第12話 名前は、明日でもいい
朝になっても。
子どもは、椅子の下にいた。
いちばん端の椅子の足元。
毛布を頭まで引き上げて、丸いパンを胸のところに抱えている。
パンは、食べられていなかった。
でも。
昨日より少しだけ、眠っている顔だった。
「ルゥ」
ひよりが小さな声で呼ぶと、水差しの中で泡が揺れた。
『起こす?』
「ううん」
『お店、開けるよ?』
「今日は、少し遅く開けよう」
ひよりは看板を裏返した。
いつもの文字が、壁のほうを向く。
代わりに、小さな板を入口に出した。
――本日、少しゆっくり開けます。
それから、椅子の少し離れたところに、湯気の立つ椀を置いた。
ミレアさんが朝早く持ってきてくれた、野菜の入った薄いスープだ。
「パンだけだと、喉が渇くかもしれないから」
『ひより、あの子に言わないの?』
「起きたらね」
『冷めちゃうよ』
「冷めたら、また温める」
ルゥは少し考えてから。
『ひより、待つの得意だね』
「得意じゃないよ」
ひよりは、店の戸口に座った。
「でも、急かすのは、もっと苦手」
朝の光が、石畳を少しずつ明るくしていく。
小鳥が鳴き、荷車が一台、ゆっくり通り過ぎた。
やがて、毛布の下で、小さく音がした。
子どもが目を覚ましたらしい。
けれど、すぐには顔を出さない。
毛布の端だけが、ほんの少し動く。
「おはようございます」
ひよりが言うと。
「……おはよう」
かすれた声が返ってきた。
ひよりは、少しだけ笑った。
「眠れましたか?」
「わかんない」
「じゃあ、起きたとき、昨日よりつらいですか?」
毛布の中で、しばらく考える気配がした。
「……少し、まし」
「よかった」
毛布の隙間から、黒い瞳が一つだけ見えた。
すぐに、椀の湯気へ視線が移る。
「あれ」
「スープです」
「毒?」
ひよりは、少しだけ困った。
「違います」
「ほんと?」
「ほんとです」
「食べて」
「はい」
ひよりはもう一つ椀を持ってきて、スープを少しだけ分けた。
ひとくち飲む。
「おいしいです」
「……それだけ?」
「昨日より、少し甘いかもしれません」
『にんじんが入ってるから』
ルゥが言った。
子どもは、毛布の中からルゥを見た。
「しゃべる水」
『ルゥです』
「……ルゥ」
『うん』
子どもの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかどうかは、よく分からない。
でも、毛布から手が出た。
細い手だった。
ひよりは椀を子どもの近くへ寄せる。
「熱いので、ゆっくり」
子どもは椀を持ち上げた。
手首が震えている。
スープの表面が、こぼれそうに揺れた。
そのとき、椀が、ふわりと浮いた。
子ども自身も、びっくりしたように目を見開く。
「ごめんなさい」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない。こうなるから」
椀は、ひよりの膝の高さで止まっている。
傾いてはいない。
こぼれてもいない。
ひよりは、椀をすぐにつかまなかった。
「持ちやすい位置に、なったんですね」
「ちがう」
「そうですか」
「勝手に、なる」
「勝手に浮くと、困りますね」
子どもは、うなずいた。
「でも、いまはスープがこぼれないように、止まっています」
「……うん」
「じゃあ、一緒に下ろしましょうか」
ひよりは手のひらを、椀の下に差し出した。
触らない距離で待つ。
「吸わなくていいので。吐きます?」
子どもは、びっくりした顔をした。
「吐くの?」
「息をです」
「あ」
子どもは、ふ、と小さく息を吐いた。
椀が、ゆっくり下りてくる。
ひよりの手のひらの上で、ことん、と止まった。
スープは、まだ温かかった。
「できましたね」
「ぼくが?」
「はい」
「止めたんじゃない」
「下ろせました」
子どもは、その言葉をしばらく考えていた。
昼前に、ブラムさんが来た。
今日は剣を腰に下げたままでも、入口の外には置かなかった。
代わりに、小さな木箱を抱えている。
「何ですか?」
「詰所に余っていた、湯たんぽの石じゃ」
箱の中には、布で包まれた平たい石が二つ入っていた。
「火で温めると、しばらくあたたかい」
「ありがとうございます」
「礼は、まだ早い」
ブラムさんは、毛布の中の子どもを見た。
「町の預かり所にも、話はしてある。だが」
子どもの肩が、ぴくりと動いた。
ブラムさんは、その動きを見て、すぐに続けた。
「今すぐ行けと言う話ではない」
ひよりも、うなずく。
「ナディアさんにも、あとで来てもらいます。怪我や熱がないか、見てもらうだけ」
「見ないで」
子どもが、急に言った。
「角」
「見ません」
「身体も」
ひよりは、少し考えた。
「触らないで、見てもらう方法を聞いてみます」
「できるの?」
「聞いてみないと、分かりません」
子どもは、また毛布を握った。
午後。
ナディアさんは、白い紋の杖を持って来た。
でも、施術所で着ていた外套ではなく、やわらかい灰色の上着だった。
「こんにちは」
子どもは答えない。
「私はナディア。治癒師です」
少し間を置いてから、ナディアさんは言った。
「あなたが嫌なら、触りません」
子どもの黒い瞳が、ナディアさんを見る。
「……角、見ない?」
「見ない」
「魔族だから」
「知っています」
「こわくない?」
ナディアさんは、すぐには答えなかった。
「少し、驚きました」
ひよりは、ナディアさんを見た。
正直な答えだった。
「でも、驚いたことと、あなたを追い出したいことは、別です」
子どもの肩が、少しだけ下がる。
ナディアさんは、杖を壁際に立てかけた。
「遠くから、熱と息だけ見ます。嫌なら、首を振って」
子どもは、迷ってから。
小さく、うなずいた。
白い光は、出なかった。
ナディアさんは目を閉じて、しばらく静かに息をしていた。
「熱はない。息も、いまは落ち着いています」
「いまは?」
「眠れていないぶん、疲れています」
ナディアさんは、ひよりにだけ聞こえるくらいの声で続けた。
「今夜は、温かいところで眠らせた方がいいでしょう」
ひよりは、入口の椅子を見た。
毛布の下の、小さな足を見た。
「はい」
夕方。
ひよりは、店の奥の小部屋に敷布を一枚敷いた。
壁際。
戸口が見える位置。
すぐ外へ出られるように、戸は少しだけ開けておく。
「ここで、今夜だけ寝ますか?」
子どもは、敷布を見た。
「鍵、かける?」
「かけません」
「出ていっても?」
「出ていっても」
「朝までいても?」
「朝までいても」
子どもは、長いあいだ黙っていた。
それから、毛布を抱えて小部屋に入った。
敷布の上には座らない。
戸口のすぐそばに、しゃがみ込む。
「そこが、いいですか?」
「……うん」
「分かりました」
ひよりは、隣の部屋の長椅子に、自分の薄い敷布を広げた。
『ひよりも、そこで寝るの?』
「うん」
『狭いよ』
「ちょっとだけなら、味です」
ルゥが、くるりと傾いた。
『それ、毛布でも言う?』
「毛布では、言わないかな」
夜が深くなる。
小部屋からは、何度か寝返りの音がした。
でも、石が浮く音はしなかった。
しばらくして。
暗がりの向こうから、小さな声がした。
「ねえ」
「はい」
「名前、言わないと。ここに、いられない?」
ひよりは、目を閉じたまま答えた。
「いりません」
「明日も?」
「明日も」
「いつ言えばいいの」
「言いたくなった日で、いいです」
小部屋が、静かになる。
ひよりは、もう眠ったのかと思った。
けれど最後に。
「……名前は」
子どもの声が、少しだけ柔らかくなった。
「明日でも、いいんだ」
「はい」
その夜。
ととのひ整体所には。
名前をまだ知らない子どもが、一人。
敷布の端で、朝まで眠った。




