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「ん……、ああ、またここか」
僕は現実に戻ってきていたらしい。家にあったものより上質な家具が置かれた一室で、日めくりカレンダーを見やる。日付は12月30日。傷心気味な僕だが部屋を抜けると扉の前には冷めきった食事がトレイの上に置かれていた。
僕は空腹を思い出してトレイをもって部屋に戻ろうとした。すると声がかかる。夫だ。ノクスがちょうど階下から上がってきて僕と目があった。
「いたか。5日も出てこないから倒れているのかと思ったぞ」
相変わらず、労りのない声音。僕はぎゅっと下唇を噛み締めた。
ええ、と曖昧にうなずいて戻ろうとした手を掴まれる。夫に促されて進めばダイニングテーブルの前に連れてこられた。
「冷めた食事ではなくこっちのを食べろ。お前の分も用意させる」
着座した夫にならって僕も向かいの椅子を引いた。
専属のシェフが次々に目移りするような食器皿を並べる。僕はナプキンをかけてカトラリーを手に取った。口に運ぶ、暖かい。しかし、なにかが物足りない。噛んでも味がしない食事はそこそこに紅茶のティーカップに手をかけた。
「なんだ? 口に合わなかったか」
彼との冷え切った食事もそこそこに僕は口を拭いて席を立った。夫の声を無視してベッドに顔を伏せて倒れた。
一緒にいたいのに、じれったい。
二度も起きた奇跡のせいで僕の心はわがままになってしまった。口に運ぶどんなシェフの料理より、彼とともに口にした暖かな食卓に涙腺が緩んだ。おいしかったんだ。今の味気ない豪勢な食事よりも、あの日々食べた家庭料理が。
ああ、忘れられない味わいに余計に空腹が抑えられない。いや、ほんとうに飢えているのは腹ではなく胸かもしれない。
――イグニスに会いたい。
僕はハっとして私室にかき集めた情報誌に目を移す。情報は書き換わっていた。重要な日付はまた進み、今度は8月6日に土砂災害に巻き込まれて行方不明と、あった。
不自然な点はとくにない。ひょっとするとこれが彼の天命なのかもしれない。僕がやってきたことは無駄に時間の軸をズラすようなもので本質は変わっていない可能性がある。何度やってもどれだけ運命を捻じ曲げたって、彼の影につきまとう死神の存在は薄れることなくイグニスを死の淵へと追いやる。……そう、何も意味などないのかもしれない。
自分の考えに動揺する。僕は考えを否定するように新聞を机から退けた。どさっと落ちた新聞の束、それから他の情報誌も投げ捨てた。頭をかいて座り込む。そうやって自分の苛立ちをなにかにぶつけても報われない。
静まった部屋、夫が戸を開けて入ってきた。ノクスが部屋の惨状を目の当たりにして苦言を呈する。珍しく、殊勝な様子で僕に寄り添った。背中に、まるでいつかのイグニスのように手を置いて。
「あいつのことで思い詰めるのは分かるが、君もそろそろ見切りをつけるべきじゃないか? 過去ではなく未来に目を向けなさい。その方が……あの男のためだ」
内容に胃から腹、喉を伝ってカっとした怒りが立ち上った。苛立ちがピークに達した僕は夫の手を払いのけた。
「僕には過去のことだなんて割り切れない。彼とずっと居たかった。こんな、愛のない生活なんて望んじゃいない……」
「なッ……!」
「あなたとの結婚なんて望んでいなかった」と、つい本心をぶつけてしまった。
夫は顔を伏せて足元の新聞を踏んづけた。ダンダン、と新聞へ当てつけに地団駄を踏むと、僕の肩をきつく掴んで叫ぶ。
「それは君が俺を見ないからだろう!? 俺はッ……おれはっ」
それからは大喧嘩だ。相手へ怒りをぶつけるだけの罵り合いが延々と続いた。泣き叫ぶ僕と怒り狂う夫。僕らは互いへのいたわりなんて微塵も持ち合わせず、自分の思いだけを分からせてやろうと投げ合った。一方通行の言葉の応酬。
先に疲れ切ったのは僕の方で、部屋からまた夫を締め出すとラブレターにすがった。でもそれすらみつかり、夫は今度こそ激昂した。
「あんな男との文通を……こんな、よくも俺の元に……!!」
「あっ……。いやぁああああ!! やめてよ、僕が、――それは僕のだ!!」
だが無情にもイグニスからの恋文は真っ二つに引き裂かれて、散り散りに破られてしまう。なおも追いすがる僕は、その頬を叩かれて気を失った。
#
8月1日。日めくりカレンダーを確認して、馴染んだベッドの上であることに息を吐いた。静かに、浅く呼吸をする。隣には空のベッド、僕はゆっくり脈打つ鼓動を感じながらベッドから降りた。
ひらっ……。
なにかが落ちた。ラブレターだ。だがその表示がおかしい。UIがバグっていて文字がところどころぼやけたり欠けたりして読めない。インク漏れのような痕まで滲んでいる上に、バラバラになった弊害か、いびつな形で手紙は繋がっていた。それこそ新聞のコラージュやスクラップ、あるいは布片を繋ぎ合わせたパッチワークのように。
壊れたUIで表示される故障中の文字の下には機能が使えませんとあった。
僕は洗面台の鏡をみつめた。叩かれた痕はないものの頬を押さえて泣きたい気持ちをやり過ごす。
なにも叩かなくてもいいじゃないか。まだ好きなのもしょうがないし。それでも、ノクス的には許せないことだったのだろうか。
僕はタイムループに入る前の出来事を思い返して苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「明かりも付けず、何してるんだ?」
ランプに火が入り、照明がつく。帰宅したイグニスは心配するように僕の顔を覗き込んだ。
「フッ、相変わらず綺麗な顔だな」
イグニスの手が僕の顎に触れる。
「とろけるような琥珀色の瞳。それから、甘そうなハニーブロンド。今日は結んでないんだな、珍しい」
イグニスに一つずつ指摘されて頬が熱を持った。指さすようになぞって褒めていた手を引くと、僕の髪にちゅっと口づけを落とした。
「イ……イグニスゥ!?」
動揺して洗面台にしたたかに手を打った僕。痛みでうめいているとイグニスが笑った。
「お前には早かったか」
「な、なにしてるのさ!」
「何って……元気づけ?」
「へ?」
ちゅ、今度は打って痣になりそうな左手に口づけだ。と、思いきや実際に唇を寄せていたわけではなくリップ音を近くで鳴らしただけのようだ。
ええと、これは戯れ? の一種、とか?
「で、どうした。いい子は俺に説明できるよな、セレーヌ」
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「ふーん、お前既婚者なのか」
タイムループを繰り返していることを振り返って、次に現実での僕の境遇までを説明した。弱音を吐いた僕にイグニスは考え込むような顔をした。腕を組んでうなっているイグニス。
「そうか。また俺はお前を悩ませているんだな?」
「イグニスがっていうか……その。これは僕の問題で」
「でも悩んでるよな?」
「うっ……」
痛いところを突かれた。
僕は彼から目をそらし、指先を揉む。
ごまかしている自覚はあったけど、素直には認めづらい内容だ。
イグニスが場所を移して僕を抱きしめた。背後からぎゅっと羽交い締めにされるように抱き込まれて、じれったいようなもどかしいような想いがこみ上げる。
「お前が元気ないと俺まで調子狂うな」とやさしく笑う。
髪をすかれて落ち着く。俺がそっちにいけたらいいのにとイグニスは残念そうに笑った。
「そしたら、お前を困らせるものを遠ざけるのにな」
ふたりきりのリビングで、紅茶を淹れてくれるやさしさ。手ずから伝えられる気持ちに僕は救われる。紅茶も、安心する味だった。ほっとする。
その後、夜明けにパンケーキをふたりでつまんだ。イグニスが作ったパンケーキは形も微妙に崩れていて、中身もほろほろと崩れるような食感だった。
「はは、お前みたいにはいかないな?」
「でもおいしいよ」と僕は返した。
黄色のお月さまみたいなパンケーキに涙がポロポロ出てくる。おいしい。ほんとうにおいしい。傷口が癒えるまでここにいたい。
「……うん、今はたっぷり休んどけ」
ぐしゃぐしゃに撫でられた髪の感触だって心地よかった。




