第11話 座らない子のための椅子
夕方の、ととのひ整体所は。
椅子が三つ、空いていた。
ひよりは、入口の灯りをつけようとして。
そこで、止まった。
「ルゥ」
窓辺の水差しから、小さな泡がひとつ浮かぶ。
『うん?』
「入口のところ、誰かいる?」
ルゥは、水色の身体を細く伸ばして、窓の外をのぞいた。
『いる』
「座ってる?」
『座ってない』
ひよりは、そっと戸を開けた。
店の壁際。
三つ目の椅子より、少しだけ遠いところに。
小さな子が、しゃがみ込んでいた。
年は、十くらいだろうか。
薄い外套のフードを、目が見えなくなるほど深くかぶっている。
靴は片方だけ泥で汚れ、両腕は胸の前で、きつく抱えられていた。
ひよりが戸を開けた音に、子どもの肩が跳ねる。
「こんばんは」
返事はなかった。
ひよりは、入口のすぐ外まで行かない。
木の椅子をひとつ挟んだところで、立ち止まった。
「ここ、座ってもいい椅子なんです」
子どもは動かなかった。
「でも、座らなくてもいいです」
それだけ言って、ひよりは店の中へ戻った。
ルゥが、水差しからふわりと出てくる。
『ひより。あの子、寒そう』
「うん」
『パン、あるよ』
「あるね」
ひよりは、昼に余った小さな丸パンを一つ、布に包んだ。
それから、ブラムさんが持ってきてくれた毛布を一枚、腕にかける。
「でも、近づきすぎない」
『あげないの?』
「置いてくる」
外へ出ると。
子どもは、さっきよりも小さくなっていた。
外套の裾から、細い足首が見える。
ひよりは、いちばん端の椅子の上に、毛布とパンを置いた。
「ここに置いておきます」
子どもの目が、フードの奥で動いた気がした。
「食べなくてもいいです。毛布も、使わなくていいです」
ひよりは、少し考えた。
「持っていっても、いいです」
そのとき。
子どものまわりの空気が、ぴり、と鳴った。
地面に落ちていた小さな石が、一つだけ浮かぶ。
すぐに、からん、と落ちた。
ルゥが、ひよりの肩の後ろに隠れた。
『水が、びっくりしてる』
ひよりは、子どもを見た。
子どもは石を見ていなかった。
自分の両腕を、もっと強く抱え込んでいる。
「ごめんなさい」
小さな声だった。
「……大丈夫ですか?」
「ちがう」
子どもは、かすかに首を振った。
「大丈夫じゃないから。出ていく」
立とうとした。
でも、足に力が入らないらしい。
ひよりは、手を伸ばさなかった。
「出ていかなくても、大丈夫です」
「こわいから」
「何がですか?」
子どもは答えない。
代わりに、フードの端から、黒いものが見えた。
髪ではない。
頭の横から、小さく伸びた角だった。
子どもは気づくと、慌ててフードを押さえた。
「見ないで」
「はい」
ひよりは、目をそらした。
店の看板のほうを見る。
少し曲がっている看板は、夕方の光のなかで、いつもより曲がって見えた。
「見ません」
「……どうして」
「見ないでって、言われたから」
子どもは黙った。
通りの向こうで、買い物帰りの人たちが足を止めている。
浮いた石と、角を見たのだろう。
ひそひそした声が、風に混じった。
「魔族じゃないか」
「こんなところに」
子どもの肩が、また固くなる。
地面の石が、二つ、三つ。
小さく震えた。
ひよりは、通りの人たちへ振り返った。
「すみません」
声は大きくなかった。
「ここ、今、休憩中なので」
それだけだった。
けれど、ひよりが入口の板を指さすと。
通りの人たちは、板を見た。
――待つ間も、休みましょう。
誰かが、気まずそうに目をそらした。
やがて、ひとり、またひとりと、歩き出す。
そこへ、ブラムさんが巡回の帰りにやって来た。
子どもの角を見て、足を止める。
ひよりは、先に言った。
「ブラムさん。この子、まだ座ってないんです」
ブラムさんは、しばらく子どもを見た。
それから、空いた真ん中の椅子に腰を下ろした。
「そうか」
腰の剣には、触れなかった。
「座るのには、時間がかかる日もある」
子どもが、ほんの少し顔を上げた。
ひよりは、ブラムさんを見た。
「よく来てくれました」
「通りが、少し騒がしかったからな」
「では、休憩中なので」
「休憩中だな」
ブラムさんは、まっすぐ前を見たまま答えた。
子どものまわりの石は、いつのまにか、動かなくなっていた。
しばらくして。
フードの奥から、また声がした。
「……ぼく」
ひよりは、返事を待った。
「ぼく、魔族だから」
「うん」
「悪いこと、するかもしれない」
「いま、していますか?」
子どもは、答えなかった。
「石が少し浮きました」
「ごめんなさい」
「びっくりはしました」
ひよりは、正直に言った。
「でも、誰もけがをしていません」
子どもは、また黙った。
「いまのあなたは。寒くて、お腹が空いていて。たぶん、ずっと、眠れていない人に見えます」
「……人じゃない」
「そうなんですね」
ひよりはうなずいた。
「じゃあ、寒くて、お腹が空いていて。ずっと眠れていない子に見えます」
ルゥが、ひよりの肩から少しだけ前へ出た。
『あのパン、まだあったかいよ』
「嘘だよ」
『ちょっとだけ、あったかい』
「ちょっとだけなら、味です」
ブラムさんが、ふ、と笑った。
子どもは、毛布の置かれた椅子を見た。
それから、ゆっくりと。
壁から手を離した。
一歩。
二歩。
椅子の前まで来る。
けれど、座らない。
パンだけを取って、外套の中へ隠した。
「持っていくんですね」
「あとで食べる」
「はい」
次に、毛布の端へ指が伸びる。
触れたまま、動かなくなった。
「これも、持っていっていいですか」
「もちろんです」
子どもは毛布を肩にかけた。
角が、布の下に隠れる。
そのとき初めて。
子どもの肩が、ほんの少し下がった。
「名前は、聞きません」
ひよりが言うと、子どもは目を丸くした。
「どうして」
「今日は、それだけ考えることが多そうなので」
子どもは、毛布を胸元で握った。
「……明日も、ここにいていい?」
ひよりは、三つの椅子を見た。
誰も座っていない椅子が、三つ。
でも、今夜は。
一つだけ、ちゃんと役に立っていた。
「いいですよ」
「座らなくても」
「はい」
「話さなくても」
「はい」
「魔族でも」
ひよりは、少しだけ笑った。
「今日は、それだけ分かれば充分です」
子どもは、毛布の中でパンを抱えたまま。
灯りの下にある、いちばん端の椅子へ近づいた。
そして。
座らずに、その椅子の足元へ丸くなった。
ルゥが、そっと水差しから浮かび上がる。
『ひより』
「うん」
『椅子の下も、いい場所なんだね』
ひよりは、眠りかけた小さな背中を見た。
「うん」
「今日は、そこがちょうどいいんだと思う」




