第九話 剣聖(前編)
夜会が始まってまもなく、ヴィオレッタはひとり、夜会場を抜け出した。
クラリッサのもとに残されたミリアは不安そうにしていたが、王宮の屈強な衛兵たちが守る夜会場でことを起こすほど、やつらも愚かではないはずだと考えていた。
ヴィオレッタが向かったのは王宮の門に並んだ馬車のうちのひとつ——自身のグランヴェール侯爵家の馬車だった。
そこに、馬車にもたれて立つ一人の男がいた。男は貴族らしい風貌ではあったものの、夜会服でもない平服で、腰に長剣を下げていた。
「お兄様……」
ヴィオレッタに気づいた男は、笑顔を向ける。
「ヴィオレッタ! 夜会の最中にどうした? お兄ちゃんが恋しくなったのか?」
「夜会に参加するわけでもないのに、こんなところまでついてくるなんて鬱陶しいと思ったけれど、お兄様が役に立ちそうだわ」
その男はヴィオレッタの兄、アレクシス・グランヴェール——剣聖の称号を持つ男だった。
しかしアレクシスは、王家から、近衛騎士団長、王国騎士団長、聖教会からも聖教会騎士団長など、王国で考えうるあらゆる武力の要職への要請を受けながら、すべて迷うことなく断っていた。
多くの傑物を輩出する名門グランヴェール侯爵家にあって、アレクシスの能力は剣技に特化していた。
十歳の頃、出場した王国主催の模擬戦大会で、大人の剣士を次々と破り、当時の王国の最高戦力と言われた王国騎士団長まで降し、王家はアレクシスに剣聖の称号を与えた。
その頃の幼いヴィオレッタは、そんな兄を誇りに思っていた。
アレクシスが成人すると、王家はすぐにあらゆる要職を彼に提案したのだが、当の本人はどんな職にも興味を示さなかったのだ。
その実力は疑いようがなかったが、彼が、彼に相応しいと思われる要職に就かない理由は謎であり、それを知るのは、グランヴェール侯爵家の者たちだけだった。
「俺は王家も貴族も嫌いだからな。夜会など関わりたくもないが、夜会には不埒な令息どもが数多くいるから、お兄ちゃんは心配でいてもたってもいられないのだよ」
剣聖アレクシスが王国の要職に就かない理由——彼は愛する妹のため以外に振るう剣を持たない、と言うのだった。
剣聖の称号を手にした王国の模擬戦に参加したのも、ただ妹を喜ばせたかっただけだった。
ところがその妹は、兄以上に敬愛すべきクラリッサに出会ってしまい、すっかり兄への興味も敬意も失い、アレクシスはただ妹に都合よく利用されるだけの剣聖となっていた。
「そうなの。不埒な令息どもが紛れこんでいるようなのよ」
「何だと? 俺のヴィオレッタを困らせるやつはどこのどいつだ? 剣の錆にしてくれよう」
「そう、とても困っているの。お兄様の力が必要だわ」
「任せるんだ、ヴィオレッタ。どんな輩であろうとみじん切りにしてくれよう」
「ここではまずいわ。人のいないところに行って話しましょう」
「えっ! ちょっと待ってくれ。お兄ちゃんはまだ心の準備が……」
「そんな準備はいらないから、早く来て」
そうしてヴィオレッタは剣聖の腕を引き、馬車の列から離れた暗がりに移動するのだった。




