第9話 治せないことを、言います
雨の日の、ととのひ整体所は。
少しだけ、静かだった。
入口の外に置いた三つの椅子には、誰も座っていない。
雨粒が屋根をたたく音だけが、やわらかく聞こえていた。
「ルゥ」
『うん?』
「椅子、濡れないかな」
『ちょっと濡れる』
「ちょっとなら、味です」
『それ、看板のときも言ってた』
ルゥは水差しから顔を出して、入口の方を見た。
『椅子、かたくなるかな』
「乾かせば、たぶん大丈夫」
『人も?』
ひよりは手を止めた。
「人も、かな」
そのとき、入口の戸が開いた。
入ってきたのは、深い紺色の外套を着た女の人だった。
雨を弾く布の端から、水滴がぽたぽた落ちている。
背筋がまっすぐで、腰には細い杖。
ひよりは、その杖に刻まれた白い紋を見て、すぐに分かった。
「治癒師さん、ですか?」
「そうです」
女の人は、まっすぐひよりを見た。
「ナディア。町の治癒師組合から来ました」
「ひよりです。どうぞ、座りますか?」
「いいえ」
ナディアさんは、入口の横の板を見た。
――待つ間も、休みましょう。
その下の料金表も読む。
――話さない日も、あります。
「あなたが、最近ここで人を診ていると聞きました」
「はい。診るというより、お話を聞いています」
「治療は?」
「できません」
ナディアさんの眉が、ほんの少し動いた。
「魔法は?」
「使えません」
「薬草は?」
「詳しくありません」
「では、何を?」
ひよりは、少し考えた。
「座ってもらって。吐いてもらって。身体が少し怖がらなくなる場所を、一緒に探します」
「……それで、治ると?」
「治る、とは言いません」
雨音が、一度だけ強くなった。
ナディアさんは、ひよりを見たまま言った。
「町には、あなたに治してもらった、と言う人がいます」
「そうですか」
「困ります」
「はい」
ひよりは、うなずいた。
「困ると思います」
ナディアさんは、少し意外そうな顔をした。
「反論しないのですか」
「私は、治せないものを治せるとは言いたくないです」
「なら、看板に書くべきでしょう」
「そうですね」
ひよりは机の上の炭の棒を見た。
書かなければいけないことは、たぶん、もっと前から分かっていた。
そのとき。
外で、椅子のひとつが倒れる音がした。
ひよりとナディアさんが、同時に入口へ向かう。
雨の中、若い荷運び人が石畳に手をついていた。
顔色が悪い。
片方の腕には、汚れた布が巻かれている。
「すみません」
若い人は、ひよりを見上げた。
「ここ、身体を見てくれるって」
ひよりは、しゃがんだ。
「座れそうですか?」
「少し……」
けれど、立とうとした腕が震えた。
ひよりは、その人を無理に起こさなかった。
代わりに、後ろを振り返る。
「ナディアさん」
治癒師は、すでに杖を握っていた。
「私が見ます。店の中へ運びましょう」
「はい」
ひよりはブラムさんを呼びに行った。
待つための椅子は、今度は人を支えるためではなく、通り道をつくるために端へ寄せられた。
ブラムさんが来るまでのあいだ、ひよりは若い人の肩に手を置いた。
「大丈夫、と言いません」
その人は、苦しそうに目を閉じた。
「でも、治せる人がいます。いま、ここに」
ナディアさんが、ひよりの横に膝をつく。
白い光が、雨の中で小さく灯った。
やがてブラムさんが駆けつけ、若い人は治癒師の施術所へ運ばれていった。
雨の音だけが、また戻る。
ひよりは、倒れた椅子を起こした。
座面には雨粒が残っている。
「……すみませんでした」
ナディアさんが言った。
「何がですか?」
「あなたが何も分からず、人を引き留めているのだと思っていました」
「分からないことは、たくさんあります」
「それでも、あなたはすぐに私を呼んだ」
「呼べる人がいたので」
ひよりは、椅子を元の位置に戻した。
「私のところで大丈夫なことと、大丈夫じゃないことを。ちゃんと、分けないといけません」
ナディアさんは、しばらく黙っていた。
「分けられる人は、案外少ないのです」
「そうなんですか?」
「治せる者ほど、全部を治せると思われますから」
ひよりは、その言葉を聞いて、少しだけナディアさんの顔を見た。
まっすぐな背中の人も。
きっと、たくさんの「全部」を背負わされている。
「ナディアさんも、座りますか?」
「私は結構です」
「そうですか」
「……いえ」
ナディアさんは、入口の椅子を見た。
「少しだけ」
治癒師は、ゆっくり椅子に腰を下ろした。
杖を膝に置いて、息を吐く。
「はぁー……」
ひよりは、何も言わなかった。
しばらくして、ナディアさんが小さく笑った。
「なるほど。これは、悪くありませんね」
夕方。
ひよりは、料金表の横に新しい板を掛けた。
文字は、いつもより少しだけ丁寧に書いた。
――急な痛み。深い傷。熱。息苦しさ。
――そんなときは、治癒師さんへ。
――ととのひ整体所は、治せないことを、治せるとは言いません。
最後の一行を書き終えたとき。
ルゥが、ひよりの肩の高さまで浮かんだ。
『ひより』
「うん?」
『治せないって、言っていいんだね』
「うん」
『できないって、追い出すことじゃない?』
ひよりは、雨上がりの通りを見た。
濡れた石畳に、夕方の光が少しだけ映っている。
「違うよ」
「その人が、ちゃんと助かる場所へ行けるようにすること」
その翌日。
ととのひ整体所の入口には、白い紋の小さな札が一枚、増えていた。
ナディアさんの施術所へ行く道を、矢印で示した札だった。
札の下には、細い字で一言だけ。
『迷ったら、聞いてください。』
ひよりは、その文字を見て笑った。
「ルゥ」
『うん』
「椅子、また一つ増えたね」
『札だけだよ?』
「行ける場所が増えたから」
ルゥは、少し考えてから。
『じゃあ、いい椅子だね』




