微睡む
「ふんふ~ん♪どんな髪型に仕上げようかな~」
耳元で実に楽しそうな鼻歌が聴こえ、男は既に諦めの境地で中庭に持ち出された椅子の背凭れに深々と身を任せた。
弟子がこの状態になると当人が目的を果たすまで好きに弄り倒されるのが常だ。
面倒なら拒否すれば済む話なのだが、どういう訳だかいつものあの目―――何かにジャレつく寸前の猫の仔のような目をされるとダメ出しをする気にもなれず、結局好きなようにさせてしまう。
「お客様ー、ご希望のヘアスタイルはございますかー?ふっふっふー♪明日は晴れ舞台だもんねー。『スタイリッシュかつエレガントに』でいかがでしょー」
だが言っている事の約半分は意味不明。
「…好きにしろ」
「うんっ♪」
ネイロは嬉々としてまだ滴の残る灰色の髪に指を差し入れ、繊細な手付きで何度も丁寧に梳けずり始めた。
余分な水気を布に吸わせながら櫛を当て、時折ふりほぐしては空気を含ませる動作を幾度も繰り返す。
『~♪~』
相変わらず耳元で続く鼻歌。
さらさらと髪を掻き分ける指先が時折耳や地肌に撫でるように触れ、日の当たる中庭で椅子に凭れて目を閉じていると心地好くてついそのままうっかり眠ってしまいかねない。
(…まずい…これは…気を抜くと本気で……寝…)
常日頃から他人に対して気安いとは言い難い男が、手足を伸ばしていつになく気持ち良さそうに目蓋を下ろして寛ぐその様子に、ネイロは自分がまるで大きな獣の毛繕いをしているような気分になる。
日常的に同じ部屋で寝起きしていても、大抵いつも自分の方が早く寝てグリフォンの方が早起きというパターンが多く、こんな風に全身の力を抜いてリラックスした状態の相方は滅多にお目に掛かれない。
(うわ…、珍しーい…!)
ネイロがムクムクと沸き上がる悪戯心を理性を総動員して抑え込み、どうにか髪の手入れに集中するのにかなりの忍耐力を要したのはのはちょっとした秘密だ。
(イタズラしたーい!!)
「終わったよ、グリフー」
春の陽射しの下でうとうとと浅い眠りの淵を漂っていた男は、陽向に吹く風の音のような声で不意に現へと引き戻された。
眠っていたのはほんの一瞬に感じられたが、例によって複雑に編み込まれた髪型が既に完成している事から、それなりの時間が経過しているものと知れる。
「…しまった。眠るつもりは無かったんだが…」
「今回はねー、全体的に地肌に沿って細かく編み込んでみたの。こう…サイドの細いみつあみは後ろに流してね―――」
娘が得意気に語る話の内容からおよその髪型は予想が出来たが、顔の前にはらりと落ちてきた一房を摘まみ上げて男は軽く目を見張った。
細く編み上げられた灰色の房には青を基色に数種類の色糸が共に編み込まれ、華やかな印象に仕上げられている。
(――今回はまた…おそろしく手間を掛けたな)
そして摘まみ上げた髪を何気無く顔の近くまで持って来た瞬間、ふわりと立ち上った香りに再度驚かされる。
「これは…、お前の香油か?」
「気が付いたー?ほら、今日はお揃いだよ」
肩越しに後ろから顔を覗き込まれ、はらりとこぼれた茶色の髪からも同じ甘い果実のような香りが漂う。
「良かったのか?随分大事にしていたと思ったが…」
「いいのいいの。いずれ無くなるものなんだし。ほーら良い匂いでしょ?」
ニコニコと無邪気に身体を密着させてくる兎に少しばかり悪戯心が沸き上がった男は、目の前に垂れ下がった一房を指に絡め取るとごく自然な仕草で自らの唇に押し当てた。
「……良い香りだ」
「…………っ!…そっ、…はっ―――…!!」
(それ反則―――!!アウトォォォ―――!!)
真っ赤になってはくはくと口を開け閉めするネイロを見て少しだけ満足した男はいつになく愉快な気分で目を細め、茶色い髪に絡めた指をほどくとその頭に手を伸ばした。
「…まだ湿っているな」
「……すぐに…、乾く、から、大丈夫っ……」
「洗い髪をそのままにしておくと風邪をひく。――――交替だ、ここに座れ」
男はすいと立ち上がると、今まで自分が座っていた椅子を身振りで示して弟子の顔を覗き込んだ。
「人の身体を散々好き放題に弄んでおいて、自分さえ満足したらそれで終いか?」
「うっ…、その言われ様はちょっと…」
まるで女が情夫を詰るようなその言い種に、単なる深読みのし過ぎかそれとも己の耳が腐っているのかと本気で悩んで、結局ネイロは言われるままその場に腰を下ろした。
すると直後に背後から珍しくも男がくつくつと声を押し殺して笑う気配が伝わり、自分がいいようにあしらわれた事に気付く。
「…寝てる間に髪の毛むしってやろうかな」
「それは遠慮しよう。この商売には『見た目も大事』だそうだからな」
しれっと返された台詞は常日頃ネイロがグリフォンに説いているものだ。
いくら素材が良くても単なる無精で伸ばし放題になっているのと、きちんと手入れが成され尚且つ他人に与える印象を考慮して整えた髪では天地の差があるのだ。
「純真な乙女をからかう男には天罰が下れば良いと思う」
「―――さてな、俺はその純真な乙女とやらに何度も裸に剥かれた覚えがあるんだが…」
「くっ…!反す言葉が見付からないっ…」
ははは、と男が今度は声を上げて笑った。
むくれてそっぽを向いていたネイロが見る事は無かったが、それは年相応の青年らしい屈託の無い笑顔で、いつもの鉄面皮からは想像も出来ないほど柔らかな表情であった。
とにもかくにも偶然この場面を目撃した座長代理が、思わず明日の天気を疑う程度には珍しい出来事だったのは間違いない。
「んまァァ――――!!明日は空から手斧が降るんじゃないかしらっ!!」




