アルマリオファミリー 其の五
大変遅くなりました。申し訳ございません……!
お詫びと言っては何ですが、長いです。(収まらなかっただけともいう)
悪名高い反社会組織『アルマリオファミリー』の本拠地であるともっぱらの噂である砂岩造りのキャラバンサライは、夜が深まってもその篝火が消えることは無い。
アルマリオの私室と執務室がある最上階の一つ下、アルマリオファミリーという組織の中でも限られた者しか立ち入れない5階も例外ではない。
いわゆる上層部と呼ばれる、どことなく威圧感を滲ませる構成員達。そろそろ深夜に差し掛かる頃だというのに彼らは目を冴え渡らせ、異様な雰囲気を漂わせてはエレベーターホールでひたすらに待機していた。
その視線は上階へと続く唯一の経路であるエレベーターに幾度となく向けられており、そわそわと落ち着きがない。戦々恐々とした面持ちだ。
それもその筈、天下のアルマリオファミリーの本拠地であるにも拘らず、つい一時間ほど前、彼らは侵入者がボスの私室に殴りこみに行くのを許してしまったのだ。
必死の足止めもむなしく、呆気なくフロアを横切りエレベーターへと乗り込んだあの女───今一番世間を騒がしていると言っても過言ではない親善大使の笑顔が忘れられない。そう言わんばかりに悔し気に彼らは歯を噛んだ。
何をするつもりなのか、少なくともアルマリオファミリーの壊滅を目的として侵入してきた訳では無いらしい親善大使は、そのまま一直線にボスの私室へと向かい、なにやらボスと取引をしているらしい。
そしてその女と何かを話したボスによる『手出し無用』と、そして『何があっても立ち入りを禁ずる』という命令が下ってしまえば、彼ら構成員としてはそれ以上できることは無く。
眠ることもせずに、こうしてボスが無事であることをひたすら祈り待ち続けるしかできないでいた───……
「────なァんて状態だろうな、今頃下はよォ」
「触んなや変態……っ!」
重低音を響かせて下へと降りるエレベーターの中。腰を抱く手がお尻に伸びようとするのを掴んで阻止する僕は、ニタニタと気持ち悪い笑みを浮かべる男の顔をギロリと睨んだ。
「な・ん・で!!下の階行かなきゃいけないの!!モンスター目が沢山ある場所に!」
「そりゃ、来客に足運ばせる訳にゃいかねェからだろうが」
「どの口が!!」
全くそんなこと思っていないであろうアルマリオの白々しい言葉に心底腹が立って、思い切りヒールで革靴を踏み抜く。
すると「ぐうっ」と痛みに耐えるような唸り声が降ってきた。
と思ったら、
「ハアア……最高だなァおい……」
「っっっ!!!」
恍惚とした表情で悦に入る変態の吐息まで降ってきてゾゾゾッと鳥肌が立つ。慌てて足をどかし、すぐ後ろに並ぶチャイナお姉さんたちの後ろに隠れるべくぎゅうぎゅう体を押し込んでは、気持ち悪い流し目からできる限りの距離を取った。
「へ、変な目で見るのやめてくれる!?きもい!」
「おいおい、随分な物言いじゃねェの。ちゃんと目覚めさせた責任は取るべきじゃねェかァ?」
「勝手に目覚めといて!?」
そんなおぞましい責任僕に押し付けるんじゃねえ!
ねっとりとした言葉に必死に首を振る。しかし光線じみた熱視線は盾にしたお姉さんたちの隙間を縫ってひたすらに僕に注がれており、逃げ場のない状況にいよいよ泣きそうになった。
頬への一撃によって被虐性欲こそが己の本質であると悟ってしまい、何をトチ狂ったか僕へとその性癖を差し向け暴走した変態を改めて拳を以てぶちのめして物理的に床に沈めたあの後。
それほど時を待たずして深夜の来訪者の知らせを受け取った僕らは今、共通の敵である来訪者───僕を探しに来たであろうクマールさんを迎えるべく、奥方達を伴って5階へと降りている所だった。
というのも、どうやら侵入者がボスに危害を加えていやしないかと気を揉んでいた構成員たちは、『立ち入り禁止』の命令もあって非常識な時間に訪れた来訪者をそのままアルマリオの執務室に通すことはせず、一旦5階の応接間に待たせるという判断をしたらしい。
ならば話も無事(?)纏まった訳だし、執務室に呼び寄せて早速対決と行こうじゃないかという話になるのは当然な話。
だというのに、何を思ったかアルマリオは「じゃあ下行くか」と徐に立ち上がったのだ。
何故だ。アルマリオはこの城の主、この場において一番偉いモンスターだ。一番権威ある存在がホイホイ歩くなどっしり構えてるのが普通だろう。しかも相手は僕のせいとはいえ非常識な時間に尋ねてくる来客。わざわざ出向いて礼を尽くす必要はない。
というか絶対いつもは執務室のソファーでどっかり座って相手に足を運ばせるタイプだろアンタは。
意味の分からない行動に僕はそう言葉を募って咎めようとした。なんて言ったって僕は今大変不本意ながらウサミミメイドだし、アルマリオは度重なる拳によって顔面ズタボロだ。とても階下の構成員たちに見せられる状態じゃない。
なのにこの男、問答無用で僕を引き摺ってエレベーターに乗せたのだ。「抵抗するようならクマールに突き出す」という脅し付きで、だ。
その顔には、恥ずかしい格好をモンスター目に晒され羞恥に顔を歪める僕を見て楽しむ嗜虐性と、その行いによって己に振るわれる制裁を心待ちにする被虐性が浮かんでおり───もういいや、アルマリオが変態ってことです。本気で自分の行いを後悔している。誰か助けてくれ。
元々の自認性癖と新たな芽生えを早くも共存させてみせた変態にげんなり通り越してげっそりしていると、エレベーターがチン、と軽やかな音を奏でた。
次いで、全身に掛かっていた重力が消え失せ扉が開く。
開いたその扉の向こうから多数の視線が一斉にこちらを向いたのを感じ、思わずぎくりと身が強張った。
「ボス!ご無事でし……全然無事じゃない!?」
「親善大使の仕業か!?今すぐ手当を」
「あァ。いい、いい。大したこたァねェ」
真っ先に駆け寄ってきた腹心らしきモンスターがアルマリオの姿を見て絶叫する。周囲の構成員もギョッと目を剥き、そして阿鼻叫喚の様子で大慌てで手当の道具を探しに走りだした。
彼らが驚くのも仕方がない。何故なら今のアルマリオは額からだくだくと血を流し、左頬をパンッパンッに腫らし、唇からこれまたタラタラと血を流しているからだ。反社会組織の頂点とは思えない満身創痍っぷりである。何があったと叫んでも仕方がないだろう。自業自得とはいえ僕の仕業であるのも間違いではない。
しかし、当の本モンスターは本当に大したこと無さそうに鷹揚と手を振るのみ。むしろすこぶる機嫌が良さそうな様子に腹心達は訳が分からないという表情を浮かべた。
部下のその様子に更に気を良くしたらしいアルマリオ。露悪的ににんまりと笑ったかと思えば、こそこそと奥様ーズの後ろに隠れようとする僕の首根っこを引っ掴んでは自分の体にピッタリと引き寄せた。
一気に強くなったタバコの臭いと甘い匂い、むき出しの肩を撫でる手に口から罵声が出そうになって、唇を噛んで必死に堪える。
「可愛いウサギと戯れてただけだァ、気にすんな」
「ウ、ウサギ……?ええっと、その、親善大使は」
「帰った」
ええ……うっそだぁ……みたいな目が自分に集まるのを感じて顔が熱くなる。
ウサミミプリマフリルの認識阻害魔術によって、今の僕の顔は普段とは全く違うウサギ獣人のものに見えているらしい。お陰で構成員たちはアルマリオに追従するメイドコス女が、先ほど大暴れした親善大使と直接イコールで結びついてはいない。
しかし状況証拠的にそんな訳あるまいと、凄まじい懐疑的な視線を突き立てられる。
そりゃそうだ、女が単身突っ込んでいったと思ったら奥様ーズに新メンバーが加入してるのだ。「それ突っ込んで行った親善大使ですよね?」と疑うのは当然である。
だが親善大使として、そして普通に社会生活を送っている一モンスターとして、今ここにいるウサミミメイドがラウ親善大使であると認めるわけにはいかない。
疑惑の視線を向けられたとしても、もの言いたげな視線を頂戴したとしても、何も言うことなく唇を引き結び、羞恥プレイに死にそうになりながらもひたすら耐えるしかないのだ。
とりあえず、体を寄せてくるアルマリオの背中をこっそり摘まみ捩じる。ダメだ何しても喜びやがる。無敵すぎるぞこの変態……!
「でェ?クマールの奴は?」
「は、はい。砂薔薇の部屋に。七番さんも一緒です」
「あァ?あのガキも居んのか……面倒だな」
腹心からの報告に首を鳴らしたアルマリオは、おもむろに背後に侍る奥様ーズを振り返る。そして「おい」という呼びかけと共に僕を差し出した。
「俺の香水をかけろ。念入りにな」
「は?わべっ!?」
すちゃっ!と笑顔で高そうなガラス瓶を構えた奥様ーズに匂いの強い液体を一斉噴射される。間抜けに呆けていたせいで容赦無く口の中にも入ってしまいぺっぺっと舌を出す。
「な、なんなの……」
「ウサギ」
甘ったるく、喉に引っかかる煙のような匂いが充満する。自分の全身に振り掛けられた嗅ぎ慣れない匂いに困惑を混ぜて顔を顰めれば、顎をぐいっと掴み上げられた。
「今からお前は俺の女だ。余計なことは喋らずにニコニコしとけ。何があってもな。いいな?」
「……分かってるよ」
この認識阻害ウサミミプリマフリルに変声機能はない。声を出せばクマールさんにバレることは間違いないだろう。
向こうもアルマリオが認識阻害の魔術が付与された魔導具を商品として取り扱っていることは重々承知しているだろうし。
神妙に頷きつつ、気安く触んなという意味を込めつつ顎を掴む手をぺちっと叩く。それに何を感じたか、一瞬悍ましい笑顔を浮かべたアルマリオは満足そうに離れた。
この変態、さっきからチラチラ意味ありげな視線を送ってくるのだ。怖いので目は絶対に合わせない。僕は相手を痛みつけて悦に入る性癖は持っていないので、そんな何かを期待したような目で見るのは本当に勘弁して欲しい……。
全身を襲う寒気に二の腕を摩りながら腹心のモンスターの先導に従って回廊を進む。
エレベーターホールからぐるりと半周回った対角に位置する部屋に案内された僕ら一行の先頭は、緊張する僕を嘲笑うように何の気負いもなく扉を開けた。
通された砂薔薇の部屋なる応接間は、黒と深い赤で統一された大きな部屋だった。
壁一面を覆う血色のカーテンによって外で揺らめく篝火と月明かりは完全に遮断されており、どことなく不穏で異質さを覚える。
中央に置かれた黒檀のテーブルが、鈍い光を放つシャンデリアによって照らされ艶を放っているのがやけに目についた。
薄暗い部屋の中、こちらに背を向けるようにソファーに掛けていたモンスターが、扉が開く音と多数のモンスターの気配に顔を上げ、ゆったりと立ち上がった。
「───おや、貴方様がわざわざ足を運んでくださるとは。なんかすみません…………ね?」
謝罪を口にしながらも、慇懃無礼さを隠そうともしない男。
浅黒い肌にコウモリのような羽を持つロシェの民族衣装を纏った親善大使誘拐犯、クマールさんは、ゆっくりと勿体つけるようにこちらを振り返り───そしてズタボロのアルマリオの顔を見咎めては、「は?」と驚いたような声を上げた。
「ええっと、ア、アルマリオ様……?大丈夫、なんですか……?」
「あァ、偶々今日はまだ起きてたからよォ。気にすんな」
「そういうことじゃなくて。いやそれもそうなんですけど……」
浮かべていた余裕を忘れて狼狽するクマールさんの対面にどっかりと掛けるアルマリオ。その後ろに奥様方と一緒に控える。
困惑するクマールさんの様子には諸々の溜飲が僅かに下がる気持ちになるが、狼狽える原因であるアルマリオの顔を作ったのは僕なのでなんだか複雑である。何とも言えない顔で気の抜けたやり取りを見守る。
しばらく状況を把握しようと奮闘していたクマールさんだが、煙に巻くような返答しか寄越して来ない取引相手から重症の理由を引き出す時間が不毛と悟ったようだ。とりあえず驚きと疑問を飲み下しては仕切り直すように咳ばらいを一つ落とした。
「こほん。さて……改めまして、夜分遅くに申し訳ございません。この度急ぎ確認したことがございまして参りました。ご無礼をお許しください」
「ほう?未来すら見通す天下の魘様が俺らチンピラに何を確認したいって?」
あの気味の悪い笑みを浮かべて場の掌握にかかったクマールさんに、アルマリオは対抗するように鼻で笑う。
打って変わった空気に表情を動かさないように気を付けつつ、ふたりの会話を一つも取り零さないようにと意識を集中させた。
この会話で魘が僕を狙う理由を探るのだ。アルマリオとの取引を無駄にしないためにも、一切の油断はしないように気を引き締めなくては。
足を組むアルマリオの後ろで対話を睨みつける。するとアルマリオはすい、と徐に部屋の隅へと視線を滑らせた。
「なんか探しもんか?それならそっちの鼻の効くワンちゃんが居れば事足りるんじゃねェの?」
その視線を追い、思わず大きく息を呑みかける。
部屋の隅、暗がりにひとりのモンスターが立っていた。まるで気配を発さずに、じっと息を潜めて潜む様子はクマールさんの従者のようにも見える。
全く気付かなかった。驚きで心臓がどきどきしている気がする……動いてないけど。
どことなく粗野な雰囲気を持ちながらも凪いだ水面のように静かな目を伏せていた犬耳のモンスターは、アルマリオの言葉に僅かに顔を上げた。
アルマリオ越しにそのモンスターと視線がぶつかり、今度こそ息を呑んだ。
数カ月前の記憶が一気に蘇る。
ウェルデ水上パレードの折、水路脇をベルリアナと共に歩く僕へと辛辣な言葉を吐き、そしてウェルデ主要街のモヴ避け結界装置を破壊した狙撃手と一緒に居たウェルデ襲撃犯の片割れが、そこには居た。
防犯カメラの画質の粗い映像越しに何度となく見た顔に警戒心が一気に募る。しかし、僕の警戒を他所にその男は、あの時僕を嘲笑し荒々しく罵ったモンスターとは別モンスターの如く静かに佇むだけ。僕を見てほんの少しだけ怪訝そうに眉をひそめたものの、何を言うでもなくふいっと視線を外した。
「そう思って連れて来たんですがね、肝心なところで役に立たずで困り果ててるのですよ」
「へえ、そりゃ大変だな。優秀なワンちゃんですら見つけられないものを俺らが見つけられるとは思わねェがな」
「───ご謙遜を」
低く発せられた言葉に、ハッと意識を戻す。
見れば、クマールさんの目にはどす黒い怒りが浮かんでおり、それ故か空気がズシリと重くなった気がした。
僕の監視をしていたアンポンタンごと居なくなっていたから当然ではあるが、クマールさんは僕がアルマリオファミリーに匿われていることを確信しているようだ。
だが、脱走がアルマリオの手引きによるものなのか、僕の独断なのかは分かっていない。
恐らくこのまどろっこしいやり取りは、アルマリオが魘の敵なのかどうかを見極めるためのものなのだろう。もしアルマリオが僕を救出したのだとしたら魘に対する敵対行為だと見なすために。
果たしてアルマリオはどうするつもりなのだろうか。アルマリオの目的は魘との縁切りだが、得体のしれない魘との敵対は望んでいない。ならばここで僕の正体を明かすメリットは無い。
だからここで僕を魘に売り飛ばすことはしないとは思う……いやまて、ドM状態なら兎も角、ドSに傾いたこの男ならやりかねないぞ。僕の絶望する顔が見たくなったとか言って。
ああ、なんて信用できない天秤だろう。万が一そんなことになったらその股間二度と使えなくしてやる。
「ところで……初めて見える方がいらっしゃいますね。新しくお迎えになった奥様ですか?」
脳内でスマッシュの練習に励む僕を他所に話は進む。
一瞬だけ瞑目したクマールさん。次に目を開いた時には先ほどの怒りは消えており、にこにこと表面上はモンスターの良い笑顔を浮かべチャイナ集団の中に紛れるメイド服の僕に会話の矛先を向けた。
遂に来た、と内心で身構える。
パニエによって膨らむスカートに隠すようにして、震える手をぎゅっと握りしめた。
「そうだ。可愛いだろ?」
「そうですねぇ。しかし、今までとは少し趣が違うようにも思えますが?」
「バァカ、男心は夏心って言うだろォが。好みなんざすぐ変わるんだよ」
どんな心だ。得意げにするアルマリオにこっそり白けた目を向ける。
そうですね。奥様方は皆さんそれはそれはご立派なものをお持ちですものね。まあ?別に?僕は平均ですので?悔しいとか無いですけど???
視界の端に映るたわわな何かにメンタルを揺さぶられつつも、曖昧な微笑みを浮かべる。
認識阻害のお陰で、クマールさんにも目の前のメイド服の女が探しているラウ親善大使の顔に見えては無いらしい。僕がモンスターになったきっかけでもある心臓部の傷も首元の大きなリボンのお陰で見えていないだろうし、このまま声を発さずにひたすら微笑んでいれば確証を抱くことはできないだろう。
無法で非道な裏社会であっても、そこに生きるモンスターや組織には守るべきルールがあるというのはアルマリオの言だ。
その中には取引相手の財産に勝手に手を付けるのはご法度というものもある。
それはまっとうに生きるモンスターならば当たり前ながらも、略奪が横行する裏社会においては順守が難しいルールだ。だが裏社会でも秩序は必要であり、いかに順守が難しかろうが肝に銘じなくてはならない規則なのだ。
そしてアルマリオファミリーと取引をする裏社会の組織である魘もそのルールには則る必要があり、そして則る以上、クマールさんは確証が無ければ例え疑わしいと思っていたとしてもアルマリオの妻である僕に手を出すことはできない。妻とはアルマリオの財産であるが故に。
とどのつまり、僕が安全にこの場に居続ける為にも『アルマリオの妻のひとり』という役は剥がすわけにはいかなかった。
「なるほど。お初にお目に掛ります。私、旦那様と取引をさせていただいておりますクマールと申します。こちらには度々お邪魔させていただいてますのでまた会うこともありましょう。どうぞお見知りおきを」
笑みを浮かべるだけの僕へ、クマールさんは胸に手を当て紳士的に礼を尽くす。かと思えばずいっとテーブル越しに身を乗り出してきた。
やはりと言うべきか、表情こそ笑顔であるもののその目の奥は底知れぬ闇色。カフェで目の当たりにした姿の見えない『あの方』へと狂愛を捧げる姿が思い起こされて僅かに怖気づくも、なんとか微笑を継続させる。
「ちなみに旦那様とはどちらでお知り合いに?いつから?獣人の方ですよね?ご出身はどちらで?肌の色から察するにロシェではなさそうですが」
答えを返すことのない取引相手の妻へ、矢継ぎ早に質問を投げかけるクマールさん。僕の表情の機微の一切を見逃さないようと言わんばかりの目線に、至近距離で顔を覗き込まれているような不快感を覚える。
息を呑みそうになるのを堪え、なんとか表情を動かさないようにしながらチラ、とアルマリオへ問うような視線を投げる。やり取りを黙って眺めていたアルマリオは、僕の救難信号も含む視線にニンマリしながらも心得たとばかりに手を振った。
「おいクマール。珍しいじゃねェか、俺の女に興味を持つなんてよ。悪ィがコイツは今一番のお気に入りだ、いくらお前でもあげられねェぞ」
「滅相も無い!とんだ失礼を。綺麗な方だったのでついつい……ただ」
パッと両手を上げてソファーに戻るクマールさんにほっとする。
しかし安堵も束の間、にこりと笑みを張り付け直したクマールさんにひたりと見据えられ、胸の奥がひゅっと縮んだ。
「貴女、何やら酷く緊張しているようですね。……夢の中で、何度か見た気がする反応だ」
呼吸の仕方を一瞬忘れる。
夢、というのが何のことを指しているのか。それに思考を巡らす余裕を持てないほどに、黒い目に追い詰められる。
「追い詰められた者が見せる、必死に逃げ場を探す目。……どうしましたか?何か私に、気になることでも?」
「───、」
声を出せば終わる。そう分かっていても、喉が勝手に震えた。
朗らかに微笑みながらも、確信を持って僕を追うその目。逸らせば食われると本能が告げて目を外すことが出来ない。
内面すらも暴こうとするそれに恐怖を覚え、体が強張り───
「おい、クマール。俺の女と見つめ合うな」
面倒くさそうに振られた大きな手に遮られ、執拗に自分を追う目線が途切れる。
は、と小さく息を吐く。ドッドッと動いていない心臓が早鐘を打つように揺れるのを感じながら呼吸を再開すれば、アルマリオの妨害に、クマールさんは興が削げたと言わんばかりの表情を浮かべていた。
「本気で惚れたとか言うんじゃねェだろうな」
「まさか!私が探しているものに似ている気がしたのですが……勘違いだったようです。すみません」
アルマリオの言葉にあははと苦笑いで頭を掻いたクマールさんを見て、今度こそ窮地を逃れたと内心で大きなため息を吐く。
怖かった、まるで頭の中を除かれてるような気分だった。このモンスターの得体の知れなさは何なんだ?ことあるごとに『夢』という単語を口にするが、一体何を示唆しているのか。
まさか、本当に僕の夢を覗き見ているとでも───
「それに、私の心は一部の隙も無くあの方のものです」
腹の底から沸き上がる恐怖から目を逸らすように思考の沼に沈みかけていた意識が、その一言で強制的に現実に引き戻される。
重すぎる感情を乗せたその言葉は僕とアルマリオの耳朶を打ち、彼が抱える愛を理解せよと言わんばかりに本能を不気味に揺らした。
クマールさんの表情は何一つ変わっていない。相変わらず何を考えているか分からない笑顔を浮かべている。
だが、纏う雰囲気が、発する圧が、従える空気が、目が、どこまでも狂っている。───狂っている。
「決して、誤解無きよう。お願いします」
「……そりゃ感心。随分深い純愛なことで」
こびりつく汚泥のような愛の圧に、さしものアルマリオも僅かに言葉が遅れた。
まともな精神のモンスターならば抱きようもない信仰じみた愛に気押される。
ともすれば、この男は自分の愛の為であれば笑顔でモンスターを殺すことも厭わない。そんな恐怖を植え付けられた。
意識が曖昧な奥様方ですら怯えた様に身を震わす中、しかし流石は裏社会の頂点であるアルマリオはすぐに精神を立て直す。酷薄な笑みを浮かべたかと思えば、突然僕の腕を思いきり引っ張った。
咄嗟のことで碌に踏ん張ることもできずソファーに肘掛けに強かに膝をぶつけ、痛みに怯んだ僕が飛び込んだ先はスーツに包まれた固い腿の上。
「……っ!!っ!!」
幼い子供のようにアルマリオの足の上に座らされたと理解すると同時に、腰に太い腕が回される。だらしなくシャツを寛げた胸元に密着させられ、ぶわわわっ!!と全身に鳥肌が立った。
「まァ、純愛って話ならウチも負けちゃいねェがなァ。なァ?」
「見せつけてくれますねぇ」
睦言でも紡ぐように耳元で囁くアルマリオをギッッ!!と睨みつける。しかしその睨みはド変態にとってはただのご褒美であったようで興奮したようにゾクゾクと身を震わせられるし、傍から見ているクマールさんには痛みに涙目であったこともあって甘えた視線に見えているらしい。威圧感を消してあらまあ、と微笑ましげに眺められる。
とんでもない屈辱と不快感に笑みの維持が難しくなってきた。一先ず怒りを鎮める為クマールさんに見えないように思いっきりアルマリオのわき腹を摘まみ捩じる。コイツあとでもう一回床に沈めてやる……っ!!
「……っ。……なんせ、コイツは家業のカッカオ栽培すら放り投げて俺の元に嫁いできたんだぜ?生まれ育った街を捨ててまで俺についてくるなんざ、純愛以外の何でもねェだろ?」
「……カッカオ栽培?」
悩まし気な吐息を漏らしながらも会話に戻るアルマリオの言葉に、ピクリとクマールさんの眉が上がる。それに気を良くしたアルマリオは僕の太ももを撫でながら愉快そうに続けた。
「そうだ。どこだったか……あァそうそう、ロシェ北東部の砂漠に面した街で拾ったんだ。カッカオ栽培が有名な街なんだが知ってるか?クマール」
「……ええ、勿論存じておりますとも」
「そうか、それじゃァ話は早い……悪ィが例の計画、降りさせてもらうわ」
「───ッ!」
新しく増えた妻の故郷が何を指すのか、クマールさんはすぐさま理解したのだろう。
バンッ!と黒檀のテーブルを叩いて立ち上がる。目に明確に怒りを宿した彼は、その目で殺さんばかりにアルマリオを射抜いた。
ここに来るまで一度たりとも見せたことのない怒りを露わにする姿に、しかしアルマリオは余裕の態度を崩すことなくソファーの背もたれに背を預けた。
「悪いとは思ってるぜ?だが俺ァ『愛妻家』でなァ……可愛い可愛い妻に故郷を滅ぼすのは止めてと言われたら従わざるを得ねェんだわ。ってな訳で他を当たってくれや」
「……一体、我々がどれだけそちらに融通を効かせていたと思ってるんです?悪いの一言で済ませられる話では無いでしょう」
「済ませられる話だ。お前が話を持ち掛けてきたとき、俺ァ『やる』とは言ってねェからなァ。『調べとく』って言っただけだぜ?なんせ、大好物のチョコレートを守るためにカッカオの名産地は何が何でも守る必要があるからよォ」
そんなとぼけた言葉に、クマールさんは苦虫を百匹噛み潰したような顔をした。
こんな手酷く裏切ればどっちにしろ報復されるのでは、と戦々恐々と成り行きを見守っていると、アルマリオは奥様ーズのひとりから何やら丸められた書状のようなものを受け取った。
「これを忘れたとは言わせねェぜ?クマール」
「それは……」
留め紐を外し、羊皮紙のような紙を静かに広げたアルマリオにクマールさんは目を瞠る。クマールさんの意識が僕から外れたことを良いことにチラリと書状を覗き見れば、どうやら契約に関わる文言が記載されているようであった。
「『本契約に基ずく取引は、相互の利益を前提とし、いずれか一方に重大な損失が生じると判断された場合、当該行為の履行義務は発生しない』───俺とお前で交わした契約だ」
アルマリオはクマールさんを見据えたままスーツの胸ポケットからタバコを取り出し咥え、僕に重たいライターを手渡してくる。
まさか僕に火を付けろと……?魔法で燃やしたろうかこの山羊。
イラッとするが、いやいや役に徹するべしと諸々を飲み込んで慣れないライターをこねくり回す。苦心しながらもなんとかタバコに火を灯すと、アルマリオは僕を乗せた足とは逆の足に肘を付いた。
「ロシェは俺のシマだ。カッカオの流通も、商業組合も、運送ルートも全てウチの収益に直結してる。しかもカッカオはお前らがご執心の親善大使サマのお陰で今後莫大な利益が見込まれている。そこを潰すってのはつまり───」
紫煙をくゆらせ、獰猛に口の端を吊り上げた裏社会の頂点。
つう、と書状の内容を指でなぞり、まさかの事態に顔を強張らせる悪魔に向かって酷薄に言い放った。
「俺らアルマリオファミリーの重大な損失、だよなァ?」
己の群れに仇成す者は許さない。
そう告げる男の目は愉悦に歪みこそすれ───その奥には、群れを害した者への決して消えることのない怒りの炎が燃えていた。




