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ある日彼がいなくなったことに気づいた。くだらない喧嘩をしたっきり、姿を見ていない。家にも帰らず、どこをほっつき歩いているのだと探し回るが、結局イグニスをみつけることは叶わなかった。僕は激しく後悔した。いなくなると分かっていればもっと優しくできたのに。 引き止めて、僕が愚かだったと謝ることだってできたはずなのに……。そう、この一年、ずっと。僕は謝罪のタイミングを失っていた。
「……きろ、……きろ……よ、……ナ」
「うぅん?」
なにかに肩をゆさゆさと揺すられる感覚で意識が浮上していく。体は半身浴にでも浸っているようにぬくい。あまりに眠くてそのまま二度寝しようとした。
「……きろ! 起きろよ、セレーヌ!」
「え」
ところが呼ばれた声に目、というか脳が覚めた。僕の眼前には、「気がついたか」と安心し柔和に笑いかけるイグニスの姿。
最後に見たときと変わらぬ様子の、普段は鋭い赤い目。緩めた目元の、ハっとするほど美しい彫りの深い顔立ちが健在だった。黒の直毛をエアリーなシャープショートにワックスで仕上げた髪型も懐かしい。古の彫刻のようなたくましい筋肉のついた腕が僕の体にかかっていた布団を遠ざける。
「うなされていたようだな。大丈夫か?」
「え……夢?」
「まだ夢の中なのか? おはよう、ねぼすけ。もう正午だぞ」
ふと僕は寝室の壁にかかっていた日めくりカレンダーに目を向ける。イグニスに起こされて突然始まった朝の日付は去年の12月12日だった。時間が巻き戻っているのでもなければありえない事態だ。
「どうした?」
僕は無意識にイグニスのシャツを握りしめていた。夢の中か現実か、まだ判別がつかないけれど、僕はこの期に及んで言っていない言葉がある。
——ずっと引っかかっていた、心残りが。
僕は静かに頭を下げた。
「ごめんね……イグニス。僕がばかだった」
イグニスの動きが止まった。彼はこちらをまじまじとみつめている。
「は? 突然なんのことだ」
「だから、……僕がだめだったから君は出ていったんだろ」
「いなくなる? って、何の話だ? 大体お前がだめって……俺がそんなこと思うわけないだろ」
心が叫びだしそう。この労りこそ僕が求めていたイグニスだ。優しい彼は顔を困らせたように眉根を寄せてこちらの反応をうかがっている。
ふたりの貸家には家具が充実していた。イグニスが育てていた小鉢のサボテンなんかの観葉植物が窓辺に置かれていて、ベッド脇のチェストの隣には彼の愛剣が立てかけられている。手入れの行き届いた武器の反対のクローゼットには2人分の衣服が収納されていた。続くリビングにはマホガニー材のテーブルセットが中央に置かれ、僕らのこぢんまりとした家が、そこにあった。
涙を隠して僕は待った。イグニスは相変わらず話の内容がわからないと頭を悩ませてから、僕の頬に手を当てた。
「どうしたどうした。弱ってんのか? ア?」
「ちょっと! やめてよ!」
「フフ……慰めてやろうか」
そう言って彼は僕の頬をもにもにと弄び始めた。男のほっぺたなんて揉んでも楽しくもないだろうにイグニスはなぜかごきげんだ。
「面白がらないでよ、僕はまじめに……っ!」
「あーあ、お前は意固地なんだから。もう少し楽にしろ。そんなんじゃ息が詰まるだろ」
息が詰まる、そんなの君がいないせいでいつものことだった。わかりきってるよと返すつもりだったのに、我慢していた涙腺がうるっときてしまった。鼻腔がつんとして口の中に塩気のある味が広がる。イグニスの優しい掌が僕の頭を撫でる度、僕の目からは涙がこぼれ落ちた。
「だって、君……なにも言わずに……」
それ以上は喉が引きつって言葉が続かなかった。
「おかしなセレーヌだな。もう仕度しないと間に合わないぞ? それともおかわりが必要か」
「……ん。平気」
「おう。セレーヌはつよい子だもんな」
白い歯をみせて笑う彼。まぶしくて敵わない彼に僕はお手上げだと思った。
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遅刻ギリギリで職場に向かうと雇い主のおばあさんにからかわれてしまった。「朝からセレーヌくんを泣かせるなんてその彼氏くんとやらは困った人ねえ」と。彼氏じゃありませんと否定したうえで、べつに照れるようなことは起こらなかったけど、大の男が泣いていたという事実を隠したくて僕は化粧室の鏡で顔を確認した。
ふわふわな蜂蜜色のゆるいウェーブを後ろでハーフアップにしている自分の姿が映り込む。緩そうな雰囲気の琥珀色の瞳はやる気に満ち溢れているが、涙袋や目元が泣いたせいで腫れぼったい。僕は手持ちの化粧品で軽くカバーすると、それからそそくさと仕事を始めた。
この薬屋レニタスは隠れた名店である。熟練のおばあさんが経営していて、王都の隅っこにあるにもかかわらず訪ねてくる人は多い。やれ腹痛を治す薬やこどもの風邪薬と日常使いする薬はもちろん、ダンジョンに向かう冒険者のポーションといった頼りになる薬もある。もちろん、一般人には手が出せない貴重な薬品も置いてあったりする。売上は上々。かつてのブラック企業など目ではない潤沢な儲け……とはいかないが、懐は十分温かかった。
薬瓶が並んだ棚を確認する。ラベルがいくつもあるが段ごとに細かく分類されているので選ぶのに困ることはない。売り切れていた瓶を倉庫から補充し、エプロンをつけて定位置に立った。
さて僕がカウンターに出るとすぐに来店を告げる鈴の音が鳴った。台の上で応答用の鈴を鳴らして待つと常連さんがいらした。
「ごめんくださ~い! セレーヌさん、おはよっ」
若者らしい間延びした挨拶で店内に入ってきたお嬢さん。彼女の黒髪のウルフヘアは小首をかしげると毛先が揺れた。
「おはよう。今日もよく来たね」
挨拶を返しながらいつものやつかと確認すると彼女は少し悩んだ様子で腕を組んだ。
常連のうちの一人はレクス王国の王立学園に通うドルシラだ。学生服のローブをまとって来店した彼女は、さっそく僕のもとまで駆けつける。くりくりとした黒目をこちらに向けて僕らは話し込んだ。
「じつは……新しい薬を試したいなと思ってて。今まで飲んでた薬が合わないのか、肌の調子が悪いんです! もう、これもやっぱり魔術科の宿題のせいかな……」
「ああ、徹夜してるんだね。どれどれ……」
僕はドルシラの不調だという鼻先を確認した。たしかに、小鼻の横に赤い炎症が起きている。黄色い膿を吹き出しかけている炎症箇所を認めて思案した。
「少し痛そうだね。抗菌薬を出しておこうか」
「助かります」
「この分だと自然に出てしまうかな。ただし触ったり間違えても自分で潰さないようにしてね。膿が出たら清潔にしておいて……」
「もー、さすがに分かってますって。セレーヌさんは心配性だな」
「そ、そうかな……?」
「ふふ。でも、ありがとうございます。セレーヌさんのおかげでうち、元気もらえるので!!」
両腕を体の前で構えるドルシラ。元気をアピールするポーズに若者らしさを感じる。
「それ、新しいアクセサリー?」
「……はい! ダンジョンでドロップしたアイテムなんです。ね、かわいいですよね~」
デザイン的に女の子がつけるアクセサリーが白蛇なのはどうなんだろう。精巧に作られてるせいかじっと見ていると少し背筋が寒くなる。左の人差し指に巻き付くように付けているのが不気味だ、なんて本音を言うわけにもいかず悪くないよとだけ伝えておいた。
「あーあ、セレーヌさんも学園に来ればいいのに。うちのOBでしょ?」
「そうだけど……さすがに何の用もないのに行くのは気恥ずかしくない?」
「そういうものですか?」
ドルシラが学校の時間が迫り出て行くと、ひっきりなしにお客様が訪れた。あれこれと注文をつける方もいれば、世間話をしたくてやってくるご近所さんまで。そうして僕は仕事を上がる夕方まで業務を続けた。
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「どうかしたんですか?」
町中でたむろする知り合いの業者さんをみつけたので声をかけた。薬屋で取り扱う品を大量購入していく、現場の作業員たちだった。
「いやなに森の祠が破壊されていてな。古い神を祀った祠だったから再建しようにも元の状態が分からなくて苦労していてな」
詳しく聞くとテーグラ山の山頂にある祠だそうでめったに人は入らないらしい。そんな場所に押し入った犯人は祠を元の形が分からぬほど全壊させたという。中になにがあったのかも分からず被害の全貌も知れないんだとか。
「それは大変ですね」と僕は同情するように返した。
「まったく不届きな輩もいたもんだよ!」、作業員の一人が憤慨している。それに他の面々も同意している。
「祟りでもあったらたまらんな」
ぽつりとつぶやかれた内容に僕も首肯した。
「おう。お前ら、儀式をとりおこなってすぐにでも修理に取り掛かるぞ!」
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お店に行ったり近所づきあいだったりと平和な日々は続いた。
それから一週間後、僕はこの夢のような世界を満喫していた。もしかしたらあの暗い現実の方が悪夢だったのかもしれない、そんなふうに思いつつあった。しかし――それまでの幸せな日々が急に不安になることがあった。
朝の挨拶をして以降、イグニスの姿をみていない。
嫌な予感がした。
そして12月19日からさらに5日後――……、また同じ頃に彼が失踪したことに気づいた。頭の中でインクの黒い文字が歪んでいってゲームオーバーという言葉を形作った。それと共に、僕の意識も途絶えたのだった。




