さあ皆さんご一緒に、
クマールてめえベラベラ喋りすぎなんだよぉ!!なんだよ12,000文字ってよぉ!!
◇
────時は一時間前まで遡る。
「親善大使はまだ見つからないのか!!」
『赤の都市』主要街、都市庁舎の領主執務室にデスクを叩く音が響く。
報告の為苛立ちと焦燥を露にする領主の前に立った秘書は、その音にびくりと肩を竦めた。
「も、申し訳ございません……魔法を用いた誘拐の可能性が高いと現在魔導士団による痕跡の追跡を行っていますが、未だ手掛かりは……」
「倉庫にある魔道具は何を使用しても構わん!何としてでも見つけ出せ!」
「はいっ!」
獅子領主の鬼気迫る言葉に秘書は転がるように執務室を後にする。領主は苛々と爪を嚙み、もう一度拳をデスクに叩きつけた。
親善大使行方不明の報を受けた領主執務室は、現在ハチビーの巣を突いたような騒ぎであった。
親善大使の誘拐が発覚したのは今より数時間前。もう夜も更け始めるといった頃に、おもてなし本部内の政策実働部隊である親善大使執務室から「親善大使がまだ戻っていない」と商業組合に連絡が入ったのが始まりであった。
本日は朝から商業組合での事業打ち合わせに詰めていた親善大使だが、夕方過ぎには組合を辞しており、その際彼女は「今日はこの後もう一件用事がある」と同じく打ち合わせに同席していた都市庁舎の職員に伝えていた。
どうやら彼女はとある男と落ち合う約束をしていたらしい。
その相手はリズウェル商会の商会員、クマール。
昨日その商会員から相談事があると持ちかけられた親善大使は、業務終了後男が指定したカフェに護衛と共に向かったようだった。
そしてそれ以降、一切の足取りが途絶えてしまった。
商業組合はすぐさまリズウェル商会へ問い合わせを掛けた。
只事でない雰囲気を感じ取ったか、リズウェル商会は迅速に回答を寄越した。───「クマールという商会員は存在しない」という回答を。
そんな筈あるまいと、商業組合から報告を受けた領主は直々に徹底的な調査を命じたものの、それでもリズウェル商会から上がってきた調査結果は存在しないの一点張り。過去おもてなし本部と直接やりとりした履歴は無く、今回のバレンタイン事業が初の共同事業であると商会長自ら領主へと報告した。
今魔法界で一番の話題者であると言っても過言ではない親善大使が行方不明。その報は王城へとすぐに知らされ、迅速に捜索チームが結成された。
件のカフェに突入したのは商業組合に親善大使執務室から連絡が入ってから一時間後のこと。
その時点で店内はもぬけの殻。親善大使の姿はおろか店員の姿すらなく、彼女の護衛だけが店の外に倒れていた。
店員もいないとなれば店側も誘拐に協力していた可能性が非常に高く、同時にその事実は今回の事件が突発的な犯行ではなくかなり入念な計画の元実行された可能性を示唆していた。
まるで巧妙な犯行に大きな組織の関与を指摘する者もいる。彼女の肩書もあって、組織的な犯行と考えるのは自然だった。
「クソ……ッ!」
悪態がついて漏れる。国王陛下の覚え目出度い親善大使が己の都市で誘拐されたとなれば、領主の責任問題にまで発展する。あの黒狼は柔和な顔をして一切容赦が無い。もし親善大使の身に万が一があれば容赦なく己の首を切るだろう。
いや、それもそうだがまずはやはり親善大使の安全が心配だ。存在の重要性もさることながら、そもそも彼女はうら若き女性。目的も何も明かさない誘拐犯に無体を働かれないとは限らない。もし心身に一生残る傷が出来れば……
怒りに手が震える。焦燥に支配され、領主は苛立ちを隠すことなく再び拳を握った。
しかしその拳が大きな音を立てる寸前、ひとりのモンスターが声を上げた。
「領主様!親善大使の居場所が分かったと……!」
「っ!?どこだ!?どこにいる!?」
「そ、それが……」
大声で齎された吉報に執務室中のモンスターが安堵の息を漏らす。
だが、親善大使発見の電話を受けた部下の表情は裏腹に硬い。
受話器片手に言葉を詰まらせた部下は僅かな逡巡の末、絞るように親善大使の居場所を口にした。
「主要街郊外……オアシス地帯の奥地にあるグラン・キャラバン貿易社と……」
「───ッ!」
どこかから小さく悲鳴が上がる。
グラン・キャラバン貿易社。それはただの貿易商の名前ではない。
泣く子も黙る巨大反社組織『アルマリオファミリー』が表世界で用いる看板の名であった。
違法薬物や魔道具の密売、モンスター売買、違法賭博、果ては地下闘技場の運営……その組織は国家が定めた法に唾を吐きかけ手段を択ばない金儲けに走る無法者共の巣窟。
ロシェで頻発する聖霊隠し事件にも関与していると噂されている例の組織は、表向きまっとうな貿易会社としてオアシス地帯の外れに巨大な根城を構えているが、その実態が真っ黒であることは長年この都市に商いの拠点を持つ者として、そして領主として生きてきた獅子領主はよくよく理解していた。
かの組織に、悪辣で非道なあの組織に親善大使は捕らわれている。───組織的犯行だとは考えていたが、それは考え得る限り最悪の事態だと領主の視界は真っ赤に染まった。
「…………すぐに」
「は……」
「すぐに、憲兵隊全隊をあのクソ山羊の根城に差し向けろ!!今日という今日は許さん、一匹残らず殲滅しろ!!」
怒りの咆哮は、執務室だけに留まらず都市庁舎全体に響き渡った。
部下たちが悲鳴のような声を上げて憲兵隊へと全隊突撃準備を通達をし、捜索チームへと報告を上げる中、肩をいからせた獅子領主は手荒くコートをマントのように羽織り怒りに戦慄く手で近くに控える側近への肩を叩いた。
「我らも向かうぞ!!今日こそあのいけ好かないニヤケ顔を原形も留めぬほどに殴って角をへし折ってやる!早く準備を……おい、聞いているのか!?」
肩をゆすぶられた側近は、しかしかなり強い力で掴まれているにも関わらずピクリとも動かない。獅子領主に背を向けたまま黙りこくっている。
この男、最近いやにぼんやりしていると思ってはいたがまさかこの事態の中居眠りしているのかと、沸騰する領主の頭はすぐに怒りの矛先を側近へと向け、不届き者を叩き起こしてやると声を張り上げようとした。
しかし、
「……親善、大使……?」
「貴様、何を今更ぬかしている!?やはり寝ぼけているのか、この……っ」
乱暴に肩を引いて自分へと向き直させる。俯いていた側近はその勢いに体をふらつかせ、徐に顔を上げた。
───ぐるりと黒目を裏返させ、口を歪に笑みの形に歪めて。
「し、しん、しししししんぜ、たたたたたたた、いし?し?ししし」
「───ッ!?」
尋常ならざる様子に獅子領主は目を見開き、執務室中のモンスターが状況も忘れて硬直する。
その間にも側近はガクガクと体を痙攣させ、口の端から泡のような唾液を垂らし、言葉にならない音を吐き出し続けていた。
「……っ、おい!しっかりしろ!誰か、医療院へ連絡を!」
「は、はいっ!」
ついさっきまで普通に会話をしていたモンスターの突然の変貌ぶりに言葉を失っていた領主だが、遂に叫ぶような奇声をあげ始めたのを見て我に返った。慌てて他の部下へと医療院の手配を命じる。
命令を受けた部下がロシェ医療院へ電話をかけようとマギホを手に取る。
だが、医療院への緊急ダイヤルをコールする直前、痙攣していた側近の体から突然力が失われた。
糸の切れた玩具のように全身がダラリと弛緩し膝をつく。まさか、とその場の全員が息を呑んだ。
しかし次の瞬間、側近は絶叫をあげて苦しみ出した。
胸を掻きむしって背が弓形にそり返る。その急変ぶりに皆が動けずにいる中、ひとしきり叫んで苦しんだ男はまたも体を弛緩させ───首が、ゴキリと音を立てて不自然な角度に折れ曲がった。
「な……っ」
「ヒッ……!?」
「きゃああああっ!」
正常じゃない首の向きに悲鳴が上がる。パニックに陥る執務室の中、ともすれば死んでしまったのではないかと思われた側近はゆらゆらと揺れながら首を抑えた。
「が……っ、ぁ……ひゅっ……」
「…………医療院を、早く!!」
喉に何かが詰まったかのように苦しみ、喉を掻きむしって藻掻く側近を見て再度領主は吠える。
だが、またしてもその命令は遮られる。
何の前触れもなく、苦しんでいた側近の口が、大きく、大きく……耳まで裂けるのではと思うほど大きく釣り上がった。
恐怖すら覚えるその狂気の笑みに、カルベン領主と並ぶ豪放磊落と部下のみならず他の領主陣からも称される獅子領主が気圧される。理解の埒外な光景に言葉を失い、思考が止まる。
引っ掻き傷が痛々しく走り、赤紫に腫れ始めた首から手を離した側近は、その笑顔のままゆっくりと口を開き、そして一音一音噛み締めるように言葉を発した。
「あの、方、の……為、に」
その声は、聞き慣れた側近のものではなかった。
男とも女とも、年若いモンスターとも老いたモンスターとも取れない不気味な響きを以て全員の耳に潜り込んだその声は、脳を掻き回し精神を乱す。
「あの方の、為に」
不気味な光景に、誰ひとり動けない。
何を言っているのか、側近はどうしてしまったのか、この言葉を、側近の喉を使って喋っているのは一体誰なのか。
疑問はつきないのに、思考を上回る異常が脳を正常に回してくれない。
かくして、疑問の一つはすぐに解消されることとなる。
尋常じゃない表情を浮かべていた側近は、突然あの見るものの精神を揺さぶる狂った笑顔ではなく、まさしく満面の笑みと言える笑顔を浮かべて再び口を開いた。
「───やぁやぁ皆さんご機嫌よう!もう夜も更け月が真上まで昇ったにも関わらずお揃いで!」
場違いなまでに明るい声色、明るい言葉が静寂を壊す。
道化師じみたコミカルな動きでくるりとターンした側近は、否、側近の顔をした何者かは、呆気に取られるモンスター達へとペラペラ語りかけ始めた。
「こんなに大勢に迎えられるとは思っていませんでしたよ。嬉しいですねえ。ありがとうございます、ありがとうございます!ああいけませんね、どうやら緊張しているようで……何分、基本的には裏方に従事しているものでして。ほら、裏方は演目の全てを網羅していないと務まらないともうしますでしょう?組織内で一番の配下である自覚がある私がその役柄につくのは当然のことではあるのですが、しかしそうはいっても緊張するものは緊張してしまうものですよねえ。……ああそうそう、そんな普段は裏方に徹している私が何故この場に参上したのか、という話でございますが!が!ええ他でもありません!今宵は皆様に是非ご覧いただきたい演目を用意したのです!いやー自信作も自信作ですよ、なにせ準備に数ヶ月かけてるんですから!演出も演者も一流を用意いたしました。きっとご満足いただけると思うんです!そう、その演目とはズバリ……っとと、失礼しました。まずは私が何者なのかお話ししていませんでしたね。すみませんすみません、ちょっと興奮しておりまして、ご容赦くださいませ」
劇場俳優にように演技がかった仕草で意味の分からない言葉をひたすらに羅列するソレは、自分の発言の中で何かに気づいたようにポン、と手を打つ。
そしてわざとらしい咳払いを落としては胸に手を当て、逆に手で服の裾を摘み、まるでカーテシーでもするように膝を折った。
「呼ばれて乞われれば何処でも、夢のようなひと時を先導いたすエンターテイナー。モンスター呼んで夢劇場の案内者……」
痛々しい状態の首をものともせずことりと小首を傾げたソレは、片目を瞑りながら己の名を告げた。
「───クマールと、申します」
「───ッ、捕えろ!!」
親善大使誘拐事件の容疑者の名を名乗った男へ、領主は迷いなく吠えた。
領主の警護につくモンスター達が飛びかかる。異常だらけのこの場において、一切の躊躇もなく動けたのは普段の訓練の賜物だろう。
不審者を捕えようとする動きには一部の隙もない。
対して隙だらけな男の身柄はすぐさま押さえら
「んっんー、えーっと全域放送マイクはどれでしょうかね……これかな?あ、こっちですね」
「……!?」
そんなのんびりした声が背後から聞こえた。
振り返った先には、執務室に置かれた放送機材を前に頭を捻る男の姿。
飛びかかったモンスターの下には何もなく、男は自由気ままに機材を弄んでいた。
「な、にを……」
確かに領主は飛びかかったモンスターが男を捕える姿を見た。
床に引き倒し、腕を後ろに回して拘束した所も。
だというのに今、男は自分たちの背後にいる。何故?どうやって?何が起こっている?
室内とは言え都市の頂点たる領主の執務室はかなり広い。拘束を一瞬で解いて誰の目に触れることなく背後に回るなど、例のリライヴェッジ所長の秘蔵っ子が使うという瞬間移動でもない限り不可能……
「考えても無駄ですよ。ここは等しく夢の中ですから」
領主の思考を読んだように、側近の口を使って尚も喋り続ける男、クマールは嘲笑する。その手は依然都市庁舎に備えられたロシェ全域に放送を流す為の機材を弄っていた。
その行動に、心を押し潰しそうな不気味さと同じくらい嫌な予感が膨れ上がる。
止めなくては、そう思うのに何故か体が動かない。それこそ夢の中にでもいるように、思うように行動に移せない。
「皆様も経験ございましょう?夢の中で全力で追いかけてるのに一生追いつけなかったり、逆に追いかけられてるけど永遠に捕まらなかったり、突然場面が切り替わったり」
執務室の誰もが動けず声を発することも出来ない。異様な空気の中、クマールだけは平然としている。
夢、と。鼻歌混じりこの状況をそう説明するクマールだったが、ふと手を止めて硬直する領主を振り返った。
その顔は、あの口が裂けた、気味の悪い笑顔で。
「…………ッ」
「これはそういう夢なんですよ。あの方が齎してくれた、ね」
ゾッ、と領主の背中に悪寒が走る。
同時に本能が悟った。───この男は、モンスターの道理が通じない存在である、と。
領主は、今まで多くのモンスターを見てきた。
権力欲に溺れ、他者を潰し利益を独占しようとするモンスターを。
金に取り憑かれ、最終的にはその身を破滅させたモンスターを。
血に飢え、何の罪もない者に手をかけたモンスターを。
救いよう無い者も、救いを齎さんとする者も、たくさん見てきた。
その行いの裏にあるのは欲する心、求める意思。善も悪も、全て理由があって考えがあって成り立つものである。
決して、モンスターの性は善一辺倒ではない。それはこのロシェという戦場で生き抜く上での領主の戒めであり、領主もまた領主なりの善と悪の理由を以てロシェを導いてきた。
その過程で都市運営や国家運営の毒となりうる膿を少々苛烈に罰し、後ろ暗い者達から粛清王などと渾名されることもあったが、しかしそれすらも理由があり意思がある。
しかし、この笑みはそのどれとも違う。
物事を善悪ではなく、損得でもなく、自分が主と定めた存在だけを指針として生きる、狂信者のもの。
そこに自分の考え、行動の理由なんて無い。
『あの方』が求めるから献上する。『あの方』が齎したものだから享受する。『あの方』がそうせよと言うからそうする。
全ては『あの方』のために。
「だって、それが愛でしょう?」
気味が悪い、気味が悪い気味が悪い気味が悪い。
自分の存在意義ですら他者に委ね、それを愛などと呼ぶ恍惚とした笑みに吐き気を覚える。
この場から逃げ出したい、悍ましいこの男から離れたい。
しかし、砂獅子の領主は譲れないもののために、本能をねじ伏せ震える足を叱咤する。
「……何が、目的だ」
ようやく絞り出した声は、もしかしたら震えていたかもしれない。
しかしそんなことにすら気を回せないくらい必死に目の前の男に覚える嫌忌を呑みこみ、問いかける。
この場を切り抜けるためには。親善大使を誘拐したと思われるこの男から情報を引き出すためには。
何としてでもこの男をこの場に足止めし、時間を稼がなくてはならない───懐のマギホが繋ぐ相手が、この事態に動くまで。
「親善大使をどうする気だ。……何をしようとこの場に現れた?」
口が上手く動かない。舌が強張る。喉が引き攣り声が出しにくい。
この体の異常は男に対する忌避感が齎すもの故なのか。
それともやはり、ここは夢の中、なのだろうか。
纏まらない思考にふらつく領主を見て表情を戻したクマールは、今度はにっこりとモンスター好きする笑顔を作って見せる。
そしてくるりと体ごと領主を振り返っては機材の上に腰かけ、それを手に取った。
「勿論、我々が用意した演目を皆様に興じてもらう為ですよ」
クマールが何かを口元に持っていく。巡りが悪く、霞みがかる意識の中でそれはなんだっただろうかと見つめる。
ああ、そうだ。マイクだ。有事の際に領民へと避難を呼びかけられるよう、主要街全域に設置したスピーカーから声を響き渡らせる魔道具、そのマイクだ。
何故、あの男が、それを───そこまで考えてようやく、領主は我に返った。
「待……ッ!!」
手を伸ばす。やめろと吠える。
しかし時は既に遅く。
微笑んだクマールは、大きく息を吸い込んだ。
『レディーーーーッス、エンッ、ジェントルメエエエエエンッ!!ロシェにお住いの皆様、夢の中からおはようございまァァアアッす!!』
ふざけた口上が領主執務室に、『赤の都市』主要街に響き渡った。
拡声された声がビリビリと空気を震わせる。爆音は夜更けの静寂をぶち壊し、とうに寝静まった者達の夢の中にまで侵入し意識を叩き起こした。
殷々と音の余韻が響く中、窓の外に灯りがポツポツと灯り始めた。
何事かと領民が目を覚ましたのだろう、突然の夜中の放送に何事かと家の外に出ては不安そうな顔を見合わせている。
その不安を煽るように、クマールは更に続けた。
『さぁさ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!今より始まりまするは世にも奇妙な狂乱劇、ひとりの女が平穏を食い荒らす都市崩壊の一部始終!!モンスターを裏切る愚か者、この世界を裏から操り滅亡へと辿らせる親善大使が織りなす楽しい楽しいステージの幕開けですよぉぉ!!』
「やめろ!今すぐ放送を止め……ッ!?」
モンスターが変わったように演技掛かった口調での演説を止めるべく領主が足を踏み出す。
しかし二の足を踏む直前、踏み出した足からかくんと力が抜けた。
体を支える力を失った足は折れ、そのまま受け身も取れず無様に床に転がる。
「あ……?」
何が、と考える意識すらも朦朧とし始める。前触れもなく現れた異変に混乱しながらも何とか視線を巡らせれば、自分だけでなくクマール以外の全員が床に倒れ伏しているのが見えた。
「……な……に…………が……」
明滅する領主の視界に、ふと、白い足が映りこむ。
細く、小さい。明らかに子供のものだった。
靴も履かずに磨かれた床に立つ足は、騒がしいクマールに相反するように静かにただそこに佇んでいる。
誰かが自分を見下ろしている。なんとか震える腕で体を支え足を辿り見上げれば、色素の薄い水色の瞳と目が合った。
無表情で領主を見下ろす少女。感情の浮かばない瞳には代わりに金色の光が浮かんでいた。
「…………ッ」
その金が何なのか分からないほど、領主は愚鈍ではない。
精神を侵食する魔力に抗うように唇を噛み締める。
だが、意識は徐々に、徐々に夢の中に堕ちていく。
『さあ、演目紹介を邪魔する方々も静かになりましたところでェェ……皆様!!こんなこと考えたことはありませんか!?ズバリ、愛は何故伝わらないのかと!』
クマールの言葉が、無理矢理耳に捩じ込まれる。
『こんなにも愛しているのに何故別の者を選ぶ?』
『こんなにも愛しているのに何故自分の言うことを聞いてくれない?』
『こんなにも愛しているのに何故子は母の愛情を理解しない?』
『こんなにも愛しているのに何故同じだけの愛を返してくれない?』
『こんなにもこんなにもこんなにもこんなにも愛しているのに、愛して、愛して、愛して愛して愛して愛して、何故、何故、何故、何故───自分の愛は、報われないのかと』
狂った愛の囁きは、止まらない。
『それは、貴方達が抱く愛は偽りだからです』
道理の通じない道化の愛は、止まらない。
『本当の愛とは、真実の愛とは、無償の愛とは、あの方が皆様に抱く愛のこと。そう、貴方達は愛されているのです』
それが絶対不変の事実であると信じて疑わない愛の告白は、止まらない。
『あの方は貴方達を、モンスターを深く愛していらっしゃる。何よりも、それこそこの世界よりも愛している。だからこそ思うのです。この偽りの愛に塗れた偽りの世界を、愛をもって解放すべきと』
街中に響き渡る演説に領民達が何が起きているのかと困惑の声を上げる。
何かのイベントだろうか、しかし派手好きなロシェの民にしてみてもこれは些か趣味が悪いと顔を顰め。
都市庁舎は、領主は一体何をしているのかと戸惑いの表情を浮かべる。
幼い子供が、意味は分からないまでもその声に滲む不気味さに震え、大人はその手を握り湧き上がる恐怖を飲み込んで空を睨んだ。
だが、声は止まらない。
だが、声を聞くのが止められない。
『ニンゲンは、怖いでしょう』
静かな問いかけが落ちる。
未だ、過去の話と切り捨てられないほどにモンスター達の心に影を落とす存在の名に、民衆は口を噤んだ。
『かの存在が、今日に至るまでどれだけのモンスターに手を掛けたか。どれほどの血が流れたか、分からない方はいないでしょう。ニンゲンはモンスターが憎むべき仇敵であり、怨敵であり、相容れない存在。あの方はその恐怖からモンスターを救おうとしていらっしゃる』
その通りだと、空に浮かぶ三日月に反射する言葉を肯定する心と。
もしかしたら全てがそうではないのかもと、地に根張った常識を疑い始める心がせめぎ合う。
その脳裏には、あの髪の長い狐のモンスターの姿が───
『だというのに、それに否やを唱えるものがいるのです』
ぎくりと、心を見透かしたような言葉に体が強張った。
『ラウ親善大使は、あの方の意にそぐわない事をしようとしています。モンスターを愛し、ニンゲンの魔の手からモンスターを救おうとしているあの方の意に従わない。それを裏切りと言わずなんというのでしょう』
いつの間にか皆一様に、聞き入るように夜空を見上げる。
あの方が誰なのかは分からないが、しかし話を聞いている限りその存在は確かにかの親善大使よりもモンスターに寄り添っているのかもしれない。
ニンゲンをもてなすなんて、友好を結ぼうだなんて、確かにそれはモンスターへの裏切りに等しいのかもしれない。
始めは誰もが覚えていたこの状況の異常さに、民衆は次第に目を逸らし始め。
同時に、その単語を聞いたことでそれは静かに目覚め始める。
『だから、我々は決めました。愛を説くため、愛を理解してもらうため───我々がロシェの皆様を救い、彼女自身に己の過ちを理解させることを』
救いというにはその声には余りにも独善的で汚泥のような濁りが含まれているのに、誰もそれに気づかない。
意味の分からない言葉に覚えていた恐怖も、感じていた不気味さも、ゆっくりと溶けていく。
熱に浮かされたように───あるいは夢に魘されるように、『赤の都市』が愛に沈む。
『光栄でしょう、素晴らしいことでしょう。貴方達はあの方の愛の礎となるのです。ああ、ああ!素晴らしい素晴らしい素晴らしい素晴らしい素晴らしい、なんと、なんと深き愛でしょう!!全てのモンスターは、あの方の愛に報いなければならない!!!!』
絶叫のような声は、しかし魘される民衆にとって聖典の中の詩の如く甘美に、慈愛に満ちた調べのように響く。
老いも若きも、その声を聞く全てが心を一つにする。
『───さあ皆様。愛を、証明しましょう』
あの方の意にそぐわない親善大使を、罰せよ。
街が、水を打ったように静まり返り。
───次の瞬間、主要街の至る所で絶叫が響いた。
放送魔導具で拡声された声ではない。
それは住宅街の中で、バザールの片隅で、砂の大海原の真ん中で、オアシスの木陰で。
男が、女が、幼い子供が、杖を突く老モンスターが、商人が、店主が、医者が、憲兵が。
「アアアアアアアアアッ!!」
叫ぶ。
鋭い声は、まるで産声のように闇夜を切り裂く。
知らぬうちにその精神を侵されていた者たちが、今、合図とともに目を覚ます。
否、夢に堕ちた。
モンスターを裏切るあの女を、モンスターを救うあの方の意にそぐわない親善大使を、
この手で罰する。────愛に、報いるために。
「罰を、罰を!!」
「裏切り者には罰を与えよ!」
「許すな、親善大使を許すな!」
そう口々に叫び、彼らは───じっくりと時間をかけて精神を侵され、見たことも無い存在の信者へと精神を塗り替えられていた彼らは駆け出した。
呆然と空を見上げる民衆の隙間を縫って、時にぶつかり地面に転がりながらも、一心不乱にある場所へと向かって走る。
「そうですよ皆様。それが正解です。檻の中に居てはいつまでも救われることはできませんから」
マイクから口を離したクマールはまるで慈しむかのような表情で窓の外、夜の街を駆ける彼らの姿を見守る。
彼らが向かう先。それは主要街中央の広場に設置された紅玉を嵌め込んだ白亜の石碑。
厳重な柵で囲われたそれは、『赤の都市』主要街をモンスターに害為すモヴから守り、隔離するためのモヴ避け結界発動装置だった。
何故彼らがそこへと向かっているのか。その目的は、握った拳が、握られた凶器が、振り回される鈍器が物語っていた。
それでいいのだと、子を導く親のように、学を授ける師のように、赦しを与える聖職者のようにクマールは頷く。
恍惚と顔を歪ませ愛を唱える男は、新たに生まれた同胞達の行動を肯首する。
「こんな檻は壊してしまいましょう。そう、それこそがあの方の愛に報いる方法で……」
「随分と楽しそうなことしてるじゃない、アンタ」
全員が倒れ伏し、口を開けるのはクマールだけであった筈の領主執務室に、突如そんな言葉が響いた。
同時に、窓の外を眺めていたクマールの背に魔石が嵌め込まれたロッドが突きつけられる。
「……おっと、油断しました。説法に熱が入りすぎてしまいましたね。……というか七番め。見張っているように言ったのに八番だけ回収して帰りましたね」
窓に反射するのは目が覚めるような豊かな赤髪。
蠱惑的な赤い唇を吊り上げたその女は、艶を放つ鱗に覆われた蛇の尾をしゅるりとくねらせた。
「随分とアタシ達魔導士団を愚弄してくれたじゃない、誘拐犯。楽に死ねると思わない事ね」
しなやかに細めた柘榴石のような瞳に浮かぶのは燃え盛るような怒りの炎。
それに呼応するのは氷のように鋭い声だった。
「お前は既に包囲されている。無駄な抵抗は止め、今すぐその場に跪け」
普段の穏和な雰囲気を潜め、冷ややかに投降を促すのは背の高い羊獣人の青年。
着慣れた執事服ではなく丈の長い魔導士団の制服を纏う彼は、黒いローブの裾を翻し幼馴染にして今は上司であるラミアの隣に並んだ。
「ベルリアナ様、倒れている方達は無事です。今解呪を」
冷静な報告と共に領主執務室に銀の波紋が広がる。
倒れ伏すモンスター十数名全員を一瞬で包んだ波紋の中心で手を組む少女は、頭上の天環と背の羽根を輝かせ、薔薇色の瞳で真っすぐに敵を睨んだ。
「ふむ。ラウを連れ去ったというからどんな巨漢が出てくるかと思いきや……しかし随分と淀んだ目でござるな。斬るのに罪悪感を覚えなくて済みそうだ」
要所を守る甲冑を鳴らし獲物を腰だめに構える騎士が、そう言って全身に橙の魔力を漲らせる。
部下を引連れた虎獣人は、先陣を切るべくオレンジの体毛に覆われた大きな手で大剣の柄を固く握った。
「…………なるほど、なるほどなるほどなるほど!貴方達が件の方々ですね!お会いできて光栄です!……まあ、残念ながら御声だけの方もいらっしゃるようですが」
『…………』
倒れ伏す領主の手の中では、未だに通話を繋ぐ端末が仄かに光を放っている。
領主の機転により、ロシェに迫る危機を正しく把握した通話相手───王都アルヴにて玉座にかける黒狼は、冷めた目で頬杖をついていた。
王国騎士団と王国魔導士団、そしておもてなし本部と同盟を結んだ聖霊教会へ親善大使誘拐犯の捕縛および『赤の都市』救出を命じた国王は、憤ることも、目的を問うこともせず、
『───捕らえよ』
ただ一言。
己が遣わせた精鋭達へ、勅命を下した。




