18
「いいよ、あの人も困るだろうし。僕はその、あの人のものだから」
「そうか。わかった、なにかあれば呼べよ」
僕は引っ込められる手を名残惜しく思いながらみつめた。
「すまないが俺は残りの仕事がある。セレーヌを頼んでもいいか」
任されたオリオンはどんと胸を叩いた。
「方舟に乗ったつもりで任せてくださいよ、っと!」
「……いくらなんでもデカすぎないか? 自信の現れが逆に不安……?」
「ちょっとオリオン! 僕の脇をくすぐら……あは、やめ……あはははは!」
ぶつぶつつぶやいていたイグニス。職務に忠実な裏付けであるように仕事に戻るためふざけるオリオンに僕を託していった。
颯爽と駆け出した背中を見守る。すらっと伸びた背中には彼の性格が顕れているようだ。
僕の横顔を眺めていたオリオンがふいに口にした。
「……僕てっきり先輩は、イグニス先輩のことが好きなんだと思ってました」
ほんとうは心に生じた動揺を隠して、まいったな、と答える。
「好きだよ、今だって」
「は……はぁぁあああああ!? ちょ、それどういう、え、待って!? 詳しく教えて――……!!」
「なーんて、なんでもない。ただの冗談だよ」
「先輩、待って……走らないでっっっ、待……!!」
焦る後輩を無視して僕は走り出す。
そう、ほんの冗談。
僕は宵の明星が上がる藍色の帷が降りつつある空を眺めてほのかに笑った。周囲に人気はなく、僕を追うオリオンからも距離が開いている。
「怖いんだ。イグニスに告げたら突き放されそうな、このきもちが」
だから、口からこぼれでた言葉は誰にも届くはずがないのを良いことに、自分の本音を痛感した。
――後ろ手に差し出された手。
彼の心配は分かってて拒絶した。僕のことなんかちっとも意識してくれてないのにやさしい彼。だからすこし、いじけた気持ちが湧いてしまった。拒んだ手が行く先を失って僕のポケットに収まる。
僕はオリオンを伴って、すがりたかった気持ちを振り払い、丘の上の一等地の屋敷へと帰宅したのだった。
#
――カチャリ。
玄関の鍵が緩む音がして扉が音を立てて閉まった。私室の扉を開けたままデスクチェアに座っていた僕は机から顔を引き剥がした。どうやら眠っていたらしい。気づくと机に乗せていた腕にまで赤い跡がくっきりと残っていた。
「帰って来たのか。出迎えた方がいいかな……」
オリオンに送られて帰宅した僕だが、夫は家中探してもいなかった。呼びかけても姿をみせない夫にほっとしたが、なんだか落ち着かないまま夫がいた形跡のあるキッチンあたりをうろうろさまよい、申し訳程度の菓子をつまむと私室に引き返した。
――トットット。
夫は迷いなく二階に上がってきている。僕がいるのが分かっているのだろうか。不思議に思いながら椅子を片付けて、部屋の入口に控える。階段を上がってきた夫の髪が見える。いつもは崩さないヘアスタイルが多少乱れているようだ。僕に気づくとうっとうしい前髪を後に撫でつけた。
僕の前で立ち止まる夫。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
いつにない笑顔をみせるノクス。僕は目を見開く。夫はそんな僕の様子など気にかけず、僕の腕を掴んだ。押されて私室に促され、ベッドに座らせられた。夫はその間、後ろ手に鍵を閉めていた。僕が上目遣いで夫を見上げると――夫は歯をみせて笑いかけた。
「やっとだ、これで君を心から愛することができる」
「ん? っ……はぁッ、んんん!?」
夫に腕を掴まえられたまま口づけられた。吸うように下唇を引かれて、思う存分味わわれる。
キスされたその衝撃は鈍器で殴られたようなもので、とっさに体全部で拒絶しようとした。しかし座った体勢、正面から両腕を押さえつけられたまま。そんな格好のせいで身動きが取れない。居心地悪く尻を動かして立ち上がろうとするも無駄だった。
「はぁ……んはぁ……っ」
続いてやってきた深いキス。僕の口内に侵入するノクスの舌。彼が顔を離したところでつつーっと白い糸が僕らの間で落ちた。
膝の上にはまだ唾液が留まっている。僕はノクスを睨んだまま抵抗し続ける。
「ああ、セレーヌ……可愛い、可愛いよ。そんな目をしてもお前にはもう俺しかいないんだ」
昂揚としたまま薄気味悪い言葉を吐いてノクスは一方的に僕に迫った。合意のないキスを拒むために、近づく彼の顔を躱して僕は問いかけた。
「あなたのことはきらいです。あなただって同じ気持ちでしょう。突然、なんで、」
「俺は君が好きだった! ずっとそうだ……。なのにあいつが! あいつのせいで俺はずっと!!」
俯いたかと思えば真っ黒な虚ろな目をして頭髪をかきむしるノクス。不気味な様相に僕は怯んだ。そっと腕が解放されたのをいいことに逃げ出そうと扉まで向かうが、下半身に抱きつかれた。
「あっ……」
「忘れていたのかい? 鍵はちゃんとしていただろう」
「や、……いや! やめてください、離して!」
脚を引きずられるようにしてそれから起こされてベッドに戻される。彼のたくましい腕が広げた僕の腕を押さえつけた。鼻息の荒い興奮した様子でノクスは僕の首元を舐める。
「ちゅ……ん。いい加減俺を見ろ」
「やっ……、あなたなんて!!」
否定するとかぶりつくように噛みつかれた。直後にぬるっとした舌が這う。たまらぬ不快感に目をきつく閉じた。
「そんな表情をしても可愛いだけだぞ。夫を煽るのがうまいな、お前は」
睨めつけるような視線で僕の体を観察するノクス。彼の手が服越しに僕の上半身をたどった。ゆるく確かめるような動きで。
「ひっ……いや、やめて……もうこれ以上は……」
涙が頬を伝う。しゃくりあげるような声で僕は嘆願した。それでもノクスは止めない。
決定的な手が僕に伸ばされる、その瞬間、気づけば喉から絶叫していた。
「いやあ……たすけて、イグニス。……――イグニスッ!!」
「黙れ!! あの男の名を口にするな!」
僕はぶたれた。平手で頬を、思い切り。
口の中を切ってしまうほどの強さで叩かれひどくみじめな気分に陥った。僕は声をあげたいのに痛みと苦しさで動けない。茫然自失の様子で夫の暴行をやり過ごす。
きつく唇を噛んだ。悔しさと恐怖で体は震えた。
「それでいい。これでお前は俺のもの、……ッはは、最高の気分だ」
ノクスに襲われる。
夫だとしてもこんな暴力的で理不尽な行為で僕は傷つけられるのか。
恋しい人の名を呼んでも無駄だった。僕は諦めるように涙が乾かない瞳を閉じ、て――「っ先輩!!」――え?
「なんだ今の声は!? お前まさかまたべつの男を……? くそ、どこだ、どこにいる! 何度だって殺してやるからでてこい!!」
「ボクはここだ。うおおおおおおおオオオオ!!」
不動の扉が開く、蝶番がきしみ、扉ごと倒れてきたのは岩のような巨体。咆哮を上げて突撃した何かのせいでベッドが大きく揺れた。
ノクスの脇腹めがけてタックルをしかけた張本人は眉を下げてへらりと笑った。
「セレーヌ先輩っ、無事ですかぁ?」
こんな時なのに間の抜けたゆるい微笑みに僕の口からハハッと声が漏れた。オリオンは夫の上から退くと僕に手を伸ばす。僕は彼の手を使って起き上がった。
ベッドは無事だが扉は修繕が難しいほど大破していた。粉っぽい木くずが床に散乱している。
オリオンは僕を下ろすとよろけた。その動きがスローモーションで映ろう。傾く彼の体、原因は。
「貴様ぁぁぁ、殺してやる、殺してやる、ッ!!」
刃物がローブに吸い込まれるように突き刺さった。ノクスだ。倒れていた彼はオリオンが起き上がったタイミングで腹めがけてナイフを突き出したのだ。
ローブから僕の頬まで飛び散る液体。頬のそれを拭う。ほんのり粘着質な赤が目に飛び込んできた。ぐっしょりとオリオンのローブを汚すそれはまさか。
「血……?」
ガタンッ、今度はオリオンの体が床に倒れる。ノクスは横倒しになった彼の腹を蹴って転がした。僕は止めようと間に割って飛び込む。
「退け、セレーヌ! そいつは俺とお前の邪魔だ!」
採集用のナイフをちらつかせて視線をさまよわせる。ノクスの目は完全に血走っていた。両手で握る刃物。こちらの言葉に耳を貸さず決めつける姿は普段の彼と結びつかない。こんな一面を隠していたなんて……。そもそも何が彼をここまで?
「邪魔だなんてそんな言い方……!」
「それともお前から誘惑したのか?」
「ひっ!」
「セレーヌは渡さない。彼だけは、俺のものなんだあああああ!!」
「うわ、びっくりし、わああああ!?」
出血のわりに腹を押さえるだけで痛がったそぶりのないオリオンが立ち上がる。動いた彼に反応してナイフを右腕に持ち構えて上から振り下ろした。
「ちょ、うわ、さすがにそれはジョークじゃ済まないですって」
「くだらん冗談など誰が言うものか! 貴様もセレーヌの色香に惑わされたんだな! よくもうちの伴侶を……。彼は俺だけの……っ」
「マジごめんなさい!! 、っと」
巨体を包んでいたローブからなぜかトレイがでてきた。オリオンはトレイを力強く眼の前の頭に落とした。鈍い打撃。しかしその威力は相当なもので、痛みにうめく蒼白のノクスは頭を覆って背中から倒れて意識を失った。脳震盪でも起こしているのだろうか、ぴくりとも動かない。
「無事か!? さっき刺されてたよな」
僕が血相を変えて元後輩の心配をするとオリオンはあっけらかんとした表情で体のローブをまくってみせた。腹部にはべっとりと血が――それにしては甘ったるい匂いがする。鼻を近づけて嗅いでみる。「舐めても平気ですよ」とオリオンは総毛立つことを言ってきた。他人の血を舐めるなんてオリオンは猟奇的嗜好が? 硬直して出血した部位をみつめる。
パキッ。足元の何かを踏んだ。拾って確かめる。ざらざらとした質感に少し粉っぽい。色が黒いのはもしや。
「チョコ、クッキー……? なんでこんなものが」
「それのおかげで助かりましたよ~~。いやぁ持つべきものは甘味ですね」
「はい?」
「腹のは血じゃなくて苺のジャムです。部屋が暗いからわかりにくいかもしれませんが」
「お菓子? なんで?」
オリオンは悪さがみつかった子どものように頬をポリポリとかいて説明した。
イグニスに託された手前オリオンは僕と玄関で別れたあと、裏口からこっそり侵入したそうだ。キッチンに潜伏して過ごしていると僕が来てうろうろしていたのもテーブル下で隠れて見ていたらしい。そのうちいなくなった僕を確認するが、夫が帰ってきて僕の叫び声に反応してでてきた、と。
「じゃああの形跡は夫じゃなくて、君の食い散らかし……?」
「すみません、すみません、すみません!! あんなに食べるつもりなかったのに職場の寮じゃ制限されてて、でもでも糖質不足で目の前に山盛りのお菓子がぁ……」
「ふふ、そんなに抱えて食べるつもりがない?」
「あ……」
ちゃっかり持ち帰る分まで隠していたオリオンに腹を抱えて爆笑してしまった。
「すみません。先輩の家のお菓子なのに……」
「君はあの頃と変わらないなあ……。いいんだ。あれはノクスの私物だから。そういえば寮でもよく、」
「いや、昔話なんてしてる余裕ありませんって! 急いで逃げましょう。さあ、早く」
頼もしい後輩に連れ立って、僕は屋敷を後にする。
#
「イグニス先輩の家まで到着したはいいですが……応答がありませんね?」
二人で同棲していた懐かしいわが家。どこかの家からカレーの香りがしていた。住宅街の平穏に僕は胸を撫で下ろす。
ところが玄関先のベルを鳴らしても返事がなかった。ノックをすると扉が少し開いてしまう。僕はオリオンと目を合わせた。
「開いてるんですか? 物騒ですねー先輩も」
不用心なのに、そう言って僕を連れてきたことを報告するようにオリオンが奥の通路を先導してしまった。
なぜだろう。嫌な予感がする。さっきから物音ひとつない静けさのせい、だろうか。
心臓がやけにうるさい。手汗をじっとりかいている掌をズボンで拭く。
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「イグニ……ス、?」
寝室に倒れ込むイグニスの体。降り出した雨が窓から吹き込む室内。暗がりの中、瞬間的に白く光った室内。稲光で照らされた彼の背中には、風穴が開いていた。
――イグニスが、亡くなっている?
僕は理解のつかない死体を前に動悸がしている。
そういえば、夫はおかしな言動を繰り返していた。
解放されていたのに僕より後にどこかから帰ってきた夫。
ノクスとの会話を必死に思い出す。
やけに上機嫌だった。いつにない笑顔をみせて。いきなり僕にキスを仕掛けた。
『やっとだ、これで君を心から愛することができる』
僕が睨んでキスに抵抗しても彼はこう言った。
『ああ、セレーヌ……可愛い、可愛いよ。そんな目をしてもお前にはもう俺しかいないんだ』
高揚としたまま薄気味悪い言葉を吐いて一方的に僕に襲いかかった。
決定的な手が僕に伸ばされる、その瞬間、喉から絶叫すると平手打ちされた。
口の中を切ってしまうほどの強さで叩かれひどくみじめな気分に陥った。声をあげたいのに痛みと苦しさで動けず、きつく唇を噛んだ。悔しさと恐怖で体は震えた、が。
『それでいい。これでお前は俺のもの、……ッはは、最高の気分だ』
そして救世主、オリオンの声が聞こえた時には。
「なんだ今の声は!? お前まさかまたべつの男を……? くそ、どこだ、どこにいる! 何度だって殺してやるからでてこい!!」
「あ、……ああ……ああああっ!!」
僕はうめきながら崩れ落ちた。自分の不甲斐なさに腹が立つ。
あの時には、もう手遅れだったのだ。
僕が彼の名を呼んだときには、イグニスは殺されていた。
何度もイグニスの名を呼ぶ。返事をしない骸に。背後に居たオリオンが僕を抱えて止めるも、僕は止まらない。イグニスの体に向かって腕を伸ばした。
雷雨の夜、胸に風穴。それは彼を喪失した僕の胸も同じだった。
雷が激しい轟音を立てて落ちる。意識が明滅する。僕は再び照らされた表情のないイグニスの顔をみて落涙した。はっきりと眼の前に浮かぶダイイングメッセージのような、ゲームオーバーという文字――……。
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前回の地点に戻される。郷愁すら覚える、黄昏色の街並み。
僕は真正面に立っていたイグニスを見て、彼を、見て。どうしようもない虚脱感に襲われ目尻を擦った。
「セレーヌ、おい、ボーっとしてどうした」
「あっ……ごめん、ちょっと目にごみが入っちゃって」
「あわあ!? 先輩擦らないで!」
僕の指に手をかけて止めようとするオリオンをみながらイグニスは大騒ぎな奴、とはにかんだ。
ああ、この感じ。この後はたしか。僕の大切な彼はこう言うのだ。
「家にいるんだったな、お前の夫は。心配なら俺と家に来るか?」
そういえばここがターニング・ポイントだった。今なら僕は――。




