、相手の意見を否定し、反発することは『嫌われる行為』でしかなかった。
だが、エドガーは彼女の『NO』を喜んだ。
エレナは胸の奥が熱くなるのを感じながら、ハーブティーを一口飲んだ。香草の香りと共に、これまで味わったことのない甘い安心感が、全身に染み渡っていくのを感じた。
監査院という強大な壁を越え、地元商人たちとの契約は無事に結ばれた。
いよいよ北端の村への集中輸送が始まる。




