第8話 待つための椅子
翌朝、ととのひ整体所の前には、椅子が二脚あった。
昨日までは、なかった椅子である。
ひよりが入口を開けると、そのうちの一脚にグラムさんが座っていた。
りんご園で使っていたらしい、低い木の椅子だ。
「おはようございます。グラムさん」
「おう」
「今日は、腰ですか?」
「違う」
グラムさんは、もう一脚を杖の先で、とん、と叩いた。
「昨日、外で待っておったやつが二人いた。立って待つのは、腰に悪い」
「それで、椅子を?」
「りんご箱よりは座りやすい」
言いながら、グラムさんは少しだけ顔をそむけた。
「いらなければ、園へ戻す」
ひよりは椅子を見た。
古いけれど、ぐらつきはない。
座面は、長いあいだ誰かのお尻の形を受け止めてきたのだろう。木が、なめらかになっていた。
「いります」
ひよりは言った。
「とても、いります」
グラムさんは、ふん、と鼻を鳴らした。
「なら、もう一つ持ってくる」
「二つで充分ですよ」
「待つ者が三人いたら、どうする」
「……三つ、ください」
その朝、ひよりは入口の横に椅子を二脚並べた。
施術を受ける人のための長椅子ではない。
まだ中へ入らない人のための椅子だ。
上には小さな板を掛けた。
――待つ間も、休みましょう。
「これは、分かりやすいねえ」
昼前に来たミレアさんが、板を読んで言った。
今日は手首の様子を見せに来たわけではなく、両手に小さな包みを抱えている。
「これ、待ってる人に」
包みの中には、小さく切ったパンが入っていた。
「お腹が空くと、身体より先に気持ちが固くなるからね」
「でも、もらいすぎです」
「昨日、ひよりさんも休んだんでしょ?」
「はい」
「じゃあ、今日は待ってる人にも休んでもらおう」
ミレアさんは、にっこり笑った。
「パン屋は、パンを出すのが仕事」
ひよりは、しばらく包みを見た。
それから、うなずいた。
「ありがとうございます」
水差しの中から、ルゥが顔を出した。
『待ってる人、パン食べるの?』
「少しだけね」
『ひより、椅子とパンのお店になる?』
「整体所です」
『でも、いい匂いする』
「それは、そう」
午後になると、イリスさんが来た。
今日は、施術の時間より少し早かった。
入口の椅子に座り、板を眺めている。
「寒くないですか?」
ひよりが聞くと、イリスさんは首を横に振った。
そして、紙を一枚差し出した。
細い文字で、こう書いてある。
『中に入りにくい人も、いると思います。』
ひよりは紙を読んだ。
「そうですね」
イリスさんは、続けて書いた。
『ここなら、座ってから、決められます。』
ひよりは、入口の椅子を見た。
中に入るか。
今日は帰るか。
話すか。
話さないか。
座っているあいだに、決められる。
それは、とても大事なことのように思えた。
「イリスさん」
ひよりは言った。
「この椅子、ちょっとだけ場所を変えてもいいですか?」
イリスさんは、うなずいた。
ひよりは椅子を、入口の真正面から少し横へ動かした。
外の人と目が合いすぎない場所。
でも、店の中の明かりは見える場所。
「ここなら、入りたくなったら、すぐ入れます」
イリスさんは新しい位置に座ってみた。
それから、肩を少し下げた。
『いいです。』
夕方。
グラムさんが、約束どおりもう一脚を持ってきた。
その後ろには、なぜかブラムさんもいた。
「門の詰所に余ってた毛布だ」
ブラムさんは、丸めた毛布を差し出した。
「雨の日は、椅子だけじゃ寒いだろう」
「でも、詰所で使うんじゃ」
「二枚ある」
ひよりは受け取った。
毛布は少し硬かったけれど、きれいに洗われていて、陽の匂いがした。
「みなさん」
ひよりは、三つ並んだ椅子を見た。
小さなパンの包み。
壁際の毛布。
料金表の下にある、話さなくてもいい、の文字。
「ここ、整体所ですよ?」
「知っておる」
グラムさんが言う。
「身体を楽にする場所なんだろう」
「はい」
「待ってる身体も、同じだ」
ひよりは、何も言えなかった。
ルゥが、水差しからふわりと浮かんだ。
『待つの、座っていいんだね』
「うん」
『決められないときも?』
「うん」
『帰るときも?』
「帰るときも」
夕方の最後のお客さんは、入口の椅子に十分ほど座ってから、中へ入った。
名前は聞かなかった。
どこが痛いのかも、すぐには聞かなかった。
ただ、ひよりは入口を開けて言った。
「どうぞ。座れそうですか?」
相手は、小さくうなずいた。
ととのひ整体所には。
待つための椅子が、三つ増えた。




