吟遊詩人は見(られ)た!
「――――嘘…」
信じられない、というその呟きはマチルダの口中で誰の耳に届く事もなく消え失せた。
久しぶりの自由時間を街の散策に費やして戻り、仮の宿に割り振られた自室に向かう途中でマチルダはふと中庭に居る二人組が視界に入った。
「――グリフォン」
数年前にもほんの一時期《暁の女神》一座の客分として留まっていたことがある男。
そして何となくその場の流れで男女の関係に至り、至極あっさりと縁が切れた、数いる情夫のうちの一人。
―――顔と身体はまあまあ。
自分から女に媚びない態度も、実際に男を独占してみるとそれなりに気分が良かった。
だが、それだけだ。
思いがけない再会にも驚いたが、男の後ろに控えていた娘を弟子だとベロニカに紹介された時はそれ以上に驚いた。
何故ならその男に他人の世話を焼く甲斐性があるとはマチルダにはとても信じられなかったからだ。
かつての男は基本的に他人に対する関心が薄く、仕事以外の事で自ら積極的に関わりを持とうとする事がほとんど無かった。
それはたとえ情人が相手であっても同様で、必要以上に馴れ合う事を好まず、お義理にも愛想笑いひとつ浮かべて見せた事すら無い有り様―――。
だがそれでも以前より数段風采を上げ若返ったかのような姿で目の前に現れた男を見て、俄然素通りするつもりもなくなったマチルダが女の武器を駆使してあれこれ誘いをかけてはみたものの、依然として男は愛想笑いはおろか眉一つも動かしもしない。
(何よ…中身は朴念仁のままなんじゃない…)
自分の容色に絶対の自信があるマチルダにしてみれば、男の反応はそうとでも思わなければとても納得がゆくものでは無かった。
それが。
(どういう事よ……)
中庭で会話のやり取りをしている師弟の親密な様子や娘を見守る男の熱のこもった視線に、マチルダは少なからぬ衝撃を覚えずにはいられなかった。
(何よ…、あの顔――…。一度だってあんな表情あたしに向けた事無いじゃない…!あんな風に笑うなんて―――)
たまたま昨日再会するまで思い出しもしなかった相手の事だとしても、やはり面白くは無い。
「……ふうん。でも…あれならいいかも…」
モヤモヤする気分に一先ず蓋をしたマチルダは、何事かを思い付いたように紅唇を笑みの形に歪めた。
*
――――その夜。
男は広間での食事もそこそこに、適当な理由を口にして早々と一人で自室に引きこもった。
昼間弟子に身形を好きなように弄り倒されてからというもの、周囲から浴びせかけられる視線がやたらと粘り気を帯び始め、余りのうっとおしさに耐えきれなくなって逃げ出したのだ。
男子禁制の女の園はけして清らかな乙女の集団という意味では無く、世間一般の常識と照らし合わせても、流民の女達は『家』や『世間体』といった柵が少ない分むしろ“性”に関してはかなり開放的だ。
つまり男の現在の状況は雌狼の群れに放り込まれた羊も同じ。
ただ、今更貞操を気にするような身では無いにしろ、だからと言っておとなしく喰われてやらねばならない理由もどこにも無いはずだと男は思う。
この一年、男は拾った子供と行動を共にするようになってからも、意図して自分の身に付いた習慣を変えるような事はなかった。
来る者は拒まず、去る者は追わず。
だがいつ頃からか、隣にいる幼げな娘の反応を窺うようになっている自分にふと気付いて、何とも言えぬ奇妙な気分になった。
あれはいつも呆れたような表情で笑う。
(……仕方ないひとだね。そのうち背中をグッサリやられても知らないよ)
自分が行きずりの女と拗れる度、咎めはしても“止めろ”とは一度も言わない娘。
言われたところで男が身を慎んだかどうかは怪しいものだが。
(―――いったい俺は、あいつに何を言わせたいのか…)
だいたいネイロが口煩くこちらの行動に干渉して来るような子供であれば、とうの昔に放り出しているのは間違いない。
男が気紛れで自分勝手な性分であるのは今更な事実で、それを今後も誰の為であれ変える事は無いだろう。
――――要するにろくでなしだ。
寝台の上に寝転がりシャツの襟元を緩めてすっかり寛いだ格好になった男は、怠惰な仕草で近くに立て掛けてあったギタールを取り上げると、呼吸をするほどの自然さで思い付くままの音色を奏で始めた。
演奏に没頭すると周りが見えなくなるのはいつもの事だが、屋外で野宿をしている場合と違ってすっかり気が緩んでいた男は人の気配がすぐ間近に迫っても気にも留めずに音を奏で続け―――ごく自然な動作で近付いて来たその相手にやんわりと押し倒された。
「――――、………………マチルダ…?」
目の前にある真っ赤な紅で縁取られた唇から、クスリと笑みが溢れ落ちる。
「……何をしてる」
「あら、見て分かんない?夜這いよ。―――夜・這・い。グリフォンたら折角再会出来たのにつれないんだもの」
「悪いが今はそれほど不自由していない」
「…でも物足りないんじゃないの?あんなお子様が相手じゃねえ」
「――――――…」
男は一瞬何を言われているのか分からなかった。
(誰が、何の、『相手』だと?)
「あんな青臭い小娘を連れ歩くぐらいなら、あたしと組まないグリフォン?あの子はあの竪琴の腕前があればこれからだってこの一座でも充分やっていけるし、あなたの今後の相方をあたしが務めれば何もかも丸く収まるじゃない」
まるでそれが名案だと言わんばかりのマチルダのその口振りに、男は見えない毛並みを逆撫でされたような不快感を感じて僅かに眉をしかめた。
「……ねぇ?」
大抵の男であればすんなり見惚れるであろう女の蠱惑的な微笑も、劣情を煽るように然り気無く押しつけられた匂やかな肢体も、今の男の目にはただ煩わしいだけのものとしか映らない。
「…あたしならきっとグリフォンを満足させてあげられるし―――それに…、あの子より見た目的に釣り合いが取れると思うけど?」
「――――」
なるほど、と男は思った。
(“見た目”か……)
要するにこの女は自分と同類だと。
――――要は、相手は誰でも良いのだ。
自分の欲求を満たす為に好みの相手であれば、誰でも。
たまたま昔の情人が目の前に現れて、気紛れを起こしただけの女。
同病相憐れむといった感傷から、鉄面皮を誇る男の口の端に浮かんだ嘲笑を女がどう受け止めたかは知らないが、女が満足げにクスリと笑って更に顔を寄せ肩に手をかけたところで、再び部屋の扉がカチャリと音を立てた。
「…………………お邪魔しました?」
弟子だった。
男とは元々相部屋なのだから当たり前だ。
「―――ネ…」
そして我に返った男が何かを言うより先に、ネイロはうんざりとした溜め息を落とし、一言も何も言わず後ろ手でパタリと扉を閉めた。
「…待て、これは違う―――誤解だっ…」
そのあっさり閉じられた扉に向かって男の口から放たれた言葉は、浮気現場を妻に見られた亭主のような、実に説得力の欠片も無い台詞だった。




