第10話 お昼休みは、町のなかに
ととのひ整体所の前に、三つの椅子が並んでから。
ひよりは、ときどき、外を見ている。
誰かが座っているかどうか。
ではなく。
誰も、無理に座っていないかどうかを。
その日のお昼前。
いちばん端の椅子には、見慣れない女の人が座っていた。
灰色の髪を後ろでひとつに束ね、藍色の染料がついた指先を、膝の上でそっと重ねている。
隣の椅子には、パンの包み。
でも、まだ開いていなかった。
「こんにちは」
ひよりが声をかけると、女の人は少しだけ顔を上げた。
「……こんにちは」
「座り心地、悪くないですか?」
「悪くはないです」
「よかった」
それだけ言って、ひよりは店の中へ戻ろうとした。
けれど、女の人が小さく呼び止める。
「あの」
「はい」
「ここは、治してくれる場所ではない、と」
「はい」
ひよりは、入口の横にある板を見た。
――ととのひ整体所は、治せないことを、治せるとは言いません。
「書いてありました」
「はい」
「正直で、困るなと思って」
ひよりは、少しだけ困った顔をした。
「すみません」
「謝ることじゃないです」
女の人は、パンの包みを見た。
「私は染め物をしています。朝からずっと、布を水に浸けて、絞って、干して。昼になると、腕が重くて」
「はい」
「治してほしいわけではないんです。ただ、お昼を食べる前に、少しだけ動けなくなる」
ひよりは、うなずいた。
動けない人には。
大きな理由があるときもあれば、ただ、お昼前まで働いたからという日もある。
それは、小さく見えても。
ちゃんと、困ることだ。
「中で座りますか?」
「いえ。ここがいいです」
「じゃあ、ここで」
ひよりは女の人の向かいの椅子に座った。
ルゥが水差しから、そっと浮かぶ。
『お昼ごはん、食べないの?』
女の人は驚いて目を丸くした。
「水の精霊さんですか?」
「ルゥです」
『ルゥです』
女の人は、少し笑った。
「ミナといいます」
『ミナ。お昼ごはん、冷めちゃうよ』
「そうなんです」
ミナさんは、困ったように笑った。
「食べれば午後も働けるって、分かっているのに。腕と背中が、まだ午前のままなんです」
ひよりは、手を出さなかった。
痛みが強い場所も、熱も、息苦しさもないことを、ゆっくり聞く。
それから言った。
「今日は、パンを開けるところまでにしませんか」
「食べるところまで、じゃなく?」
「開けられたら、だいぶいいと思います」
ミナさんは、包みを見た。
「変なの」
「よく言われます」
ひよりは、椅子の背にもたれた。
「腕は、いま、どこに置くのが楽ですか?」
「……膝の上より、椅子の背の方が」
「じゃあ、そこに」
ミナさんは、両腕を椅子の背に預けた。
肩が、ほんの少し下がる。
「吸う前に、吐きましょう」
「それも、書いてありました」
「読んでくれたんですね」
「正直で、困る看板の下に」
今度は、ひよりも笑った。
ふたりで、ゆっくり息を吐いた。
店の向かいから、荷車の音がした。
いつもの八百屋さんが、店先で止まる。
「おや。ひよりさん、今日は外で商売かい」
「休憩中です」
「誰の?」
「ミナさんの」
八百屋さんはミナさんを見て、ああ、と声をあげた。
「染め物屋のミナちゃんか。あんた、また昼を抜く気かい」
「抜くつもりは、ないんですけど」
「抜く人は、だいたいそう言う」
八百屋さんは荷車から、小さな黄色い実を二つ取り出した。
「これは甘い。パンのあとに食べな」
「でも」
「払うのは、元気な日にしな」
そう言って、八百屋さんは先へ行ってしまった。
ミナさんの前に、黄色い実が二つ残る。
『町の人、勝手に増えるね』
ルゥが言った。
「ほんとだね」
ひよりは、パンの包みを指さした。
「では、開けますか」
「……はい」
ミナさんは、包みの結び目をゆっくりほどいた。
中から、ミレアさんの丸いパンが出てくる。
湯気はもうなかったけれど、香りは、ちゃんとしていた。
「できました」
「できましたね」
ミナさんは、しばらくパンを見てから。
ひとくちだけ、食べた。
「おいしい」
「はい」
ひよりは、何もしていない。
椅子を出して。
隣に座って。
パンを開けるところまでにしただけだ。
でも、ミナさんの背中は、午前より少しだけ、ここに戻ってきていた。
午後。
ミナさんは染め物屋へ帰った。
「明日も、昼に座っていいですか?」
「もちろんです」
「お金は」
「今日は、パンを食べたので大丈夫です」
「それは、料金にならないでしょう」
「そうですね」
ひよりは少し考えた。
「じゃあ、次に元気な日に。染め物の話を聞かせてください」
ミナさんは、きょとんとしてから笑った。
「それなら、払えそうです」
夕方。
ひよりは、入口の板を一枚、増やした。
板には、こう書いた。
――お昼休みは、町のなかにあります。
――一人で取れない日は、座ってから探しましょう。
『お昼休みって、どこにあるの?』
ルゥが聞く。
「パン屋さんとか」
「八百屋さんとか」
「椅子とか」
「あと、話を聞いてくれる人とか」
『ひよりの店の中には、ないの?』
ひよりは、三つの椅子を見た。
空いた椅子。
毛布のある椅子。
それから、今日、ミナさんが座っていた椅子。
「あるよ」
「でも、ここだけにあるわけじゃないんだと思う」
ルゥは、少し考えた。
水色の身体が、夕方の光を受けて、やわらかく揺れる。
『じゃあ、ととのひ整体所は』
「うん」
『お昼休みを見つける、最初の椅子なんだね』
ひよりは笑った。
「それなら、いいな」
その夜。
ととのひ整体所の前には。
誰も座っていない椅子が、三つ並んでいた。
けれど、町のどこかでは。
パンを食べる人がいて。
甘い実を二つ、誰かに渡す人がいて。
白い札の矢印をたどる人もいる。
ひよりは店の灯りを消す前に、入口の板をもう一度見た。
――お昼休みは、町のなかにあります。
少しだけ、いい言葉だと思った。




