19 選択肢「あなたを赦します」
夕空に染まる町――12月31日の日暮れを受けながら僕は答えた。彼に何が起きたのか確かめるためにも、「うん」と誘いに乗った。オリオンとはここで別れて、僕はラブレターを握りしめて懐かしのわが家へ向かった。
彼だけの部屋しかない、ふたりきりの家。僕は適当にダイニングテーブルのチェアに腰掛けた。警戒して息をつく。
「息なんか詰めて……なにかあったのか?」
「いや、べつに……」
我ながら歯切れの悪い答えだ。案の定イグニスにバレて「俺に隠し事?」とくつくつと笑われてしまった。
「セレーヌ」
「なに?」
中腰になった彼の顔が近い。どよめく僕の心。澄み切ったイグニスの鋭い印象を与える赤目。目の奥の虹彩まではっきりと見えた。
そっと彼が僕の頬に手を当てる。
「懐かしいな。前はよくこうしていた……」
戯れのようなふれあいを、この家でしていた。よく笑い声のたえない家だったと思う。屈託のない表情で笑う彼の笑顔をもっと見ていたくて、彼に思い出のような話を打ち明けることもあった。決闘で習ったナイフも、卒業記念にもらった証書も、愛用の揃いのマグカップも、全部この家にあった。欲しいものなんかなかった。当たり前にそばにあったから、願う必要すらなかったんだ。
僕は――彼との生活が恋しかった。
「セレ……っんん!?」
「しー……。その先は、言わないで」
そっと、彼の顔を人差し指で押しのけた。戸惑う彼の表情も愛おしいが、もう僕には気安く触れられないものだ。彼の唇を見つめて、自分の唇に触れた。ほしいと思う。けれど手に入らないものだとわかっている。
ふれあえそうな距離でふれあうことが許されない僕ら。
僕には夫がいるのだ。独身の頃のようには振る舞えない。たとえノクスの執念が恐ろしくても。
体裁だけでいられればよかった。そうすればこんな風に、彼の体によりかかるようにして自分の弱さを認識せずに済んだのに。
「縁談を、断ればよかったな」
いまさら僕は打ち明けている。こんな気持ちを明かしても彼には迷惑だろう。そっと彼の胸を押しのけて涙を拭おうとした。
「それなら俺も。お前を、……っ、お前に告白すればよかった」
「え?」
「困るだろう、親友相手なのにな」
「でもな、俺はずっとお前が特別だったんだ。だからただの友人ではなく特別な親友でいられるよう心がけた。だが、特別以上だと気付かされた。お前が結婚してこの家を去ってな。いなくなられるよりそばに留め置きたかったと自分の本心に気付いた」
正直な気持ち――……? いまさらだけど好きだったと気づいた、その気持ちは。
「……っ僕だっておなじだよぉ……ひどい、イグニス。ううん、僕だってひどいや」
ああ、この恋は遅すぎた。
気持ちを理解するのが手遅れになってからなんて。居心地が良すぎて、失うまでわからないなんて。
僕らは愚かだ。キスだってできないことを理解しているのに手と手を重ねて唇をみつめてしまう。
こんなのは間違ってる。それを知っているから。
――口づけは、けしてしない。
イグニスもそれ以上踏み込まない。すり抜けられないガラス越しのような僕ら。
そこへ雷鳴。激しい物音と来客を告げるベルの音。ああ、きっと夫が乗り込んでくる。
理性では理解していた。でも離れがたい。このイグニスと別れるなんて、僕にはできそうにない。
一秒だって惜しくて、僕は彼とみつめあった。
激しい明滅、寝室から覗く窓に映った恐ろしい形相。それは人間の顔ではなく魔物のように変じていて――「イグニス、うしろ!!」、彼の命を奪おうと窓を叩き壊して強引に入室した。
降りしきる音。窓が壊れたことで吹き込む雨の匂い。
黒髪の波巻きパーマは腰より伸びていた。うねる毛髪は魔物がまとう体毛のように荒々しく逆立っている。切れ長な黒目は白目の部分まで闇に侵食され、狼のようにマズルという口元全体が突き出た部分が存在していた。犬歯がぎらりと覗く。腕はかつて魔物に変じたマルクスのように異常に発達したナリをしている。これも例の丸薬のせいだろうか。
機嫌の悪い顔で夫は憎々しげにイグニスを睨みつける。
イグニスは僕を守ろうと前にでた。その腰に剣はない。
帯剣していないイグニスはチェストの横に立てかけてあった剣をとろうとして、夫の攻撃の餌食になった。ノクスの放った爪での斬撃が彼の腕を斬りつける。無防備な腕から血しぶきがあがった。
体ごと持っていかれる攻撃。とっさに抵抗しようとしたイグニスの体が傾き、壁に激突する。
それでも夫は攻撃を止めず、血があがった腕に噛みついた。咆哮を上げてイグニスの右腕に牙を突きつける夫。彼の牙を抜こうと口の中に手をつっこむ僕。その手ごと噛みつかれた。骨が砕ける音がする。
「あァツあああああ!! ひっ、ひぎ!? うああーっ!」
僕の情けない声があがった。それでもこの暴挙を止めたくて必死に声を張った。
「もうやめて! この人を殺さないで!!」
僕が庇うと夫は理性を失ったようにますます暴れ狂った。牙を引き抜き、破壊衝動のまま、部屋中の目についた家具をぶち壊した。対でなくなったマグカップもベッドの上にあった枕も、小鉢に入ったイグニスのお気に入りのサボテンも。
それでも夫のうめき声はやまない。虚のようにじっとりとした闇が覗く暗い瞳。底知れぬおぞけが体を這い上がった。
「俺はっ、俺はな、ずっと彼がすきだった」
急に人語を解した化物。自分の心臓を握って切々と訴えかける。
「幼少期に屋敷の外で初めてみつけたあの子が!」
急になんの話だ。幼少の思い出? それが今となんの関係が………。
「病弱で屋敷からも抜けられぬ俺が目にした少女と見紛う少年。わが家の屋敷外で花を摘んでいた。俺と目が合うとその名前もしらない青い花を拾って、やさしく笑いかけてくれた。ずっと一人きりだった俺の世界に吹き込んだやわらかな風。初恋は、病に冒される少年の支えだった」
「それがどうした! 君は、だって……イグニスを……!」
「甘い菓子で釣って彼と他愛ない話をした。庭先に招いて彼の話を耳にするのが、俺はなにより楽しみだった。好きだという甘味を用意してたある日、その日からぱたりと屋敷を訪ねなくなった。ずっと、会いたかったんだ。なのにやっと王都の学園で出会った君は俺のことなど何も覚えていないようだった。あれから何十年経っても俺の心には花の棘が刺さっているというのに!」
「は……? 君、って……」
「あいつさえいなければ、そう何度思ったか。この男がセレーヌの心を奪ったのだ! だから殺す。こいつを殺して君の心を手に入れるのは俺だああああ!!」
ドカンと重低音を響かせて被雷した街路樹。燃え盛る木を横目に僕は歪んだ思いを抱くノクスと対峙した。
「帰ってこい。お前は俺のものだ。他の男に抱かれることは許さない!」
「待って、僕は……!」
「その男を殺してやる。そいつさえいなければ俺は……!」
――一目惚れだったセレーヌに拒まれることもなかったのに。
「他にはなにも望まなかった。ただ、君だけなんだ……!」
と、僕との出会いを語ったノクスは歪みながら「愛している」と囁いてその手を振り上げた。僕の体がふらりと倒れる。衝撃に昏倒しているとイグニスに近づくノクス。
喉笛に手をかけて彼の体を持ち上げた。
瓦礫の上、彼の体に向かって手を伸ばす。しっちゃかめっちゃかな室内が妙に現実離れしてみえた。
「やめて、この人を殺さないで。僕は戻りますから、あなたのもとに」
泣く泣く宣言した。それでもイグニスの苦しそうなうめき声は止まない。
「だから彼を解放して……お願いします」
魔物へと変貌した夫からイグニスを守ろうと願い出る。
「僕は「あなたを赦します」から!!」
雨粒が頬に伝った。いや違う。これは僕の涙だ。雷雨が降りしきる中、鋭い鈎爪で背中を刺されるイグニス。胸から背中にかけて風穴がぽっかり空いた。手を離される彼の体。倒れたまま動かないイグニス――……。
夫が嘲笑いながら僕の体を捕まえる。
「いや、いや……いやあああああああ!!」
僕は夫だった魔物に囚われながら意識を失った。
足元の亡骸はどんなに見つめても同じ温度でみつめ返してくることはなかった。
No.07 バッドエンド 『過去からの刺客』
手放すような選択さえしなければ。今度こそ彼を守りたかったのに……。




