水も滴る…?
「……あんたねぇ…。もーちょっと手加減しなさいよ」
「…何の事だ」
一通りの稽古に終了の合図が出され、舞台の袖から手招きで呼び寄せられた男は、呆れ顔の座長代理に小声で苦情を申し立てられていた。
「『何の事だ』じゃないわよー。ウチの女優全員使い物にならなくする気なのアンタ!昼間っから桃色な雰囲気モロ出しでおかしな空気に持ってかないでちょーだい!」
「………………そこまでだったか?」
「周りを見てみなさいよー!!」
言われて男が周囲の様子に目を向ければ、あちこちに散らばる女優達は皆一様に目許を赤らめモジモジと落ち着かない仕草で佇んでいる。
平気な顔をしているのは女形と男の弟子一人だけ。
昨日の音合わせの時点では演奏の方に重点を置いていたため、ここまであからさまな反応は出ていなかった。
「…アナタは平気そうね」
話を振られた楽士の弟子は既に悟りを開いた尼僧の境地で一言―――――。
「アレはありがたいお経か何かと思って聴いて下さい」
この男の歌声にいちいちヤられていては、相方など到底務まりはしないのだ。
「なんてゆーか…、『この師にしてこの弟子あり』って感じよねー…」
その後も細かな打ち合わせや演出のタイミング等の調整が何度か繰り返されて、この日の稽古は午後の早目の時刻で終了。
団員達には夕刻までの自由時間が与えられた。
*
《暁の女神》一座が今回の興業のために首都での拠点に選んだ館は、古いことに目を瞑ればかなりの敷地面積を誇る優良物件だ。
部屋数が多く設備もそれなりに整っているあたり、かつての持ち主は中々の資産家であったと思われる。
「お風呂があるの―――!?」
館の裏手にある厨房スペースでサヤマメの筋を取りながら頓狂な声を上げたのは、『働かざる者食うべからず』を実践中の居候の片割れ、ネイロ。
座長のチルチェットと裏方担当の女子二人に混じり、夕食の下拵えの真っ最中だ。
「あるにはあるが手間が掛かるんでまだ誰も使っちゃいないよ。都会じゃあ薪代だってバカにならないからね。全員が湯を使うとなったらそれこそ一日じゃ終わりゃしないさ」
チルチェットは厨房脇にある扉をクイと顎で示して見せた。
どうやらそちらが風呂場であるらしい。
「う、それもそうかー…」
元の世界でも水が貴重な地域では風呂はかなりの贅沢だったとネイロ自身記憶している。
――――――だがしかし。
日本生まれ日本育ちのネイロにとってたっぷりお湯を張ったお風呂は何物にも替えがたい誘惑。
『風呂』に対する執着だけなら生粋の日本人にも引けは取らないと断言出来る。
(せっかくの自由時間だし…よしっ!)
「チルチェットさん、薪代払うのでお風呂使わせて下さい!」
「そりゃ構わないが…」
「わーい!やったぁ――久し振りのちゃんとしたお風呂だ!」
ただし、そこからが重労働だった。
井戸と厨房を何度も往復して水瓶をいっぱいにしてから、水を大鍋に移し代えてカマドに火を入れる。
バスタブが適温の湯で満たされるまで延々と湯沸かしを繰り返して、ついでに湯桶にも濯ぎ用の湯を用意。
全ての準備が整う頃にはネイロはすっかり汗だくになってしまっていた。
『はふぅ――――いーきもちー…』
浴槽にたっぷりと張られた湯の中で手足を伸ばしてゆったりと肩まで浸かると、強張った身体がジンとほぐれてゆく気がする。
(――――天国だ…)
この一年風呂といっても盥での行水程度のものしかお目に掛かっていなかっただけに、熱い湯に全身を沈める感覚は本当に久し振りだった。
惜しむらくは石鹸が“超”の付く高級品で一般人にはとても手が出せない事だ。
じっくりと湯に浸かりながら髪も丹念にときほぐし湯桶の湯をざぶりと頭からかぶる。
『うう…シャンプーが恋しいよぅ…。でも髪の汚れはお湯で八割くらいは落ちるって何かで読んだ事あるしな…。ま、いっかー』
無い物ねだりを始めたらきりがない。
湯から上がった後は手早く着替えを済ませて今度は後片付け。
勝手口の脇に掘られた排水溝に使い終った湯を流して浴槽をざっと拭い、木製の湯桶を逆さまにして風通しの良い場所に干す―――と、そこまでやってからネイロはふと思い出した。
(…そういえば、お湯を沸かすの張り切り過ぎて大鍋にまだかなりの量が残ってるんだっけ。……ついでだもんね)
「―――あ、髪洗い終わった?じゃあこっちの椅子に腰掛けて」
つい先程まで『客人』の片割れの娘が使用していた風呂場の扉から、灰色の洗い髪に滴を滴らせた上半身裸の大きな男がうっそりと姿を現した途端、厨房で黙々と調理の下拵えをこなしていた女達の手が一旦ピタリと止まった。
しかも年若い娘二人組の方は何かで喉を詰まらせたような表情になり、全身を真っ赤に染めて忙しなく視線を泳がせ始める。
「せめて肌着の一枚くらい身に付けてから出て来とくれ。ここは女の園だよ」
「………そういうものか?」
「始末に負えない男だねぇ…」
「ごめんなさい!すぐに見えないところに持って行きます!」
やれやれと呆れた様子のチルチェットに首を傾げただけの男は、勝手口で待ち構えていた弟子に引きずられるようにして他人の目に触れない場所まで連れて行かれた。
――――それにしても、とチルチェットは再度呆れのこもった溜め息を吐き出した。
(よくよく女性問題の多そうな男だとは思っちゃいたが…。どちらかと言えば灰汁の強い人間なだけに、ごく一部の男慣れした女以外にはとっつき難い相手だったはずなんだがねぇ―――?)
愛想が無いのは相変わらずでも、あの視線が合った相手を片っ端から萎縮させて回る鋭い目付きがかなり改善されている。
―――おかげで若い娘達が皆男の妙な色香にやられ、女の園にいつになく浮わついた空気が漂い始める始末。
「やれやれ…、これだから男がいると面倒なのさ」




